2022年6月15日

ジョゼフィーヌのもうひとつのシャトー

ナポレオン皇帝の最初の妃ジョゼフィーヌが、パリ近郊のマルメゾン城をこよなく愛し、そこで生涯を閉じたのはよく知られているし、訪問した日本人も多い。けれども徒歩で10分の所にあるもうひとつのシャトー、ボア=プレオは、ほとんど知られていない。 私も訪問したことがない。

ところが、「フランス芸術報道組合」の定期総会を、何とそのシャトーでおこなうことになり、メンバー20人がパリから貸し切りバスに乗って、まるで遠足気分で向かったのです。総会は一年間の活動とか経費詳細などの発表が主で、正直言ってほとんど興味がない。でも、ボア=プレオ城で開催となると、別。

まず、マルメゾン城をディレクターの丁寧な解説付きで見学。休館日に特別に開けて下さったのです。その後歩いてボア=プレオ城に向かう。そこで約1時間の定期総会。

いつ見ても優美なマルメゾン城

コンサートルームは久しぶりに拝見。
ジョゼフィーヌだけでなく、
娘も息子もピアノがとても上手でした。

庭園のバラが満開。
ジョゼフィーヌは250種ものバラを育てていたのです。

爽やかな庭園で笑顔で記念撮影。
庭園をたくさん歩くので、気軽な服装と歩きやすい靴。

17世紀に建築されたボア=プレオ城は、多くの人の手を経て1920年にアメリカ人の大富豪夫妻が購入し、1926年に国に寄贈。その時の条件は、ナポレオンに捧げるミュージアムにすること。それに従い、皇帝がセント・ヘレナに捕らわれの身として暮らしていた時の館が再現されたり、そこで皇帝が実際に使用していた家具も展示し、7500冊もの蔵書やその他の資料なども展示。

マルメゾン城から徒歩で10分後、ボア=ブレオ城が見えてきました。

シャトーの手前で、かつてのフランス皇后の像が待っています。

均整が取れた優美な姿を見せるボア=ブレオ城。
ジョゼフィーヌの時代には左右に翼棟があったのを、
後年のオーナーが取り去って庭園を広げたのです。


ジョゼフィーヌが世を去った後、数人の人の手を経て改造もされ、その間にシャトーがかなり老朽化し、大々的修復を行うために、30年ほど閉めることになったのです。

「リニューアル後最初にシャトーの中に入るのは、あなたたち」
とディレクターに言われ、大歓声。このような場で総会を開けるのは、幸運だし名誉なこと。

シャンデリアや金箔の装飾、窓からは広い庭園が見える。
ここで1時間の総会があり、その後はドリンクタイム。

修復工事はほとんど終わり、今年秋に再オープンし、ジョゼフィーヌが最初の夫との間に持ったウジェーヌに捧げる展覧会を開催する予定。彼は母ジョゼフィーヌ亡き後、シャトーのオーナーになっていたのです。

ナポレオンはこの義理の息子の軍人としての勇気と実力を高くかい、イタリア副王に任命し、ナポレオンの数多くの戦いで活躍。ウジェーヌはバイエルンの王女と結婚し、二人の間に生まれた長女ジョゼフィーヌは、スウェーデン王太子オスカルの妃になり、後に国妃となり、その子孫が代々スウェーデン国王です。

ジョゼフィーヌ亡き後オーナーになった
息子のウジェーヌ。

ウジェーヌと結婚した
バイエルン王女、アウグステ。

ウジェーヌ夫妻の長女ジョゼフィーヌ。
スウェーデン王太子オスカルと結婚し、
後に夫が国王オスカル1世になり、ジョゼフィーヌは王妃に。

ナポレオンの妻ジョゼフィーヌがマルメゾン城を買ったのは1799年で、当時、ナポレオンはエジプト遠征でフランスを留守にしていたのです。その間にジョゼフィーヌは勝手に高額でシャトーを買い、ナポレオンは最初は激怒。でも、妻に恋い焦がれていた夫は、支払いに苦しみながらも簡単に許したのです。

高価な家具や絵画、彫刻で飾ったマルメゾン城がすっかり気に入っジョゼフィーヌは、そのすぐ隣のボア=プレオ城を1810年に手に入れ、二つのシャトーの間にあった壁を取り払って敷地を拡大。子供が生まれないために皇帝から離婚された後も、皇后の称号を保っていたジョゼフィーヌは、この二つのシャトーに最後の日まで暮らしていました。

離婚後マルメゾンに暮らすようになったジョゼフィーヌは、
そこでも洗練された社交を続け、多くの崇拝者を得ていました。
ナポレオンの敵だったロシア皇帝アレクサンドル1世を迎えるジョゼフィーヌ。
左がアレクサンドル1世。右手に息子と娘、2人の孫。
ジョゼフィーヌの前の小さい孫は後のナポレオン3世。

ナポレオンが失脚し、セント・ヘレナ島に流刑される前に、亡き妻ジョゼフィーヌがこよなく愛し生涯を閉じたマルメゾン城を訪れ、さめざめと涙を流したと記録されています。粗野だったナポレオン皇帝の宮廷を、優美な装いと社交で補い、フランスのアール・ドゥ・ヴィーヴルを世界に認知させたジョゼフィーヌは、ナポレオンが「比類なき女性」と呼んだ人。彼女の吐息が至る所で感じられるマルメゾン城とボア=プレオ城。ジョゼフィーヌが外国からフランスにもたらした花々が咲く庭園も見逃せない。

2022年6月10日

庭園の中の「庭園展」

 パリ中心にある「チュイルリー公園」は、以前の宮殿の庭園だったので「チュイルリー庭園」と呼ぶのがふさわしい。フランス語では庭園です。

呼び方はどうであろうと、チュイルリー庭園は左右対称のフランス式庭園の代表的存在で、このような場で気楽に憩えるのはうらやましい限り。

四季折々の花を観賞できるだけでなく、何もないまっさらな個所は、パリコレの会場になったり、クリスマスマーケットや遊園地になったり、近代アートの青空会場になったり、いろいろな顔を見せ、今回は庭園展会場。

趣向を凝らした展示が結構多く、さすがアイディアに長けたフランス人だと感心しながら散策。特に気に入ったのをいくつかご紹介します。

幸い好天気に恵まれ大変な人出。
自然が好きな人は性格がいいのか、誰もが感じいい。

インパクトがある、かなり大掛かりな庭園。
準備に何日かかったのかな、とそれも気になった展示。


奥に何があるか期待を呼ぶ庭園。
広大な敷地の別荘にふさわしいコンセプト。

庭仕事のときもオシャレをしましょうと、
カラフルな服や帽子がいっぱい。

壁にかけるミニ花飾り。

ベランダの壁にもぴったりな、垂直な花装飾。

数種類の植物を一度に飾れる階段式ベース。


いろいろ見て回って展示作品のベンチで一休み。
椅子やベンチは数カ所にあり、自由に座っていいと寛大。

2022年6月3日

ショパンが生涯を閉じた館

ヴァンドーム広場に面したかつての貴族館は、それぞれ美しい物語を秘めているけれど、私がもっとも惹かれるのは、ショパンが最後の日々を送った12番地の館。 現在は、世界に名を轟かせている高級宝飾店ショーメの本店になっています。

フレデリック・ショパン(1810-1849)


1810年にポーランドで生まれたショパンは、7歳のときにすでに才能を発揮し、ポロネーズを作曲。青年になると当然のようにワルシャワ音楽院に入り、首席で卒業します。それから間もない1830年、ウィーンに滞在している間にポーランドで反乱がおきます。ロシア帝国のポーランド支配に激しく抗議するこの反乱は、結局、ロシア軍によって沈圧され、ショパンは祖国に帰らずパリに移住する決断を下します。1831年、ショパンは21歳でした。

当時、多くの文芸人が暮らしていたパリで、人脈を広げ、作曲家の名声を得るようになったショパンは、貴族を中心とした社交界でもてはやされます。ところがフランスで1848年に「2月革命」が起き、ピアノのレッスンやコンサートどころではなくなり、収入も激減。幸いなことにショパンの才能を高く買っていたスコットランドの貴族夫人の誘いで、4月20日イギリスに渡り、レッスンやプライベートコンサートで徐々に名を広め、7月7日にはヴィクトリア女王前で御前演奏を行うほどになったのでした。


パリ、サン・ルイ島の貴族館のソワレで、
ピアノの演奏をするショパン。


けれども、小さいころから肺が弱かったショパンの体は、結核にむしばまれます。ロンドンの暗い気候も彼の健康に悪影響を与えていたようです。そうした中で、1848年11月16日、ポーランド避難民のためにオーガナイズされた慈善コンサートで、衰弱していた体ながら力を振り絞って演奏。それが彼の最後のコンサートになったのでした。その後ロンドンを離れ、懐かしいパリに戻ります。

それ以前の1831年からパリに暮らしていたショパンは、何度か住まいを変え、記録に残っている住所だけでも8ヵ所にものぼります。ロンドンからやせ細った体でパリに着いたピアノの詩人は、1848年末に牧歌的情緒あふれるシャイヨの丘(現在のトロカデロ)にあった友人の家で静養し、翌1849年9月、ヴァンドーム広場12番地の館に移ります。

1702 年に建築されたその邸宅は、数人の貴族の手を経て、1814年に大富豪の銀行家イサック・チュレがオーナーになります。二人目のオーナー、海軍財務長官の名を冠してボダール・ドゥ・サンジェイムス館と呼ばれていました。

ルイ14世の時世の1702年に建築された広場は、当初は「ルイ大王広場」と呼ばれていて、
国王の栄光を称えるために、中央に王の騎馬像が置かれていました。
広場を囲むように同じファサードの貴族館が建てられ、高位の貴族たちが競って購入。
そのひとつに後年、ショパンが住んでいたのです。

絵は、1760年、ルイ15世の時代の広場。建物はこの時代のまま保存されていて、
中央の国王の騎馬像のかわりに、ナポレオンが頂上に君臨する円柱が設置されています。
ショパンが12番地に住んでいた時代も、ナポレオンの像がある円柱でしたが、
現在のより小さい像でした。12番地の館は絵の右手前に見えます。



銀行家の広大な館の一角に住むようになったショパンは、最後が近づいたのを察したのか、姉ルドヴィカにパリに来るよう嘆願し、8月9日、姉と弟は再会の喜びの涙を流します。ショパンが借りていたのは7部屋もあり、ルドヴィカはその一室に暮らしながら、弟の世話を献身的にします。家賃は大変高かったけれど、彼の長年のメセナがそのほとんどを払っていたようです。
ショパンが最後の日々を過ごしていた、
18世紀に建築された貴族館の優美な階段。
ショーメになった現在も、この階段は残っていて、
階上で時折催されるイヴェントの際に何度かのぼり、その度に感激しています。


ショパンのミューズだったポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人も、10月15日にお見舞いにかけつけます。ショパンの希望で部屋にピアノが運ばれ、美しい伯爵夫人の歌声に、病の苦しみを和らげていました。

ポーランド人のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
(1807-1877)

ショパンの希望でピアノが寝室に運ばれ、
彼のミューズだったポトツカ伯爵夫人が
透き通るような美しい歌声で苦痛を和らげました。


それから2日後の10月17日朝2時、ロマン派の「ピアノの詩人」は愛する人々に囲まれながら、息を引き取りました。

死の床のショパン。
椅子に腰かけているのがポーランドから駆け付けた姉、ルドヴィカ。
ショパンの前に立っているのは、
ポーランド伯爵夫人でピアニストのチャルトリスカ。


葬儀はマドレーヌ教会で10月30日に行われ、ショパンの遺言に従ってモーツアルトの「レクイエム」とショパン作曲の「葬送行進曲」が演奏され、その後ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。心臓は姉ルドヴィカによって、懐かしい生まれ故郷ポーランド戻り、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に治められました。それもショパンが望んだことでした。

ショパンが生涯を閉じた館の外観を見ていると、彼がパリに住み始めたころに作曲した「別れの曲」の、心の奥に染み入るような、美しく悲し気な旋律が聞こえてくるようです。戦火の故郷ポーランドを思う切ない心情が表現されていると言われる「別れの曲」。実際にショパンは、その曲のレッスンをしている時に、「ああ、我が故郷」と泣き崩れたこともあったという。


「ピアノの詩人」はこの旧貴族館の2階で39歳の生涯を閉じました。

2022年5月29日

楽しい光景に巡り会った日

暑かったり、逆に寒かったり、ちっとも落ち着かないパリの気候。それにもかかわらず、日課のお散歩であちこち回っていると、楽しい光景に巡り会える。

アヒルの親子が連れ立ってお出かけ。
子供服専門店のディスプレイに、心がホカホカ。
お気に入りのタオルを引きずっているべべが、たまらなくかわいい。

池ではカモの雛たちが板に乗って大喜び。

漂流して岸に着いても板から離れたくないみたい。


親はその間にお昼寝。

青空にフカフカの雲がいくつも浮かんでいて、気持ちよさそう。
それに乗ってどこかに行きた~い。


赤いジャケットのママンと、大きな白い犬と小さい黒い犬。
色の組み合わせがおしゃれな3人?のプロムナード。
背丈のバランスもとれていて、絵になる。


赤信号だから、じっと待たなければ。
右も左も頑丈そうな足と靴。危険がいっぱいだから、一歩下がって待つのだワン。


2022年5月24日

「母の日」が近いので、香水のパブリシティが激増

 フランスの「母の日」は5月最終日曜日で、今年は29日。

この日にお花をプレゼントするのは、昔からの習慣。日本のようにカーネーションではなく、バラが圧倒的に多い。それも、愛を表す赤。バラの次に人気があるのはアジサイ。カーネーションはヨーロッパの国では、お供えのお花なので気を付けなければ。お食事などに招待されたとき、カーネーションを持っていかないこと。

子供たちが絵を描いてプレゼントすることもあるし、家族揃ってレストランに行くのもクラシックなお祝いの仕方。

テレビや街中で香水のパブリシティが増えるのも、例年のこと。特にテレビでの広告は、異常なほど多い。しかも、続けざまに流すので、まるで香水のコンペティションみたい。

花園のようなウインドーが道行く人の足を止める、老舗の香水店ゲラン。

シンプルなボトルとミステリアスな香り。
鬼才セルジュ・ルタンスの香水「フェミニテデュボア」が誕生して30年。
その記念の限定エディション。


有名なメゾンの香水もいいけれど、「あなただけの特別なフレグランス」を調合してくれる香水店が、最近ますます人気を呼んでいます。個性を重んじるパリジェンヌは、誰も彼もつける香水では満足しない。たしかに香水は、その人が立ちさった後も香りを残し、アイデンティを表現することもあるのだから、こだわるのもよくわかる。

小さいながら、ひと目をひくディスプレイ。
色使いがおしゃれ。

天然香料にこだわる、自然派のフレグランス専門店が
かなり増えている。


香水をプレゼントするのは母の日とクリスマスが圧倒的に多い。でも、いつも思うのです。香水を洋服のようにコロコロ変えるわけにはいかない、と。だから、プレゼントする相手が愛用している香りをしって、それと同じのにするのがいい。

それにしても、フレグランス専門店がますます増えているパリ。心地よい香りが心を癒してくれるのはたしかだから、いろいろな出来事で疲れている現代人にとって、欠かせない存在かもしれない。

テレビや雑誌だけでなく、バス停にも香水のパブリシティ。


シャネルは「香水をつけない女性に未来はない」と語っていたほど、香りは女性にとって大切。シャネルと言えば、長い間リニューアル工事で閉まっていた、ヴァンドーム広場のファイン ジュエリー本店が再オープンしたばかり。「母の日」の直前で最高のタイミング。さすがシャネル。

リニューアルオープンしたばかりの、シャネル ファイン ジュエリ―本店。

2022年5月23日

シャンゼリゼで野外シネマ

 カンヌ国際映画祭開催中の5月22日、日曜日、シャンゼリゼで1750人が野外シネマを満喫。この無料上映会に参加したい人は、事前に登録し、抽選で決まる仕組み。

歩行者天国になった幅広いシャンゼリゼに、座り心地がいい椅子が整然と並べられ、凱旋門の手前に設置された144m²もの巨大スクリーンで、映画を楽しめる。なんてステキなアイディア。とは言うものの、すでに2回、同じ企画がありました。

シャンゼリゼの野外シネマは、ご覧の通り大掛かり。
ここでレディー・ガガ主演の「スター誕生」が上映されたのです。
©comité Champs-Elysées

今回上映されたのは「スター誕生」。歌手のレディー・ガガ主演で、俳優ブラッドリー・クーパーが初の監督を務めた話題作。2018年にアメリカで公開され、いくつもの賞を獲得した、レディー・ガガのサクセスストーリー。夜空にサウンドトラックが響き渡るのだから、この上ない贅沢。一晩限りの貴重なイヴェントです。

私がこの企画を知ったときには、申し込みはすでに終わっていたから、参加できなかった。登録は5月2日からだったのです。ああ、残念。来年もこうしたイヴェントがあるかわからないけれど、4月末から気を付けていよう。

それにしても、様々なイヴェントが開催されるごとに、まったく異なる姿を見せるシャンゼリゼ。そのたびに、思いがけないアイディアにも、限られた時間で実現する能力にも驚かされる。それを許可する寛大な心も、うらやましい。

1900年、ベル・エポックのシャンゼリゼ。
フランス人がもっとも好きなこの時代を、いつか再現する日が来るかも。
もしかしたら、2024年のパリ・オリンピックの際に、と期待しているけれど・・・

両サイドに背が高い並木が植えられた全長2km、幅70mのシャンゼリは、単に「世界でもっとも美しい通り」であるだけでなく、「世界でもっとも優れた変身をとげるアヴェニュー」でもある。

2022年5月18日

カンヌ国際映画祭開幕

 待ちに待ったカンヌ国際映画祭が5月17日に開幕。

2022年のカンヌ国際映画祭の
オフィシャル・ポスター。

各映画が競い合う「パルム・ドール」


会場にはソワレドレスとタキシードに身を包んだ、俳優や監督など映画関係の人が集まり、コロナ以前と同じ華やかなオープニングセレモニー。それをテレビでみていたら、突然、ウクライナのゼレンスキー大統領の顔が、舞台上の大きなスクリーンに現われてびっくり。

厳しい表情で大統領は呼びかけます。
「戦争に直面している今、映画がサイレント(沈黙)ではないことを証明する新しいチャップリンが必要なのだ」
予定していない事だったので、会場には驚きが広がりましたが、それは一瞬で、すぐに割れるような拍手が舞い上がり、長い間続いたのです。
ゼレンスキー大統領はチャップリンが監督、主演、制作した、ヒトラーを痛烈に非難する「独裁者」を言及したのです。無声映画が続いていた当時、本格的トーキーの作品として制作したのが「独裁者」。沈黙していることを止めて声をあげたのです。

バルーンの地球儀で遊ぶチャプリンス扮する独裁者。

大統領は続けます。
「我々はこれからも戦う。他に選択の余地がないのだから。我々は勝利を勝ち取らなければならない」
映画界がウクライナの現在の状況に沈黙しないよう呼びかけ、誰もが悲惨な戦いに心を痛めた瞬間でした。
その後は通常通り開会宣言があり、75回目のカンヌ国際映画祭が始まり、28日まで続きます。楽しみなのは、毎日映画祭の様子をテレビでみれること。しかもフランス公共テレビの夜8時のニュースで。この期間中にカンヌに来るジャーナリストは約4000人。まさに、国を挙げての大イヴェントです。

世界中から来るスターを見ようと、たくさんの人が集まり、
独特な雰囲気がある映画祭。
幸運なことに私も数回招待状を受け取り、
歓声に包まれながらレッドカーペットをのぼりました。
貴重な体験でした。

レッドカーペットの両サイドで写真を撮る際は、カメラマンもタキシード。
400~500人に許可書がでる狭き門。
写真はフォトコールでの撮影なので、リラックスした服装。