2018年6月10日

ナポレオンとジョゼフィーヌが結婚した区役所

ナポレオンとジョゼフィーヌが結婚したのは、オペラ座近くにあったパリ2区の区役所。当時ジョゼフィーヌが2区に暮らしていたためです。

フランスでは結婚式を2度おこないます。区役所での市民結婚と教会での宗教結婚です。
これは正式な結婚で、最近は市民結婚だけで終える人も多いです。万が一、離婚することになった場合、この方が手続きはずっと簡単です。

17世紀の貴族館。
ここに2区の区役所があり、
ナポレオンとジョゼフィーヌが市民結婚式をあげました。
2区の区役所はルイ14世の時世に建築された、高位の旧貴族館にありました。
現在その館はBNP PARIBAS銀行所有になっていて、ディレクターが使用しているので、通常、中に入ることは出来ません。

けれども、フランス・ナポレオン史学会が特別許可を取ってくださったお陰で、銀行係り員の説明付きで、じっくり拝見出来たのです。

待ち合わせの時間前から史学会会員が多数集まり、皆、一刻も早く建物の中に入りたくてワクワクしながら言葉を交わしていました。私もそのひとり。

入り口のセキュリティの人に笑顔を振りまきながら中に入り、その奥の受付で史学会が前もって登録していた名前を告げる。その後、別のセキュリティの人の指示に従って階段をのぼる。かなりの古さから、建築当時のものではないかと感激。

のぼりきったところに広い空間があり、自然採光が入るようにガラスの天井が張られている。貴族館時代に中庭だったその中央に、ルイ14世の青銅の騎馬像が見える。
ルイ14世の騎馬像が
旧貴族館だった時代の中庭の中央で、
凛とした姿を見せています。

この近くにルイ14世広場が造られ、そこに置かれていた国王の巨大な騎馬像のレプリカでかなり貴重なものだそう。その広場が現在のヴァンドーム広場で、中央の円柱の上ではナポレオンが君臨しています。

ナポレオンとジョゼフィーヌが市民結婚をした部屋。
旧貴族館のアンビアンスがあります。

洗練されたインテリアがいかにもノーブル。

この日のハイライトのお部屋はその奥です。
1796年3月9日、市民結婚を行うためにジョゼフィーヌは時間通りに到着。
ところが結婚相手のナポレオンの姿が一向に見えない。

区役所の役人も証人も、イライラし始めたころ、ナポレオンが荒々しく部屋に入ってきて、早く式をあげてとせかせる。

鏡の前のジョゼフィーヌの素焼きの像。
右におふたりがこの部屋で結婚したと書かれた文があり、
左が結婚証明書。
自分がうつり込んでいるのも知らず、無我夢中。
愛用の携帯ががんばります。

結婚式の日に証明書に2人が記したのは、偽りの生年月日でした。
後日、結婚証明書の裏にほんとうの生年月日を書いたそうで、
これがその証拠。

ナポレオンは1768年2月5日生まれではなく
1769年8月15日生まれ。

ジョゼフィーヌは1767年6月23日生まれではなく
1763年6月23日生まれ。
あたふたと式をあげ、結婚証明書に記入するとき、新郎も新婦も年齢をいつわったのでした。ナポレオンは26歳でしたが28歳とし、32歳のジョゼフィーヌは28歳と記入。

けれども後にそのごまかしが分かり、結婚証明書の裏に訂正文を書いています。貴重な歴史を語る資料に、誰もが感動。もう、これは絶対に写真を撮らないとと、カメラや携帯がパチパチ音を響かせ、皆、大満足。


私たちも、もちろんジョゼフィーヌと一緒に記念撮影。
こちらのマダムのリクエストでまたお写真を。
唯一の日本人だから、こういうときだけ人気。

このレストランでお食事。
お料理はぜんぶトラディショナルで、
私にはちょっと重かった。

その後徒歩でレストランに行き、いつもの通り「皇帝バンザイ」と高らかにカンパイ。話題はもちろんナポレオン。

歴史と現在が奇妙に交差する不思議な日でした。

2018年6月7日

メトロの駅名は語る 88

Félix Faure
フェリックス・フォール(8号線)

フランス大統領を務めた政治家の名です。
 
フェリックス・フォール(1841-1899)

フォ―ルの政治家としてのキャリアは、港町ル・ア―ヴルの町議会議員で始まります。
1870年、ナポレオン3世の第二帝政が崩壊し、第三共和制が生まれると、フォ―ルは熱烈に新体制を支援します。

熱意が認められ、矢継ぎ早に重要な職につくようになり、海軍大臣に就任した後、1895年、フランス大統領に選出されます。フォ―ルは54歳でした。

フォ―ルが大統領だった時代のもっとも大きな出来事は、ドレフュス事件です。陸軍参謀部につとめるユダヤ人のドレフュスが、スパイ容疑で逮捕され、国は有罪、無罪で二分されます。

ドレフュスの軍法会議。

軍法会議で有罪判決が下り、一貫して無罪を主張していたドレフュスは流刑。
その間に真犯人が判明しますが、事実はうやむやにされ、南米近くのデビルズ島で生涯を過ごすドレフュスの運命は変わりませんでした。

怒りに燃えた作家エミール・ゾラは、フォ―ルに宛てた非難の文を新聞に投稿。ゾラは名誉棄損で逮捕され、後にイギリスに亡命します。

フランス領ギアナのデビルズ島でのドレフュス。

この事件の真っただ中で、フォ―ルは大統領官邸のエリゼ宮殿で、突然、世を去ったのでした。1899年のことで、それからわずか4カ月後、ドレフュスは特赦を受け釈放され、1906年、無罪判決を勝ち取ります。

エリゼ宮殿で倒れ、息を引き取ったフォール大統領。

エリゼ宮殿でのフォ―ルの死はドラマティックだったようです。
1899年2月16日、フォ―ルは愛人マルグリットに電話をかけ、夕方5時ころに会いに来るよう伝えます。

ドレフュス事件に関して、パリ枢機卿とモナコ君主との話し合いがそのころ終わるとみていたのです。

マルグリットが到着し、しばらく個室で語り合っていたとき、突然、マルグリットの悲鳴が聞こえました。その声に数人が急いで部屋に入ると、大統領が長いすに横たわっているのが見えました。

フォ―ルはチョッキのみの姿で、マルグリットは乱れた服を直しているところでした。
この状態を知った新聞は、フォ―ル大統領はエリゼ宮殿で愛人の腕の中で息絶えたと書き立て、大スキャンダルになったのです。

正式の発表によると、フォ―ルの死因は心臓発作。
ドレフュス事件が彼の寿命を縮めた、とも言われています。

いずれにしても、エリゼ宮殿で世を去った唯一の大統領と、いつまでも語られているのは気の毒です。

2018年6月4日

パリにふさわしい粋なポリス

数年前から馬で巡回するポリスがパリにいましたが、最近は割と頻繁に見かけます。路上だけでなく公園でも巡回する馬上のポリスは、とてもカッコいい。

まるで映画のひとこまのようで、ついつい見とれてしまう。
これが現実なんて、やはりパリはお洒落。

赤信号だからストップ。
信号が変わった、では前進。

歩をきちんとそろえながら、車とも共存。
パリの粋な光景。

馬の上からだと遠くも見渡せるし、いざというときに勢いよく駆けることもできる。細い道路も問題ない。

お馬さんの目が優しく澄んでいて、心の慰みにもなるし、ひずめの音も快適。
平和な空気をあたり一面に漂わせるこのアイディアに、カンパ~イ🍷

2018年6月3日

パリの犬たち 171

結構、記憶がいいのよ

あっ、この人会ったことがあるワン。
この顔に見おぼえがあるモン。
エ~ト、エ~トですね、
ちょっと向きを変えると思い出すかも。

そう、
この間ママンとサンジェルマンデプレで
おしゃべりしていた、あの人。

何しろ、歩道の真ん中でいつまでもおしゃべりしていて、
かなりうんざりしたから、バッチリ覚えている。

ああ、ワタシの記憶力ってすご~い。ほんとうにすご~い、すご~いワン。

2018年6月1日

チュイルリー公園の庭園展

今年もまた、チュイルリー公園の庭園展にいそいそと出かけました。
フランス人の感性を発揮したガードニングは、やはり見応えがあります。
これもいい、あれもいいと、お庭がいくつあっても足りないほど魅惑的。

市内ではアパルトマンに暮し、週末は庭付き別荘ですごすパリジャンがとても多い。つまり、自然が大好き。

パリジャンのウイークエンドは金曜の午後に始まり、そのたびに郊外の別荘に行く。このように、人生を最大にエンジョイしているのです。

それでは、ご一緒に庭園展を散策しましょう。

庭園の中の庭園展、というのがおしゃれな発想。
郊外でなく、パリの中心なので行きやすい。
メルヘンの世界を見るような展示法が魅力。
紫系統のお花は品格があって大好き。
こんあお庭が持てたらいいな。
人工的でなく、自然らしい自然がいい。
グッズの展示もあります。
カラフルで楽しさいっぱい。履き心地、歩き心地もよさそう。
こちらもカラフル。試しに寝そべってみたら、
すごく気持ちいい。お昼寝や読書に最適。

ビーチに持参もいいかも。


ワンちゃんの置物もありました。
結構リアルな顔なので、「元気?」と声をかけてしまいました。

精力的に見て回って、体がスイーツを要求したころ、
このスタンドを見つけました。

ナンとフルーツのジュース、ヨーグルト、クレープなどを宣伝のために、
無料でサーヴィス。ブルーベリージュースをいただきましまた。
パワーアップして、またあちらこちら歩いていたら、
突然、立派な囲いが見えるではないですか。

何事かと中に入ると、そこはシャネルの庭園。
シャネルの香水に使用しているお花を植えているのです。
ここはパリにいながら南仏。

その奥には香水の香りをトライするコーナーもあり、
さすがグランメゾンと感心。
出口近くでは、バカラのポエティックでノーブルなデイスプレイが
多くの関心を引いています。

6月3日までの短期間ですが、パリにいらしたらぜひ足を運んでくださいネ。

2018年5月28日

メトロの駅名は語る 87

Boucicaut
ブシコー(8号線)

セーヌ左岸にあるパリ最初のデパート、ボン・マルシェ創立者ブシコ―夫妻の名を冠しています。

アリスティッド・ブシコー(1810-1877)

マルグリット・ブシコー(1816ー1887)

実業家アリスティッド・ブシコーがデパートを開業したのは1852年。彼亡きあと、さらに発展させたのが妻マルグリットで、ブシコ―夫妻はフランスのデパートのパイオニアと呼ばれています。

当初、父が経営する地方の小さな帽子店で働いていたアリスティッド・ブシコーは、その後パリに出てバック通りにあったショップ「プティ・トマ」の販売員になります。

年がたつに連れて実力が認められチーフに昇進。そのころにマルグリットと出会い結婚します。「プティ・トマ」が不況にあおられて閉店すると、ブシコーはそこからさほど遠くない場所にあった「ボン・マルシェ」と呼ばれる、ヴィドー兄弟が経営する小間物店で働くようになります。

1863年、小さい規模の時代のボン・マルシェ。

1892年には、クライアントでにぎわう
大きなデパートになっていました。

エッフェル塔を建築したギュスタヴ・エッフェルが
デパート大改造に加わり、
鉄骨とガラスの劇場のような建造物になったのです。

やがて両者の間に信頼関係が生まれ、それまでに蓄えた貯金をはたいてヴィドー兄弟と共同経営者になり、またたく間に主導権を握り、多種の製品を販売するデパートをオープン。1852年のことで、ヴィドー兄弟は1863年に引退します。

事業拡大に情熱捧げるブシコーに、女性ならではの感性で様々なアイディアを提供したのは、妻マルグリットです。

製品は誰でも手で触っていいことにする、全ての製品に価格を表示する、例えばクリスマスにはおもちゃを多くするなど季節によって品を変える、バーゲンをする、買った品の返品や変更を許可する、カタログ販売で地方や外国の人も買えるようにする・・・・ショッピングは主に女性がするので、女性用洗面所を作り、妻の買い物中に夫たちが退屈しないよう図書館も作りました。

成功に成功を重ね、パリ近郊のシャトーの持ち主にもなります。

「ボン・マルシェ」は安いという意味で、当初はその名のとおり買いやすい価格の大衆向きデパートでした。

時と共に地方や外国からも買い物客が殺到するようになり、そうした人々の宿泊を考えて、徒歩で数分の場にホテル建築をうながしたのはマルグリットです。それがホテル・リュテシアです。

1877年に夫を、その2年後に一人息子を失ったマルグリットでしたが、気丈に事業発展につくし、ボン・マルシェは例を見ない飛躍を続け、デパートの重要性を世界に示します。

1900年にパリで万博が開催された年のボン・マルシェ全景。

子孫がいないマルグリットは、自分亡きあとパリの病院を管理する機関を受遺者とする遺言を残します。

マルグリットの遺言に基づいて建築された
15区のブシコー病院。

遺言に書かれていたマルグリットの希望のひとつは、パリ左岸に病院を建築することでした。それが1897年に完成した15区のブシコー病院です。

マルグリットにふさわしい盛大な葬儀。

マルグリットが残した莫大な遺産はそのほかの慈善事業にも活用され、彼女が生涯を閉じたときには、サン・トーマ・ダカン教会で盛大な葬儀が行われました。

デパート・ボン・マルシェが見える小さな公園に、ブシコーの名が残されています。そこからデパートを見ると、感慨深いものがあります。

2018年5月22日

母の日間近、だからピンクがいっぱい。

今年のフランスの母の日は5月27日。
その日が近づいているので、パリのウインドウも花盛り。

ピンクやお花が母へのオマージュにふさわしいのか、ウインドウで見かけるのはピンクフラワーが多い。

どれを見ても心に温かみが宿っていい。
ご一緒にウインドウを楽しみましょう。

チョコレートショップの大きなウインドウいっぱいに飾られたバラ。
立ち去りがたいほどキレイ。

プレゼント用のお洒落なボックスが、
すべてのママンに喜ばれそう。
この時期は香水店は大盛況。
母の日のプレゼントに香水を買い求める人が多いのです。
思わず立ち止まってしまうインパクトある花たち。
パワーをいっぱいもらえそう。

超豪華なジュエリーのお花たち。
私もいつか・・・・
などと夢見るのもいい。

それにしても本当に素晴らしい。
見ているだけで豊かな気分。