2019年10月11日

メトロの駅名は語る 136

Jourdain
ジュルダン(11号線)

ヨルダン川の名を冠する駅名。ヨルダン川はフランス語でジュルダンです。その川で洗礼をほどこしていた洗礼者ヨハネに捧げる教会がこの駅の近くにあるために、そこから延びる道路名とメトロ名になったのです。

19世紀に建築されたベルヴィルの
洗礼者ヨハネ教会。

全長425kmのヨルダン川はレバノンとシリアの国境から死海まで流れています。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのは、イスラエルとの国境近くのヨルダン国内を流れるヨルダン川でした。

イスラエル国境近くを流れるヨルダン川。

洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けた、
ヨルダン川のほとりの地ベタニア。
私が訪れた時にはベタニアのヨルダン川の水がかなり少なくなっていて、
地肌が見えていました。

荒野の中のその川のほとりで洗礼者ヨハネは、悔い改め罪の許しを得るために洗礼を受ける教えを説いていました。洗礼は精神を清めるという意味だったようです。ユダヤの地に生まれたイエスが洗礼者ヨハネの話を耳にし、会うためにヨルダン川に行き洗礼を受けたのは30歳くらいの年で西暦28年ころ。マタイの福音書によると、イエスが洗礼を受けた瞬間、天が開き神の霊がハトの形となって下り、イエスは神が愛する子であるとの声が聞こえたとされています。

洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエス。
ヴェロッキオとその弟子ダヴィンチの共同作品。
イエスが洗礼を受けたベタニアはヨルダンにありますが、エルサレム郊外にも同じ名前の地がありマリア、マルタ、ラザロの故郷となっています。福音書では洗礼を受けたのはヨルダンのベタニアの川となっていて、現在世界遺産に登録されています。ヨルダンの首都アンマンの西50kmにあるベタニアに行くのに、ヨルダン人のガイドさんに付き添っていただいて検問所を通り、囲いのある敷地内は車で移動。親切で知識豊富なガイドさんで感謝しています。

親切なヨルダン人ガイドさん。
イエス・キリストが幼子さたちに洗礼を施していた場所のひとつ。
ヨルダン川の水をたたえる洗礼盤があります。

2019年10月8日

パリの犬たち 211

メトロに乗る準備

ボクたち3兄弟なの。だから歩く時にも
リードがからまないように注意しなくてはならないんだよ。

ママンが大きなバッグにボクたちを入れているのは、
これからメトロに乗るためだよ。
他の乗客に迷惑かけるといけないからね。
いろいろな人がいるからどうしてもはしゃぐボクたち。
ママンも大変だね。
リュックサックを背中にしょって、
3匹のワンちゃん(ボクたちのこと)を肩にしょって、
これから長い階段を下りて行くんだから。

ボクたちは高いところからいろいろ観察できるから
とってもうれしいワン。

2019年10月5日

ジェフ・クーンズ、チューリップの花束をパリ市に

挑発的な彫刻で話題を振りまいているアメリカ人のジェフ・クーンズ。ヴェルサイユ宮殿やポンピドゥーセンターで展覧会を開催し、知名度が高いのですが、あまりにも個性的でアートに理解が深いパリでも賛否両論。

そのジェフ・クーンズが10月4日にブーケをパリにプレゼント。11本のカラフルなチューリップを手に持つ巨大な彫刻で、アメリカの自由の女神像からヒントを得たそう。自由の女神像はアメリカ独立100年記念にフランスからアメリカへのプレゼント。今回の寄贈は2015 -2016年のフランスで起きたテロの犠牲者へのオマージュだそうです。製作費は350万ユーロでアメリカとフランスのメセナの寄付金で実現できたとのこと。

ジェフ・クーンズ作の「チューリップのブーケ」は
シャンゼリゼ公園に設置されています。
プティ・パレの裏手の眩しいほどカラフルなブーケが、
パリに新たな息吹を散りばめています。

ジェフ・クーンズの彫刻は何しろカラフルで目立つ。歴史的建造物が多いパリのどこに置くか、パリにはふさわしくないなど意見が飛び交い、3年間あれこれもめた結果、やっとプティ・パレとコンコルド広場の間のシャンエリゼ公園に設置することが決まりました。

どの角度から見ても鮮やか。

通常12本の花のブーケをプレゼントするのですが、
このブーケは11本。
1本少なくすることによって
犠牲者へ思いを馳せて欲しいと
作者はインタヴューで答えています。

高さ12m、重量34トンのブロンズ、鋼鉄、アルミニウムを使用したバルーンのフォルムのチューリップのブーケが、女性の手にしっかり握られ力強く空に向かっている彫刻には、明るい未来や希望が込められているようです。自然の生命力の強さと美しさも感じられます。春先にいち早く可憐な姿を見せるチューリップは、誰にも好かれる花。子供も知っている花。

空に向かって高々と捧げられるチューリップのブーケ。
清々しくフレッシュで私はとても好きです。

ジェフ・クーンズの作品は濃い色が多いのですが、
これはオーマジュのブ―ケなのでおさえた色合い。
品格あるチューリップです。
1900年に建築されたイオニア式列柱の均整が取れたプティ・パレの裏手にある公園で、今世紀を象徴するかのようなアシメトリックで色彩豊かな彫刻。コントラストが大きく、パリが急に若返ったようにさえ感じます。今後ジェフ・クーンズのこの彫刻は、パリのモニュメントの仲間入りをするのでしょうか。本人はそう願っているそうです。いずれにしても新しい試みをするパリジャン、パリジェンヌの勇気ある決断は立派。芸術の都パリにふさわしい。このようにして変わらないようで変わっていくパリなのです。

2019年10月3日

メトロの駅名は語る 135

Pyrénées
ピレネー(11号線)

この駅の近くにパリで2番目に長い道路、ピレネー通りがあり、スペインとの境にある430kmのピレネー山脈からこの道路名が選ばれたとされてます。また、フランスとスペインの間で結ばれたピレネー条約も意味しています。

フランス国王ルイ14世(左)とスぺイン国王フェリペ4世(右)の間で、
ピレネー条約が結ばれました。フェリペ4世の後ろに立っている
白いドレスの女性はスペイン王女で、ルイ14世に嫁ぎます。

ピレネー条約が結ばれた
フランスとスペインの間にあるビダソワ川のフェザント島。
中央は講和条約の記念碑。

フランスとスペインの間では長年にわたって戦いが続いていました。1635年に始まった両国間の戦争は1659年11月7日、フランスとスペインの間を流れるビダソワ川のフェザント島で結ばれた講和条約でやっと終わります。フランス国王はルイ14世でスペイン国王はフェリペ4世の時世です。

ルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズの結婚式は
両国の境にある現在のピレネー・アトランティック県の、
サン・ジャン・ド・リュズの教会で1660年6月9日に執り行われました。
二人そろって21歳でした。

その際にフェリペ4世の王女マリー・テレーズがルイ14世に嫁ぐことも決まったのでした。マリー・テレーズが多額の持参金をフランスにもたらす代わりに、ルイ14世とマリー・テレーズの間に生まれる子供たちはスペイン王位継承権を破棄することも条約に書かれていました。

ところがスペイン王家に十分な財産がないために持参金は未払いになり、それが元でネーデルランド継承戦争が1667年に始まります。当時ベルギーとルクセンブルグからなる南ネーデルランドはスペイン領だったのです。受け取れなかった持参金のかわりにスペイン領の一部を取る目的のこの戦いをフランスは勝ち取り、いくつかの領土を獲得します。そのひとつが現在フランス北部にあるリール市です。

ネーデルランド継承戦争の戦地を視察するルイ14世。

フランスとスペインは以前から深いつながりがあり、ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュはフェリペ4世の姉だったし、フェリペ4世の妃はフランス国王アンリ4世と妃マリー・ド・メディシスの間に生まれた王女エリザベート・ド・ブルボンで、スペインではイザベルと呼ばれていました。

1700年11月15日ヴェルサイユ宮殿で、
ルイ14世は孫アンジュ公がスペイン国王に即位すると宣言。
フェリペ4世亡き後その王子がカルロス2世と名乗り即位しますが、子供に恵まれませんでした。それを口実にルイ14世が再びピレネー条約を持ち出し主張します。ピレネー条約で決まったスペイン王位継承権破棄は、マリー・テレーズの持参金あってのもの。それが支払われなかったからには破棄は無効である。ルイ14世の主張通りに孫アンジュ公が1700年にフェリペ5世としてスペイン国王になります。17歳のアンジュ公は12月4日にヴェルサイユを発ち、翌1701年1月22日スペインのマドリッドに到着します。その子孫が現スペイン国王フェリペ6世です。

アンジュ公がスペイン王になった時には「これでピレネーはなくなった」と語られたそうです。このように多くの歴史が込められているピレネーです。

2019年9月30日

ジャック・シラクへのオマージュ。

フランスを長年導いていたジャック・シラクが亡くなり、テレビも新聞もその特集を繰り返し、エリゼ宮殿での弔問記帳は亡くなられた日の夕刻から始まり、2日後の28日まで連日長蛇の列。

ジャック・シラクへの国民のお別れは、29日午後アンヴァリッドのサン・ルイ教会で行われました。朝から雨が降っていましたが、きっと並ぶだろうと思って軽いランチを取って身支度を整え、早めにアパルトマンを出ました。

一時間半前に着いたのに、
すでに500メートルほどの行列。

厳重な荷物検査の後敷地内に入ったのは並び始めて5時間後。

雨が降りしきる中、12時半にアンヴァリッドに到着。その時点ですでに500メートルほどの列ができていました。中に入れるのは2時からとのことで、少しづつ進む行列の中にじっと立ち並ぶこと5時間。その間に数人のフランス人と話し合い退屈することはありませんでした。荷物検査の後アンヴァリッドの敷地内に入ったのは5時半。その後警備兵の姿があちらこちらに見える「名誉の内庭」に入ります。

ジャック・シラクの演説の声が絶え間なく流れる「名誉の内庭」。

サン・ルイ教会の入り口にフランスの三色旗。
上方にはナポレオン一世皇帝の青銅像。
この教会の後方のドームの下にナポレオンが眠っています。

その「名誉の内庭」でもまた列を作りながらサン・ルイ教会に真っ直ぐ進む間、ジャック・シラクの様々な演説の声がスピーカーで流されていて、暖かみのある独特の話し方を再び耳にし懐かしさがこみあげてきました。教会の入り口の両サイドにはフランス国旗が飾られていて、奥まった所にジャック・シラクの大きな写真が見えてきました。手を振って国民に呼びかけているような写真の前に、フランス国旗に包まれたジャック・シラクの棺が安置され、近くでは衛兵が緊張した面持ちで立っていました。


フランス国旗に筒まれたジャック・シラクの棺。
国民に別れを告げる温かい微笑みのジャック・シラク。

棺の近くで見守る衛兵。
その後、弔問記帳が並ぶ回廊に向かい、私も一言お礼の言葉を残しました。アンヴァリッドを後にしたころはすでに薄暗くなったいたにもかかわらず、先が見えないほどの行列が続いていました。後で知ったことですが、あまりにも多くの人が並んでいるので、予定を大幅に延長し翌30日朝7時まで延長しました。ジャック・シラクが国民からいかに愛されていたか分かります。

追悼記帳も長い列。
行列は翌朝7時まで続きました。
30日早朝に終わった国民の別れの後、アンヴァリッドのサン・ルイ教会で9時半から親族のみによるミサがあげられ、正午から学生街のサン・シュルピス教会で国葬が執り行われました。火災以来静まっていたノートル・ダム大聖堂が哀悼の鐘を響かせ、ひときわの感動を呼び、ロシアのプーチン大統領、アメリカ元大統領クリントン、モナコのアルベール二世、イギリスのエドワード王子、ルクサンブルク大公夫妻、モロッコ王太子をはじめとし、30ヵ国の外国要人を含む2000人が出席しての盛大なミサの後、ジャック・シラクは3年前に世を去った長女ロランスが眠るモンパルナス墓地に埋葬されました。

2019年9月26日

シラク元大統領 惜しまれる親日家


9月26日、元大統領ジャック・シラク氏が86歳で亡くなられました。
日本の歴史、文化、伝統芸術に絶大な関心と知識を持っていた人で、そのような方が旅立たれて、パリに暮らすひとりの日本人としてひときわの寂しさを感じています。

シラク氏の経歴は今更記すまでもなく、首相、パリ市長、大統領などフランスの政治に大きな貢献を成したことから、政治一筋に生きた稀有な人と言えるでしょう。大統領在任中に何度かエリゼ宮殿のレセプションにご招待してくださり、日本びいきの大統領らしく真っ直ぐに私に向かって来て、日本が懐かしいと気軽にお声をかけてくださったのが、昨日のことのように思い出されます。

日本の知識が驚くほど豊富なシラク大統領。
エリゼ宮殿のレセプションで気さくに話しかけてくださいました。

心優しく暖かい大統領という印象が深く残っています。
ご冥福を心からお祈りしております。

2019年9月25日

メトロの駅名は語る 134

Belleville
ベルヴィル(2、11号線)

近くのベルヴィル通りに由来する駅名。

昔、パリ北郊外の眺めがいい高い丘に村がありサヴィと呼ばれていました。そこには5世紀から8世紀まで続いたメロヴィング王朝の時代から人が住み、修道院やいくつかの教会が建築されました。水源も豊富で十分な水がなくて困っていたパリにも供給していたのです。村の名がベルヴィルに変わったのは18世紀でした。

1891年からトラムが走っていたベルヴィル通り。

キャバレーが多い繁華街で夜遅くまで賑わっていました。
19世紀のキャバレーのポスターのひとつ。

1860年にパリ市に吸収され、メインストリートのベルヴィル通りにはキャバレーや手ごろな価格のレストランやバーが軒を並べる歓楽地となります。1822年から派手なカーニヴァルがベルヴィル通りで催され、丘を降りセーヌ川までパレードが続いていましたが、パリ市に入ってから徐々に姿を消していったのでした。

ベルヴィル通りでもっとも重要なのはフランスを代表する歌手エディット・ピアフが生まれたことでしょう。72番地のアパルトマンの外壁にプレートがあり、「この家の階段で1915年12月19日エディット・ピアフが生まれた」と書いてあります。貧しい家に生まれたピアフでしたが、階段が誕生地というのはあまりにも悲しい。

ベルヴィル通り72番地のアパルトマンの壁に
「この家の階段で1915年12月19日エディット・ピアフが生まれた」
と書いてあるプレート。
少女時代のピアフ
(1915-1963)

フランスとアメリカで大活躍した俳優であり歌手モーリス・シュヴァリエも、この町の貧しい家に生まれています。10歳くらいの時から生活のために働き、苦労して芸人になったモーリス・シュヴァリエは、成功してからは若いアーティストたちの支援を惜しみなくし、活躍の場を紹介したりしていました。それは人情に厚い下町に生まれ育ったからではないかとされています。同じ町で生まれた27歳年下のエディット・ピアフも彼にお世話になったひとりでした。

デビューして間もない頃の
モーリス・シュヴァリエ。
(1888-1972)

現在ベルヴィルにはアジアの移民たちが多数住んでいて、13区に継ぐ中華街とも呼ばれています。ロープライスの中華レストランやお惣菜やさんが多い庶民的な地域です。