2019年1月30日

カトリ―ヌ・ドヌーヴ サンロ―ランの服を競売に

イヴ・サンローランがフランスでもっとも美しい女性と絶賛していたカトリーヌ・ドヌーヴは、非の打ちどころがない美貌の持ち主。彼女はイヴ・サンローランのミューズでもあり、コレクション発表には欠かせない華の人でした。

エレガントで美しいラインは、まるで優れた名曲のようで、
イヴ・サンローランのショーを拝見した後は、
余韻を保っていたいために、
他のデザイナーのコレクションは見たくなかったほどでした。

ショーはいつもインターコンティネンタル・ホテルで開催され、世界中から集まるクライアントやジャーナリストが揃い、開始の時間が過ぎてもカトリーヌ・ドヌーヴが席に着くまで全員が待ったいたほど重要でした。確かに彼女が会場に現れると輝きが華々しく飛び散る格別のオーラを持つ人です。

レセプションでお会いして光栄なことに一緒に写真を。
雑誌のパーティーページに載せてくださった記念すべき一枚。

いろいろなレセプションで何度かお会いする機会に恵まれ、言葉も交わしましたが、とても早口で、かなりシャイな人という印象を持っています。女優の気取りがなく気さくで感激したものです。和食が好きで時々レストランでも見かけます。

ドヌーヴが持っているイヴ・サンローランの服は数多く、それをずっと大切に保管していたそうですが、今年1月のオートクチュール・ファッションウィーク期間にオークションで約300点を手放したのです。

ドヌーヴとサンローランというゴールデンネームが合わさった、唯一無二のドレスばかりだったためか、競売価格は予想をはるかに超えたそうで、ドヌーヴもオークショナーのクリスティーズも驚いたとのこと。

イヴ・サンローランも育ての親のピエール・ベルジェも世を去り、カトリーヌ・ドヌーヴが思い出多い服を手放した今、ひとつの大きな時代が終わったような寂しさを感じないではいられません。

2019年1月27日

ブシュロン、リニューアルでひときわの輝きを発信

ヴァンドーム広場に最初に高級宝飾店をオープンしたブシュロンは、2018年に創業160周年記念を迎えました。それを記念して大々的なリニューアルを行い、この度心行くまで拝見。

特に素晴らしいのは最上階。そのフロア全体が、まるで邸宅のようなコンセプトなのです。階段をのぼって中に入ると、右手に凝ったカバーの蔵書やメゾンのアーカイヴが並ぶライブラリーがあり、左手はダイニングルーム。そのお隣は広々としたサロンで部屋着でくつろぐマヌカンが、ニューコレクションを身に付けて微笑んでいる。その奥は安堵感がある淡いトーンのベッドルーム。そして高い天井のバスルームが続きます。

このように、従来の高級宝飾店の観念を変え、かつてここに存在していた貴族の邸宅にいるような思いを抱かせる画期的な発案。新たな時代にふさわしい新たな試みは、さすがヴァンドーム広場を高級宝飾店の聖地にしたパイオニアならでは。

手前はダイニングルームで、奥がライブラリー。
さりげなくジュエリーが置かれていて、
爽やかなアンビアンスが流れています。

広々としたサロン。マヌカンが優雅な微笑みを浮かべながら、
身に付けたジュエリーを披露。
窓辺にはグルグル回るレコードが置かれ、
その上のジュエリーも動きます。何て粋な演出。
ベッドルームでもリラックスした部屋着のマヌカンが待っています。
指にはいくつものリングをはめ、壁際ではストックマンがネックッレスを披露。
ヴァンドーム広場が一望できる贅沢なバスルーム。
良き時代の趣きあるバスタブがよく似合います。
バスルームの鏡の前には
ブシュロンのアイコニックなアイビーのネックレス。
このようなさりげないデイスプレイが爽やかで、心に残ります。
階段をおりるとブルーの世界が待っています。
クライアントを邸宅に招いている意図があちらこちらに込められていて、
去りがたい思いに駆られます。

2019年1月25日

カルティエ、ニュ―コレクション発表

ファッション・ウィーク最中に、カルティエがハイジュエリーのコレクションを発表しました。

テーマはギャラクシー。会場として選んだのは地質学・鉱物学館。さすが宝石商の王者カルティエです。会場選びにも知性が感じられます。

ギャラクシーをテーマとしたのは、今年は人類が初めて月に到着して50周年記念の年だから、それを意識して「カルティエのギャラクシー」というテーマのジュエリーを発表したのかもと、自分で勝手に思っています。

会場は黒一色。その中に浮かび上がるジュエリーはすべて宇宙に関する作品ばかり。広い宇宙の中で貴石が輝きを放っているみたいで、ギャラクシーの真っただ中にいるように思えました。

宇宙から見る地球は何て美しい、とか、宇宙には解きかねる不思議やパワーがいっぱいある、とか、夢見心地でした。

鉱物学・地質学館内で迎えてくれる鉱物。

隕石が寄り添いながらフォルムを形成しているイメージのネックレス。
ピンクゴールド、ダイヤモンド、ムーンストーン、ミルキークォーツが
相まって描く姿が不規則なだけに、自然界の不思議が強く感じられます。

太陽、月、火星、金星、木星、土星を一列に並べたブレスレット。
それぞれのパ-ルが動く絶妙な細工が成されています。
「宇宙に行ったらこのようなジュエリーに出会えるのかしら、
手に届くところにたくさんあるのかしら。だったら行きたい」
などと、科学者がひっくり返るようなことを思いながら、
うっとり見つめていました。

遠く離れた宇宙からみると、
私たちが住む地球はこのようにカラフルなのだそうです。
それぞれのストーンが動く細工がされているそうです。

ホワイトゴールド、ダイヤモンド、ロッククリスタルなどが生み出す
究極のテクニックの置時計。


ソワレバッグにもギャラクシーのジュエリーが輝いています。
クラシックとコンテンポラリーの融合が素晴らしい。

夢のような宇宙を堪能した後は、地上に戻ってスイーツタイム。そこでいただいたスイーツも気のせいか惑星のような形。

フルーツベースのスイーツ。
ギャラクシーから降りてきたようなケーキ。

そこで、何と、先ほど鑑賞したジュエリーと同じ作品を手に取って見ることができたのです。あまりのことに恐る恐る顔を近づけてると、「お試しになりませんか?」ですって。
一瞬、躊躇。でも、こういうチャンスは2度とないと思い、「それでは」とゴージャスなブレスレットを付けていただき、高級感を体感。

まるでクライアントのように気取って記念撮影。

今年初の贅沢なひとときでした。

2019年1月22日

ルイ16世処刑の日に世を去った、オルレアン家の家長

国王ルイ16世がフランス革命で処刑されたのは1月21日でした。それと同じ日にオルレアン公の子孫、パリ伯爵でありフランス公のアンリ・ドルレアンが85歳で亡くなりました。

オルレアン家は太陽王ルイ14世の弟フィリップ・ドルレアンの直径子孫で、由緒ある家系。革命の時代のオルレアン公は王位をあからさまに狙っていた危険人物で、ルイ16世処刑に一票投じています。彼は自ら平等公フィリップと名乗り、野心を公にしていました。

実際に革命家の援助をしたり、扇動していたのです。バスティ―ユ襲撃やヴェルサイユへの女性たちの行進の背後にいたのは、平等公フィリップだったとも語られています。


温厚な性格だったルイ16世。

野心の固まりだったフィリップ・ドルレアン。
自ら平等公フィリップと名乗り、
ルイ16世処刑賛成に一票を投じました。

革命裁判の際に、いとこが自分処刑に賛成したことを知ったルイ16世は、子供のころ一緒に遊んでいたあのフィリップが、とかなり衝撃を受けたといわれています。その子孫がよりによって国王処刑と同じ日に亡くなったのは奇遇です。

万が一・・・絶対にそのようなことはないのですが・・・王政復古が起きた場合にはフランス国王の座に就くのは自分だと常々主張していたアンリ・ドルレアン。ついにその夢がかなうことなく地上を離れていったのです。

2019年1月20日

メトロの駅名は語る 113

Saint Augustin
サン・トーギュスタン(9号線)

日本ではアウグスティヌスと呼ばれる聖人の名を冠する駅名。

サン・トーギュスタン(354-430)
日本語では聖人アウグスティヌス

アルジェリアで生まれたアウグスティヌスはローマとミラノで学んだ哲学者であり神学者。信仰深い母を亡くした後、アフリカに戻り修道院生活を送り、聖職者になります。

神学生時代のアウグスティヌス。


アウグスティヌスに大きな影響を与えた母モニカも
聖女になっています。

神を徹底的に敬い、賛美し、感謝の気持ちを常に持つベしと説きながら、ヨーロッパにおいてキリスト教確立に大きな貢献をなし、書物も多く、カトリックからもプロテスタントからも敬意を表されている破格の人物。

1890年のサン・トーギュスタン教会

80メートルの高さのクーポルが圧巻。

アウグスティヌスに捧げるサン・ト-ギュスタン教会は、メトロのすぐ近くにあり、1860年に建築が開始され完成したのは1871年。バルタール作でローマ・ビザンチン様式の影響があります。

当時の皇帝ナポレオン3世は、この教会に自分も家族も葬られることを望んでいましたが、普仏戦争に敗れ、イギリスに亡命しそこで生涯を閉じたので、望みはかなわず、イギリスが永眠の地になりました。高齢で世を去った妃ウジェニーも傍らに葬られたのでした。クーポルとパイプオルガンは必見。

教会前には神のお告を受けて、シャルル7世の戴冠式を実現した聖女ジャンヌ・ダルク像があります。

2019年1月19日

大使公邸で賀詞交換会


2019年の賀詞交換会は1月18日に行われました。

個性的な門松がエントランスに。

オリジナリティーある門松がエントランスの両サイドに飾られ、その間の階段をのぼって大使公邸に入ると、温かい雰囲気が隅々まで漂っていて、外の寒さも一気に飛んでしまいます。

木寺大使の年頭のご挨拶の後、日本酒で乾杯。いつもの通り新年の挨拶の言葉が飛び交い、和やかな笑顔があちらにもこちらにもあり安堵します。

三味線の演奏がひときわ典雅です。
左はお着物姿が優美な木寺大使夫人。

乾杯の後はもちろん、おせち料理。黒豆、数の子、お酢の物、キントン、種類豊富なお寿司、肉料理、海老の天ぷら・・・

とろけるように柔らかいお肉。
最高のおダシのお雑煮。

焼き立ての餃子のお味は抜群。

例年と異なるのはアサヒビールと餃子のサーヴィスがあったこと。やはり日本のビールは優しさがあっていいと感激しながら庭園に出ると、焼きたての餃子が待っている。皆、行列を作って礼儀正しく待っているのが、いかにも日本人らしく気持ちいい。

寛大な太陽に誘われてテラスでも話の輪がひろがります。

ちょっと肌寒い気温でしたが、心に幸せと温かさが広がった賀詞交換会でした。

2019年1月16日

メトロの駅名は語る 112


Miromesnil
ミロメニル(9、13号線)

ルイ16世の大臣、ミロメニル侯爵にちなんだ駅名。

ルイ16世の時代の法務大臣、ミロメニル侯爵
(1723-1796)

優れた法律家でルイ16世の時代に法務大臣になったミロメニルですが、革命がおきる2年前に辞職し、ノルマンディー地方で引退生活を送ります。

1789年12月29日に開催された名士会。
ミロメニル侯爵はこの会に出席するほど国王から信頼されていました。

国王に仕えていたために革命時に捕まり一時期監獄ですごします。その後ノルマンディー地方の故郷に落ち着きますが、温厚で人情味が深いミロメニルは、医者やパン屋などを住まわせ住民のために貢献していました。恵まれない人々のために遺産も寄付したほど、心優しい人物だったのです。

72歳の生涯を閉じたのは16世紀に建築されたミロメニル城で、人柄がよく貧しい人の味方だったために、彼の城は革命家の略奪を逃れたのでした。その後持ち主が何度かかわり、フランスの文豪モーパッサンが1830年8月5日にこのシャトーで生まれています。

ミロメニルの名前はエリゼ宮殿近くの道路にも残っていて、マリー・アントワネットが心を寄せていたスウェーデン伯爵フェルセンが暮らしていた邸宅が31番地にあり、今でも残っていまが、現在工事中。あまり変わらないことを期待しているのですが、どうなるでしょう。

フェルセンが一時期暮らしていた邸宅。
ミロメニル通りに面した部分。

中庭とその奥の建物。
フェルセンがどちらの建物に暮らしていたかは不明。



フェルセンがこの邸宅に暮らしていたのは、革命が起きた1789年だったとされています。その後この近くのマティニョン大通りの館に移ります。そこで国王一家の逃亡の計画を練っていたのですが、残念なことにその建物は当時の面影はまったくなく、画廊になっています。

2019年1月15日

パリの犬たち 190

これってお散歩といえるの?

寒いけれど健康のために公園に行こうねってママンに言われて、
喜こんでお出かけしたのに、
30分歩いたら「あ~疲れた、ねむ~い」とベンチに座って動かない。

こんなのお散歩じゃないワ~ン。

クンクン甘え声を出しても、
ワンワン騒ぎ声を出しても、
ちっとも目を覚まさないママン。

新しい年になったばかりなのに、今年一年が心配。

2019年1月14日

メトロの駅名は語る 111

Saint Philippe du Roule
サン・フィリップ・デュ・ルール(9号線)

聖人フィリップに捧げた教会がこの駅名の由来です。
この界隈には13世紀からルール村があり、そこに聖人フィリップを称える小さな礼拝堂が建てられたのは17世紀。18世紀にルール村がパリの仲間入りし、その際に礼拝堂の代わりに教会が建築されることになりました。

初期の教会。

国王ルイ15世から寄付金も受けましたが、資金不足で工事が大幅に遅れ完成を見たのはルイ16世の時代。


ルイ16世の時世に完成したサン・フィリップ・デュ・ルール教会

建築家はジャン=フランソワ・シャルグランで、ルイ16世様式を代表する多くの建造物を残しています。そのひとつがサン・フィリップ・デュ・ルール教会。古代ギリシャ・ローマ風のネオクラシックの建築様式が大きな特徴です。

サン・フロランタン伯爵邸宅。

この教会の他にコンコルド広場近くに建築した、サン・フロランタン伯爵の邸宅もシャルグランの名を高めたもので、現在のサン・フロランタン通りにありました。伯爵亡き後数人の貴族の住まいとなり、華やかな社交が繰り広げられていました。現在はアメリカ大使館の一部となっています。

サン・フロランタン通りには大好きな「虎屋」があり、時々友人とランチを楽しんでいます。

2019年1月13日

バーゲンのシーズンだけど・・・

バーゲンで活気が満ちる1月中旬のパリ、と言いたいけれど、今年はちょっと違う。通常土曜日は、ショッピングで大変な賑わいのデパートだけれど、肝心のお買い物の人より機動隊の車のほうが目立つ。

デパートの横手に機動隊の車が勢ぞろい。


通常土曜日は、ショッピングを楽しむ人で身動きできないのに、
寂しいくらいの人出。機関銃を持った男性が視線を走らせます。
歩道では、機関銃を手にユニフォームに身を包む凛々しい男性たちが目を光らせている。焼きグリの屋台も「どいてどいて」と追い払われているし、空ではペリコプターがブルンブルンと大きな音をたてながら旋回。このように、とてもショッピング気分ではない。

それというのも「黄色いベスト」運動が続ているから。
今彼らが要求しているのは、市民がイニシアティヴをとる国民投票(RIC)。
すでにこれを実施している国もあり、上手くいっているとの報道もあるけれど、フランスでどうなるか。

来週はちょうどパリコレの時期。毎週土曜日に「黄色いベスト」のデモがあるので、予定を変更したメゾンもある。このように様々な分野に被害が拡大しています。

2019年1月9日

TOYOで新年会


ここがお馴染みのお席。
おいしく、楽しく、話題豊富な新年会でした。

大好きなTOYOで高田賢三さん、マーシーと新年をお祝いしました。まずは当然シャンパーニュで乾杯。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしく」
と、親しくてもきちんと新年のご挨拶。とっても日本的でいい。

賢三さんも私もシャンパーニュをいただく量が年々少なくなっています。その代わり、その後のレッドワインはたっぷりいただきました。

話題は何といってもカルロス・ゴーンと黄色いベスト。話が進むに連れて熱気がこもり、次々に出されるお料理をいただきながら、約3時間の間話が途切れません。トランプも話題になったし、中国、マクロン大統領、メイ首相と本当に内容豊かでいつまでもおしゃべりが終わりません。

ひらめとキャビアのお料理。それに続いたのが
アンコウのフライ
あわびとグリーンアスパラ
お餅入りコンソメ
お肉、トリュフ、クレソンのお料理。
その後は炊き込みご飯 (あまりにも美味しいので私だけおかわり)
2種類のデザート
キンカン茶・・・

今年はどのような年になるか検討もつきません。1月にはいくつか華やかなイヴェントがありますが、それでパリに今までのような活気が生まれるといいというのが共通の意見。それと、いつまでも人生の目的を持っていようという心がけも共通。

今年もカレンダーがいっぱいになるように、変化に富んだ年でありたいです

2019年1月8日

「黄色いベスト」騒ぎ

昨年11月17日から始まった黄色いベスト運動は、昨年末のクリスマスと年末に動きが静まったかのように思えましたが、今年1月5日に再度盛り返し、一体いつになったら解決するのか、ちょっと不安な状態です。

当初の燃料値上げに反対する運動が、その後またたく間に広がり、現政府反対の声があげられ、今では国事を政治家にまかせておけない、自分たちも政治に参加するのだとまでエスカレート。デモの度に大きな被害が起き、その修理はどうなるのか、費用が莫大なだけに気になります。

黄色いベスト運動のリーダーのひとりは、何とドルーエという人。1789年に革命が起き、国王一家が身分を隠して逃亡を試み、後一歩で成功するかのように思えたヴァレンヌで、一家の身分を見破ったのがドルーエ。

本人はまったく関係ないと語っていますが、一般国民の運動から革命が起き、王政が廃止され、国民によって国が統治されるようになったことを思うと、何となく関連性があるようにも思える。

銀行やブティック、レストランなどが防衛のためにベニヤ板を張り巡らしたり、傷ついたガラスがそのまま残っているのを見るにつけ、今後どのような展開を示すか心配です。経済が大きな影響を受けないといいけれど。パリの、フランスのイメージがダメージを受けないことを切実に願っています。

この澄み切った空と美しいバラのような、誰もを幸せにする国に戻って欲しいです。


2019年1月4日

メトロの駅名は語る 110

Alma-Marceau
アルマ・マルソー(9号線)

クリミア半島で繰り広げられたアルマの戦いと、マルソー将軍の名を冠しています。

黒海の北にあるクリミア半島の領土をめぐって、ロシア帝国軍とトルコ帝国軍の間で激戦が交わされたのは1853年から1856年にかけてです。

大帝国を築き威勢を誇っていたトルコ帝国でしたが、年々勢力が衰え、それに目をつけたロシア帝国がトルコ領だったクリミア半島を奪おうと戦いをしかけたのです。

アルマの戦い。
右がフランス軍、左がイギリス軍。

窮地に陥ったトルコを援助したのはフランスとイギリス。このクリミア戦争でロシアと連合軍の最初の激戦となったのがアルマ川での戦いで、1854年9月20日に始まり連合軍が大勝利を得ます。

若き英雄フランソワ=セヴラン・マルソー将軍
(1769-1796)

マルソーは革命時の将軍で、1789年7月14日、バスティーユが襲撃された際に、自分たちを守るために形成された民兵組織、国民衛兵に入りました。その最高司令官はアメリカ独立戦争で活躍し、国民に圧倒的な人気があったラファイエット。

実力が認められたマルソーは、矢継ぎ早に様々な重要な地位につき、革命を非難する外国との戦いでめざましい活躍をします。

戦地のマルソー。

共和国を守るために戦いの先頭にたち、兵士たちに勇気を与えつつ快勝を続けていたマルソーでした。けれどもドイツのコブレンツ近くのアルテンキルヒェンで、オーストリア軍の銃に打たれ、それが元で27歳の若く惜しい生涯を閉じます。1796年9月21日でした。

敵弾に倒れたマルソー。

フランス軍はもちろん、
宿敵オーストリア軍指揮官カール大公でさえもマルソーの死を悼み、
立派な葬儀が行われコブレンツに葬られました。

敵のオーストリア軍司令官は、マリー・アントワンットの甥で、当時皇帝だったフランツ2世の弟カール大公でした。それまでのマルソーの秀でた活躍を知っていたカール大公は、負傷した彼を手厚く看護させましたが、そのかいもなく世を去ったのです。壮烈な最期を閉じた英雄を、敵とはいえ敬意を示すためにカール大公が立派な葬儀を行ったのは、異例のことでした。それほどマルソーは優れた軍人だったのです。

パリの凱旋門に死の床のマルソーの感動的なレリーフがあります。

1889年、フランス革命100年記念の年に、革命の若き英雄マルソーの遺体はパリのパンテオンに移されました。