アルマ・マルソー(9号線)
クリミア半島で繰り広げられたアルマの戦いと、マルソー将軍の名を冠しています。
黒海の北にあるクリミア半島の領土をめぐって、ロシア帝国軍とトルコ帝国軍の間で激戦が交わされたのは1853年から1856年にかけてです。
大帝国を築き威勢を誇っていたトルコ帝国でしたが、年々勢力が衰え、それに目をつけたロシア帝国がトルコ領だったクリミア半島を奪おうと戦いをしかけたのです。
アルマの戦い。 右がフランス軍、左がイギリス軍。 |
窮地に陥ったトルコを援助したのはフランスとイギリス。このクリミア戦争でロシアと連合軍の最初の激戦となったのがアルマ川での戦いで、1854年9月20日に始まり連合軍が大勝利を得ます。
若き英雄フランソワ=セヴラン・マルソー将軍 (1769-1796) |
マルソーは革命時の将軍で、1789年7月14日、バスティーユが襲撃された際に、自分たちを守るために形成された民兵組織、国民衛兵に入りました。その最高司令官はアメリカ独立戦争で活躍し、国民に圧倒的な人気があったラファイエット。
実力が認められたマルソーは、矢継ぎ早に様々な重要な地位につき、革命を非難する外国との戦いでめざましい活躍をします。
戦地のマルソー。 |
共和国を守るために戦いの先頭にたち、兵士たちに勇気を与えつつ快勝を続けていたマルソーでした。けれどもドイツのコブレンツ近くのアルテンキルヒェンで、オーストリア軍の銃に打たれ、それが元で27歳の若く惜しい生涯を閉じます。1796年9月21日でした。
敵弾に倒れたマルソー。 |
フランス軍はもちろん、 宿敵オーストリア軍指揮官カール大公でさえもマルソーの死を悼み、 立派な葬儀が行われコブレンツに葬られました。 |
敵のオーストリア軍司令官は、マリー・アントワンットの甥で、当時皇帝だったフランツ2世の弟カール大公でした。それまでのマルソーの秀でた活躍を知っていたカール大公は、負傷した彼を手厚く看護させましたが、そのかいもなく世を去ったのです。壮烈な最期を閉じた英雄を、敵とはいえ敬意を示すためにカール大公が立派な葬儀を行ったのは、異例のことでした。それほどマルソーは優れた軍人だったのです。
パリの凱旋門に死の床のマルソーの感動的なレリーフがあります。 |
1889年、フランス革命100年記念の年に、革命の若き英雄マルソーの遺体はパリのパンテオンに移されました。
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