2019年9月30日

ジャック・シラクへのオマージュ。

フランスを長年導いていたジャック・シラクが亡くなり、テレビも新聞もその特集を繰り返し、エリゼ宮殿での弔問記帳は亡くなられた日の夕刻から始まり、2日後の28日まで連日長蛇の列。

ジャック・シラクへの国民のお別れは、29日午後アンヴァリッドのサン・ルイ教会で行われました。朝から雨が降っていましたが、きっと並ぶだろうと思って軽いランチを取って身支度を整え、早めにアパルトマンを出ました。

一時間半前に着いたのに、
すでに500メートルほどの行列。

厳重な荷物検査の後敷地内に入ったのは並び始めて5時間後。

雨が降りしきる中、12時半にアンヴァリッドに到着。その時点ですでに500メートルほどの列ができていました。中に入れるのは2時からとのことで、少しづつ進む行列の中にじっと立ち並ぶこと5時間。その間に数人のフランス人と話し合い退屈することはありませんでした。荷物検査の後アンヴァリッドの敷地内に入ったのは5時半。その後警備兵の姿があちらこちらに見える「名誉の内庭」に入ります。

ジャック・シラクの演説の声が絶え間なく流れる「名誉の内庭」。

サン・ルイ教会の入り口にフランスの三色旗。
上方にはナポレオン一世皇帝の青銅像。
この教会の後方のドームの下にナポレオンが眠っています。

その「名誉の内庭」でもまた列を作りながらサン・ルイ教会に真っ直ぐ進む間、ジャック・シラクの様々な演説の声がスピーカーで流されていて、暖かみのある独特の話し方を再び耳にし懐かしさがこみあげてきました。教会の入り口の両サイドにはフランス国旗が飾られていて、奥まった所にジャック・シラクの大きな写真が見えてきました。手を振って国民に呼びかけているような写真の前に、フランス国旗に包まれたジャック・シラクの棺が安置され、近くでは衛兵が緊張した面持ちで立っていました。


フランス国旗に筒まれたジャック・シラクの棺。
国民に別れを告げる温かい微笑みのジャック・シラク。

棺の近くで見守る衛兵。
その後、弔問記帳が並ぶ回廊に向かい、私も一言お礼の言葉を残しました。アンヴァリッドを後にしたころはすでに薄暗くなったいたにもかかわらず、先が見えないほどの行列が続いていました。後で知ったことですが、あまりにも多くの人が並んでいるので、予定を大幅に延長し翌30日朝7時まで延長しました。ジャック・シラクが国民からいかに愛されていたか分かります。

追悼記帳も長い列。
行列は翌朝7時まで続きました。
30日早朝に終わった国民の別れの後、アンヴァリッドのサン・ルイ教会で9時半から親族のみによるミサがあげられ、正午から学生街のサン・シュルピス教会で国葬が執り行われました。火災以来静まっていたノートル・ダム大聖堂が哀悼の鐘を響かせ、ひときわの感動を呼び、ロシアのプーチン大統領、アメリカ元大統領クリントン、モナコのアルベール二世、イギリスのエドワード王子、ルクサンブルク大公夫妻、モロッコ王太子をはじめとし、30ヵ国の外国要人を含む2000人が出席しての盛大なミサの後、ジャック・シラクは3年前に世を去った長女ロランスが眠るモンパルナス墓地に埋葬されました。

2019年9月26日

シラク元大統領 惜しまれる親日家


9月26日、元大統領ジャック・シラク氏が86歳で亡くなられました。
日本の歴史、文化、伝統芸術に絶大な関心と知識を持っていた人で、そのような方が旅立たれて、パリに暮らすひとりの日本人としてひときわの寂しさを感じています。

シラク氏の経歴は今更記すまでもなく、首相、パリ市長、大統領などフランスの政治に大きな貢献を成したことから、政治一筋に生きた稀有な人と言えるでしょう。大統領在任中に何度かエリゼ宮殿のレセプションにご招待してくださり、日本びいきの大統領らしく真っ直ぐに私に向かって来て、日本が懐かしいと気軽にお声をかけてくださったのが、昨日のことのように思い出されます。

日本の知識が驚くほど豊富なシラク大統領。
エリゼ宮殿のレセプションで気さくに話しかけてくださいました。

心優しく暖かい大統領という印象が深く残っています。
ご冥福を心からお祈りしております。

2019年9月25日

メトロの駅名は語る 134

Belleville
ベルヴィル(2、11号線)

近くのベルヴィル通りに由来する駅名。

昔、パリ北郊外の眺めがいい高い丘に村がありサヴィと呼ばれていました。そこには5世紀から8世紀まで続いたメロヴィング王朝の時代から人が住み、修道院やいくつかの教会が建築されました。水源も豊富で十分な水がなくて困っていたパリにも供給していたのです。村の名がベルヴィルに変わったのは18世紀でした。

1891年からトラムが走っていたベルヴィル通り。

キャバレーが多い繁華街で夜遅くまで賑わっていました。
19世紀のキャバレーのポスターのひとつ。

1860年にパリ市に吸収され、メインストリートのベルヴィル通りにはキャバレーや手ごろな価格のレストランやバーが軒を並べる歓楽地となります。1822年から派手なカーニヴァルがベルヴィル通りで催され、丘を降りセーヌ川までパレードが続いていましたが、パリ市に入ってから徐々に姿を消していったのでした。

ベルヴィル通りでもっとも重要なのはフランスを代表する歌手エディット・ピアフが生まれたことでしょう。72番地のアパルトマンの外壁にプレートがあり、「この家の階段で1915年12月19日エディット・ピアフが生まれた」と書いてあります。貧しい家に生まれたピアフでしたが、階段が誕生地というのはあまりにも悲しい。

ベルヴィル通り72番地のアパルトマンの壁に
「この家の階段で1915年12月19日エディット・ピアフが生まれた」
と書いてあるプレート。
少女時代のピアフ
(1915-1963)

フランスとアメリカで大活躍した俳優であり歌手モーリス・シュヴァリエも、この町の貧しい家に生まれています。10歳くらいの時から生活のために働き、苦労して芸人になったモーリス・シュヴァリエは、成功してからは若いアーティストたちの支援を惜しみなくし、活躍の場を紹介したりしていました。それは人情に厚い下町に生まれ育ったからではないかとされています。同じ町で生まれた27歳年下のエディット・ピアフも彼にお世話になったひとりでした。

デビューして間もない頃の
モーリス・シュヴァリエ。
(1888-1972)

現在ベルヴィルにはアジアの移民たちが多数住んでいて、13区に継ぐ中華街とも呼ばれています。ロープライスの中華レストランやお惣菜やさんが多い庶民的な地域です。

2019年9月23日

ノートルダム大聖堂の奇跡の風見鶏

4月15日に起きたノートルダム大聖堂の火災は、フランスだけでなく世界中に大きな衝撃を与えました。信じられない出来事にアパルトマンにじっとしていられず、翌朝、自分の目で確かめたくて大混雑の中近づき、黒焦げのバラ窓などを目の前に見て、やっと火災の実感が湧いたのでした。再建の寄付募集にもすぐに応じてわずかながら小切手を送ったら、8月にお礼の手紙がきて感激したものです。

パレ・ロワイヤルの中にある
文化省のグラン・サロン中央に展示されている風見鶏。

火災の際に96メートルの尖塔の上に付けられていた風見鶏が、瓦礫の中で見つかったとの報道が火災から数日後にあり、それこそ眞に奇跡だとまたまた話題になりました。それ以降、風見鶏の情報がまったくなく、どうしているのだろうと時々思っていたら、9月21、22日の二日間だけ公開されると知り早速予約を入れて見てきました。この二日間はヨーロッパ文化遺産の日で、通常訪問できない官庁関係の建物などを訪問できるのです。

迫力ある表情に圧倒されます。
風見鶏のすぐ近くには尖塔を設置した建築家、
ヴィオレ・ル・デュクの頭部の像もあります。
尖塔足元の使徒のひとり聖トマスとして制作されているそうです。
12使徒のひとり聖ヨハネ像、

12使徒のひとり聖マタイ。

目指す風見鶏は金箔の装飾が煌びやかな広々したサロンの中央に展示してありました。高温と落ちた際の衝撃で多少傷んでいますが、原型をとどめているそうです。19世紀半ばに建築家ヴィオレ・ル・デュクによって大聖堂の交差部に建築された尖塔の頂上に設置され、それ以後すっとパリを見守っていたのかと思うと、何だか神々しい存在に思えます。尖塔の足元には12使徒の立派な像があり、火災前に修復のために取りはずしたそうで、その内の2人の使徒の像も展示してありました。

これほどまじかで見れることは2度とないでしょう。
深く感動しました。

忘れがたい風見鶏。

修復後にこの風見鶏を尖塔の先に付けるかどうかは未定です。破損しているのでレプリカを造る案もあるようですが、今のところ具体的に何も決まっていません。貴重な風見鶏や使徒の像をまじかで見れて充実感を味わいました。

2019年9月21日

パリの犬たち 210

フランス式ごあいさつ

「あら00ちゃ~ん」「まあxxちゃ~ん」同じ時間に偶然お散歩。

ワタシたちもパリジェンヌらしくごあいさつしなくてはネ。
ハ~~イまず左のホッペにチュ。
今度は反対側にチュ。
どうしてこんなややっこしいことするのかしら。くたびれる🐾💨
ああこれでやっと本来のお散歩ができるワン。

2019年9月19日

エッフェル塔 130年


1889年のパリ万博の際に建築された「鉄の貴婦人」エッフェル塔は、今年130年記念を迎え5月には華やかな光のスペクタクルが催され、エッフェル塔がパリのシンボルであることを再認識したものです。そして9月18日には特別番組がテレビで報道され、今まで知らなかった多くのことを学び、ますます関心が高まりました。例えば完成した当時塔は赤だったとか、エレベーターは電気ではなく水力で動いていて、しかも今でも一基はその時代の装置を使用して水力だなどといった裏話が面白い。

エッフェル塔が建築された1889年のパリ万博会場。

1889年は日本は明治22年で多くの人が和服を着ていた時代。その年に300メートルもの高さの鉄の塔をパリのど真ん中に建築したことは、驚異です。それはフランス人の技術がいかに優れているかを、それを許可したパリジャンの進取の気性に富む素晴らしさを、世界に知らしめたのです。エッフェル塔建築以前と以後の間には、目に見えるものだけでなく精神面でも大きな違いがあるように思えます。

それにしてもフランス革命100年記念の年に、このような塔が建築されたことに改めて驚きを感じます。いいかえれば、その100年前まで重税や厳しい身分制度に苦しむアンシャン・レジームだったのに、強靭な鉄でレースのような軽やかさを見せる近代的な建造物を100年後に完成させるほどになった驚異的進歩は、私には信じがたいことです。天に向かって誇り高くそびえ立つエッフェル塔は下から見ると、国民の自由の凱歌を奏でているようです。喜びが空に向かって勢いよく、しかも優雅さを伴いながら舞い上がっている姿は、いつ見ても美しい。

この記念すべき年に私なりに国立図書館などの資料を調べ、興味深いと思われる写真をいくつか選んでご紹介します。

塔の建築が始まる2年前、1887年のシャン・ド・マルス。
初期のデッサン。

基礎工事開始。


順調に進む塔の建築。
前代未聞の鉄による建築美を見せる誇らしげなエッフェル塔。
建築期間はわずか2年2ヵ月。
塔にのぼってカメラに納まる
技師であり建築家ギュスターヴ・エッフェル-(1832-1923)

2019年9月17日

ダヴィンチ設計の機械仕掛けのライオン

今年はルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチがフランスで没して500年記念の年。春先からいろいろなイヴェントがありましたが、ダヴィンチの設計を基にして再現した機械で動く木製のライオン像が、9月中旬から10月9日までパリのイタリア文化会館に展示されています。想像を超える驚異的な作品です。

木製のライオン像。周囲にはメカニックの詳しい説明がありますが、
私にはさっぱり分かりません。
迫力ある表情に圧倒されます。

ライオンがいかに大きいか私と比べてください。

ローマ教皇レオ10世がフランス国王フランソワ一世を喜ばせるために、ダヴィンチにライオンのロボットを依頼し、その時のデッサンを基に後年再現されたのです。高さ2m、長さ3mの大きなライオン像は、顔の表情、今にも動き出しそうな四肢、王者にふさわしいたてがみもリアリティがあり圧巻です。体の中の金属製のメカニズムも見れるようになっています。

1515年、国王即位の年の20歳のフランソワ1世。
(1494-1547)

ロ-マ教皇レオ10世。(1475-1521) ラファエル作。

このライオンロボットはフランソワ一世に向かって歩き、国王の前についたときにフランス王家の紋章となっているユリの花を足元に置き、フィレンツェのシンボルの花(ユリ)を散りばめるためにお腹が開く装置だったそうです。500年も前の発想だったことに驚嘆しないではいられません。

レオナルド・ダヴィンチ(1452-1519)自画像。

ダヴィンチのライオン像が展示されているイタリア文化会館も18世紀建築の旧邸宅で素晴らしい。19世紀を代表する画家ドラクロワや、革命期、ナポレオンの時世、王政復古の時代を巧みに生きた政治家タレイランが暮らしていただけあって、彫刻をほどこした重厚な建造物で庭園も優美。1909年にイタリアが購入し大使館だったのが、1962年から文化会館となり多くの文化的行事を開催しています。

旧邸宅ならではの瀟洒なインテリア。
コンサートも時々開かれます。

憩いの場であり屋外展示場にもなる庭園。

2019年9月15日

パリの犬たち 209

ある晴れた日に

久しぶりにすご~いお天気。
だから、ちょっと気取ってサン・ジェルマン・デ・プレのカフェへ。
そうしたら懐かしいカレがいる💥
「ネ、ワタシよワタシ。覚えているわよね」
「エッ、誰この子」
「ずいぶん前だけど、この同じカフェで会ったじゃない」
「そういわれても、ちっとも思い出せない」
「この間会った時にはのどが渇いて、
ギャルソンがお水を持ってきてくれて一緒に飲んだじゃない」
「そんなの記憶にないワン」
「それより、ここのニオイが気にかかる」
「なんだかワタシのことはどうでもいいみたい。自尊心が傷ついたワン」

2019年9月11日

メトロの駅名は語る 133

Goncourt
ゴンクール(11号線)

19世紀を代表するフランス作家、ゴンクール兄弟の名を表す駅名。

エドモン・ド・ゴンクール
(1822-1896)
ジュール・ド・ゴンクール
(1830-1870)

日本の芥川賞、直木賞に当たるゴンクール賞で名が語られているゴンクール兄弟は、共作「日記」で高く評価されています。この大作の執筆途中で弟ジュールが病で亡くなりますが、その後も悲しみを乗り越えて兄エドモンが書き続けました。当時の社会情勢、芸術や文学の動き、多くの作家たちの私生活も書かれている大変興味深い写実的作品です。

ゴンクール兄弟

大作「日記」

日本にとって重要なことは、兄エドモン・ド・ゴンクールがジャポニズムをフランスに普及するきっかけを作ったことです。西洋美術と全く異なる浮世絵に魅了されたゴンクールは、作品をコレクションしていただけでなく、1891年に「歌麿」をそして1896年に「北斎」を出版。これによって精妙な日本の芸術がフランスに紹介され驚きと影響を与え、日本人には浮世絵の価値を知らしめることになったのです。

エドモン・ド・ゴンクールは弟と共に残した資産をもとに文学賞設立を希望し、彼の遺言通りに1902年ゴンクール賞が誕生し、現在ももっとも権威ある文学賞となっています。

2019年9月10日

パリの犬たち 208

美しいパリにふさわしい歩き方

芸術的で美しい街と誰もが褒めるパリ。
だからそれにふさわしく、お散歩もエレガントにしなくては。
歩幅を広げないで、ゆっくり一歩ずつ進むの。
ほ~らこのようにネ。

どう、優雅でパリにぴったりでしょ?
気品がほとばしっているって感じネ。

ちょっと離れた所で息子もワタシを見習って歩いているようだけれど、
まだまだだわ。

それにしても
どうしてあんなに歩きにくい所をわざわざ選んでいるのか、
わからないワンワン。