ランビュトー(11号線)
19世紀に活躍したセーヌ県知事の名を冠した駅名。
ランビュトー伯爵(1781-1869) |
クロード=フィリップ・バルテロ・ド・ランビュトーが生まれたのは、ルイ14世やルイ15世に仕え軍人として輝かしい業績を残した由緒ある貴族の家です。
16世紀に建築された優美なシャトーで育ったランビュトーは、ナポレオン皇帝の侍従に任命され、1810年、伯爵の称号を受けます。激動の時代にヨーロッパ各地におもむき第一帝政時代の外交に大きな貢献をなしました。
1815年、ナポレオン失脚に伴い華やかな舞台から身を引き、自分のシャトーのリノベーションなどに従事。再び世間で名を語られるようになったのはルイ・フィリップ国王の時世で、セーヌ県知事になります。
ナポレオン失脚後、ブルゴーニュ・フランシュ・コンテ地方にある ランビュトー城に暮らしていました。 |
ランビュトーが国王に宣誓したもっと重要なことは、パリ市民に水と空気と緑を与えることでした。彼がセーヌ県知事に任命された前年の1832年、パリ市はコレラに襲われ2万人近くの犠牲者を出したのが主だった動機だとされています。それは街が不衛生だたっためでランビュトーは直ちに改善に着手します。下水道を大々的に改善し、道路幅を広くし、街路樹を植え、噴水を設置し、病院を次々に建設し、ガス燈を増やしパリを明るい街にし・・・
19世紀初頭のルネサンス様式のパリ市長舎。 |
1805年のオステルリッツの戦いの戦勝記念に、 ナポレオンは翌年自分の誕生日の8月15日に、 エトワールの凱旋門建築を開始させます。 1810年、オーストリア大皇女マリー・ルイーズを2番目の妃として迎え、 2人そろってパリ入りする際に、 まだ柱しかなかった門に木枠、漆喰、絵を描いた布地でくるませ、 完成したかのように見える凱旋門を意気揚々と通ったのです。 その時の様子の絵。 |
オベリスクを設置する1836年のコンコルド広場。 エジプト国王ムハンマド・アリーからフランスに寄贈されたオベリスクは、 エジプトのルクソール神殿の対の「クレオパトラの針」のひとつ。 ラムセス2世の偉業を語るヒエログリフが刻まれていますが、 難解なヒエログリフ解読に成功したのはフランス人シャンポリオンです。 |
多くの業績を残しましたが在任中の国の予算は十分ではなく、ランビュトーが描いていたパリ大改造が実現するのは、ルイ・フィリップ国王の後フランスを治めるようになったナポレオン3世の時代のセーヌ県知事オスマン男爵です。その基礎を造ったのがランビュトーですが、彼の業績はオスマンほど世間では知られていません。ルイ・フィリップ国王は1848年に失脚し、ランビュトーの役割も終わります。
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