2021年5月30日

快晴の「母の日」

5月最終日曜日の「母の日」は、快晴に恵まれました。しかも気温は23度で快適。まるで、空までお祝いしているようで、身も心も浮き立ちます。

空は青いし、木々の緑がまぶしいくらい。


公園内の屋外レストランは大人気。

満開のお花に目も心も奪われます。


驚いたことに「母の日」の前日の昨日、コンテンポラリーなジュエリーで人気のティファニーの前に、長い行列ができていたのです。今まで見かけなかった光景です。こうしたプレゼントを受け取る人はもちろん、差し上げる人も、同じくらい幸せを感じるものです。

ジュエリーまでは手が届かなくても、キレイなお花が充分に感謝と幸福を届けます。テレビ報道によると、フランスでは「母の日」にプレゼントするお花は、シャクヤクが一番人気があるそう。生産が間に合わないほど、フラワーショップからオーダーがあったと生産者が笑顔で語っていました。5月に満開の姿を見せるシャクヤクは、エレガントでフェミニン。美しい女性の形容に使われるお花です。

淡いピンクだけのブーケ。優しさと幸福感が漂ってきます。
「母の日」に最適な色合いの花束です。


この日のための特別なスイーツに誘惑されそう。

2021年5月24日

「母の日」をお祝いしよう

フランスの「母の日」は5月の最終日曜日で、今年は5月30日です。この日、日頃お世話になっている母に感謝の気持ちを伝えるために、家族でレストランでお祝いする人が結構多く、すでに予約が殺到しているそうです。

ロックダウンが長く続いていたので、レストランにも旅行にも行けず、貯金が増えている。そのために、プレゼントの予算も例年より多く、それを見込んで宝飾店も香水店もバッグ専門店も、心を捉えるような魅惑的なディスプレイばかり。そうした光景をいくつかご紹介します。

高級なジュエリー店に見とれるステキな母娘。
やはり、ピンクは女性にとって魅力あるカラー。
ひときわ目立つ装飾。


ショーウインドウに近づくと、
バラのモチーフがフェミニンなダイヤモンドのネックレスが、
まぶしいほどの煌めきを放っています。


香水店もこの上なく華やか。
大きなハートの装飾に感謝と愛が込められているようで、
思わず見とれてしまいます。


春から初夏に持ちたい明るいカラーも、落ち着いたシックな色も欲しい。
バッグはいくつあってもいいアイテム。

2021年5月20日

安藤忠雄設計の最新美術館

5 月22日、安藤忠雄がリノーベーションを手がけた美術館がオープンします。昨年に完成していたのですが、ロックダウンのために、すべての美術館が閉鎖されていて、この日をずっと待っていたのです。

一般公開に先駆けて、19日から21日までの3日間、コロナで人数制限があるために招待客が分かれて訪問。私は19日午後2時の招待状でした。

フランス実業界の大御所フランソワ・ピノ―が、パリ中心にある歴史的建造物のブルス・ド・コメルス(商品取引所)を、自分のコレクションを展示する美術館にしたいと、安藤忠雄に改装を依頼。美術館は「ブルス・ド・コメルス=ピノ―・コレクション」と呼ばれます。

フランソワ・ピノ―はコンテンポラリー美術に造詣が深く、一万点もの作品を持つ、破格のコレクターとして世界に名を轟かせています。実業家としての腕は目を見張るほどで、サンローラン、グッチ、バランシアガ、ボッテガ・べネタ、ブシュロンなどを傘下にするグループの創立者。現在は息子フランソワ=アンリ・ピノ―があとを継ぎ、ケリングという名で多くのラグジュアリー製品を扱っています。

安藤忠雄とフランソワ・ピノ―のコラボレーションは、今回が初めてではありません。すでにベネチアのサンマルコ広場近くの歴史的建造物を、フランソワ・ピノ―のコレクションの一部を展示するために、安藤忠雄は美術館にしています。2009年でした。

1838年の商品取引所。当時はここで小麦の取引が行われていました。


パリの中央に建築された商品取引所は、19世紀の円形の建造物で、ドーム形屋根が大きな特徴。その下にコンクリートの円塔が建築され、そこに、フランソワ・ピノ―が50年かけて収集した、貴重なコンテンポラリー・アートの主要作品が展示されています。絵画、彫刻、写真など、世界中のアーティストの作品です。

美術館になった旧商品取引所。

美術館に入ってすぐに視線を捕えるドーム。
その真下に、天を衝くような力強い彫刻が展示されていて、
インパクトに圧倒されます。

右側の円筒の階段をのぼりながら、階上の展示室に向かいます。

円筒の階段の途中から下を見ると、美しい通路が見えます。

ドームの下に描かれた壁画は建築当時の貴重なもの。
重厚な歴史的建造物と清涼感ある現代建築が相まって、
特有のアンビアンスを放っています。

最上階の窓から、ポンピドゥーセンター、フォーラム・デ・アル、
17世紀のサン・トゥスタッシュ教会がくっきりと見え、
新旧の建造物が共存している、パリの優れた都市計画を再認識します。

展示会場は明るく広々としていて、
作品をじっくり鑑賞できます。

ドームの下に本物のハトがとまっているのかと思ったら、
これも飾りでした。このように驚きもある美術館。

彫刻も絵画も迫力満点。

過去、現在、未来が共存している魅力いっぱいの美術館です。展示作品は時をみて変えるそうなので、何度も訪れたくなります。

2021年5月19日

テラス席、美術館、映画館、劇場・・・再オープン

 待ちに待っていた5月19日を迎え、隅々までよろこびが飛び交っているパリ。この日からレストランもカフェもテラス席を再開しているので、どこも大賑わい。しかも、夜間外出禁止令が7時から9時になったから、結構ゆっくりと時間を過ごせるのです。これだと、早めのディナーも楽しめる。

今までは、教会の階段、公園のベンチ、芝生の上、バス停の椅子、セーヌ川の川岸などで、テイクアウトを急いで食べていたのが、椅子に座って、しかも、サーヴィスを受けながら食事を楽しめるのだから、喜びはひとしお。だから誰の顔も輝いている。

テラス席再オープンの日のランチタイムは雨。
それでも多くの人が待ち構えていたように殺到。


なぜか、急に馬車が連なって細い道路に入ってきて、
そこに乗っている人がテラスに向かって
「皆、楽しんで~」などと声をかけている。
それに答えてテラスから「メルシー!!」と元気な声が上がる、
和やかな場面もあったテラス開放初日でした。

ソーシャルディスタンスを保ち、ワンテーブル6人までと人数制限があるとはいえ、閑散としていたテラスに数えきれないほど多くの人が集まり、話し声が響き、快活な笑い声があがり、サーヴィス係りが忙し気に動き回るのを見ていると、人生に活気がよみがえったよう。そうした様子を見ているだけで、うれしさが伝わってきます。

ロックダウンを決定するときに、マクロン大統領がフランス人のメンタリティーを考慮し、できるだけ短くしたいと語っていたのを思い出します。アールドヴィーヴルにこだわるフランス人にとって、食事は重要なアートなのです。それを取り上げたら、精神的苦痛を感じる。だから、テラス席解放だけでも、大事。これを最大に楽しまないではいられない。お天気が今ひとつだけれど、文句は言うまい。

美術館、映画館、劇場、デパート、洋品店、動物園も人数制限をしながら再開。忘れられていた華やかさが輝いているパリです。

アメリカ大統領は、ワクチンを2回接種し、2週間経ったらマスクをはずしていいと公言しましたが、フランス人は懐疑的。テラス開放でも、食事が運ばれるまでマスク着用が求められているほど。

フランスでは大手製薬会社サノフィが、コロナのワクチン開発をずっと行っていて、その最新発表ではかなり期待できそう。2回の接種で抗体陽転は95~100%で力強い免疫力。価格はファイザーの半分。保存期間はファイザーの数倍の長さ。すべての年齢に適しているといいことばかり。現在、治験を続けていて、今後3万5000人の治験を終えた段階で結果をみて、今年末に実用化に踏み切る予定。

これに大いに期待したい。

2021年5月14日

メトロの駅名は語る 168

Malakoff=rue Etienne Dolet
マラコフ=リュー・エティエンヌ・ドレ(14号線)

マラコフ市(167参照)と、ルネサンス期の作家であり、詩人、哲学者だったエティエンヌ・ドレの名を冠する道路名を表す駅名。「リュー・エティエンヌ・ドレ」はエティエンヌ・ドレ通りという意味。

エティエンヌ・ドレ(1509-1546)

オルレアンで生まれたエティエンヌ・ドレは、パリ、ヴェネツィア、パトヴァ、トゥールーズで哲学、古典、法律を学んだ博学な人です。

「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれる国王フランソワ1世に、二巻に及ぶ「ラテン語解釈」の本を献上し、王の賞賛を得て、10年間にわたってラテン語、ギリシャ語、イタリア語、フランス語の彼の著作、あるいは、監修をしたすべての作品の印刷許可を国王から与えれます。勢いに乗ったドレはリヨンに印刷所を開き、ガレノス、ラブレ―、マレの作品を編集しました。

性格が激しい上に、無神論者的な発言を繰り返していたために、多くの敵を持っていたドレは、1542年に発行した、キリスト教モラリストとしての彼の心情を書いたCato Christianusにより、ついには異端者、無神論者と痛烈に批難され投獄されます。

その後も反キリスト教的執筆を続け、投獄、釈放、あるいは脱獄を繰り返し、フランスを逃れイタリアに暮らし、弁護論の本、Le second enferを書きます。この本はフランスで激怒をかい、パリのノートルダム大聖堂前で、焼かれたほどでした。

それを知ったドレは、自己弁護のためにパリに戻りますが逮捕され、監獄に入れられ裁判で有罪となります。罪状は、キリスト教に不可欠な、神の摂理と魂の不死の概念を否定したためでした。

1546年、判決を受けたドレは、異端者の処刑場とされていた5区のモベール広場で、8月3日に火刑に処されました。

モベール広場のドレのブロンズ像。
第二次世界大戦の最中の撤去されました。

1889年にモベール広場にドレのための立派なブロンズの像が造られ、台座に「このモニュメントは宗教的不寛容と、王族の犠牲者となったエティエンヌ・ドレに捧げるために建てられた」と刻まれていました。
その後、思想の自由と世俗主義のシンボルとなっていましたが、1942年に取り払われ、現在モベール広場は大きなマルシェになっています。

2021年5月9日

シャネルの新しい本

 ココ・シャネルの人生に大きな影響を与えた8人に関する本を、昨年「さくら舎」から刊行していただきました。その執筆のためにいろいろ調べ、シャネルがいかに比類なき女性であるか、改めて感じ、刺激を受けました。

今年も引き続き、シャネルについて多くを学ぶ機会を得ました。同じ「さくら舎」が出版してくださった、イギリス女性が書いたシャネルの本の翻訳を手がけたのです。

今回の本はシャネルの生い立ちと、シャネルのブランド名を持つ製品が、どのようにして生まれ、どのように世に広がっていったかに焦点を当てている、いわば「シャネルのすべて」という内容です。

カラー写真が豊富でキレイだし、カバーも一見してシャネルだとわかる、お馴染みのブラック。シックでお洒落です。

シャネルのすべてがわかる本です。

今年はココ・シャネルが没して50年記念の年であり、伝説的香水「シャネル№5」が誕生して100年。さらに来年は「ダイヤモンド・ジュエリー」で世を驚かせて90年の重要な年です。

こうした記念すべき年に、稀有な女性ココ・シャネルに関する本を出版していただけるのは幸せです。多くの人に読んでいただけたら、とてもうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

5月12日発売。

2021年5月8日

高田賢三さんのコレクション、オークションに

 昨年秋にパリで亡くなった、デザイナー高田賢三さんがコレクションした貴重な品が、5月11日、シャンゼリゼに面したアールキュリアルでオークションにかけられます。600点を超える数で、競売前の5月3日から8日までと、10日にアールキュリアルで展示され、その間、誰でも見られます。

展示されている品すべてに、賢三さんの思い出がこもっているし、それなりの物語があるので、一点一点見るにつけ、懐かしさで胸が締め付けられる思いです。

会場には6区の賢三さんの自宅の一部を再現。ダイニングテーブルの上には、ムラーノ島のガラス工房に特別に注文したグラスがありますが、そのグラスでシャンパーニュをいただいたこともあるし、賢三さん自身がデザインし、製作を依頼した漆器でディナーをいただいたこともありました。そうしたときには、レストランTOYOのオーナーシェフがスタッフとともにキッチンで腕を振るい、絶品を味わったものです。賢三さんは、親しい友人が喜ぶことをするのが大好きな、人情味あふれる人でした。

長い廊下の壁に掛けられていた19世紀の日本の屏風は、特に賢三さんが気に入っていて、以前住んでいたバスティーユの家でも飾っていたし、プレイエルのグランドピアノで、ベートーヴェンの「エリーゼのために」をひいてくれたこともあります。あまり知られていませんが、ピアノのレッスンを受けていた時代もあるのです。こうした品もオークションされます。

家具に関しては、各部屋に合う特別注文で、時には数回作り直してもらったと言っていたのもあります。お能をテーマにした賢三さんの手による絵も数枚あるし、紀元前と推定される中国の木製の馬もあります。

この特注家具も、賢三さんデザインのクッションも、
後方の情緒ある日本画も、すべてオークションされます。

賢三さんが最後まで愛用していた仕事机と椅子。
これもオークションにかけられます。2020年1月の写真です。


限りないほどたくさんあるコレクションが、それぞれ異なる新しい持ち主と暮らすようになるのでしょうが、やはり寂しさを感じないではいられません。数年前から賢三さんに毎月お会いしていたので、どの品も親しみがあり、無理やり引き放されるようなのです。

高田賢三さんは、ほんとうにいい人でした。あれほど才能があり、それでいてシンプルで寛大な人は稀だと、フランス人も声を揃えて言います。世界に誇れる稀有な日本人です。

2021年5月7日

テラス席オープンが待ち遠しい

 5月19日からレストラン、カフェのテラス席を再開していいと発表があってから、皆、その日を指折り数えて待っています。その発表以来、パリジャンの顔がにこやかになったようだし、街にも明るさが漂っているよう。

フランス人はアールドヴィーヴルを大切にする国民だから、とマクロン大統領がインタヴューで答えていましたが、確かにそう。驚いたのは、小学校の給食の様子をテレビのニュースでみていたら、級友たちとランチを取るときに、楽しくおしゃべりするのはアールドヴィーヴルだから、これは絶対にやめたらダメ、と生徒がはっきり言っていたこと。小さいころから、そうした事にこだわるのですね。

レストラン内での食事はまだ先のことだけれど、テラス席オープンだけでも、人生が楽しくなるもの。

レストランのテラス席は、色鮮やかなお花をいっぱい飾って、
ランチタイムに賑わうのを待っています。


イタリアレストランの看板娘、ブランカちゃんも準備OK.

テラス大好きな私も待ち焦がれています。
ロックダウン前の写真です。


ワクチン接種の効果は、はっきり表れているようで、そのぺースをあげるために、5月15日から50歳以上の人は誰でも接種できることになっていたのが、急に、10日からに繰り上げられました。これも、マクロン大統領の発表です。

このように、状況に応じて素早く対処するのでありがたい。エマニュエル・マクロン大統領は43歳、オリヴィエ.ヴェラン保険大臣は41歳、ガブリエル・アタル政府報道官は32歳。重要な地位に就いている政治家が若いフランスです。

パリの犬たち 250

 ちゃんとポーズを決めるの


エッ 写真撮ってくれるの?

ちょっと待ってね。場所をちゃんと選ばなくては。
ワタシ、バックにこだわるの。

そう、ここがいいの、ママンの足元が。
絵になるでしょ? ポーズもバッチリでしょ?

2021年5月2日

ナポレオン没後200年 ④ アンヴァリッドへ向うナポレオン

セント・ヘレナからフリゲート艦でシェルブールに到着したナポレオンは、街をあげての大歓迎を受けます。英仏海峡に飛び出た半島にあるシェルブールは、小さな港でしたが、重要な位置にあると判断したナポレオンは、大規模な工事を行わせ、要塞化させたのです。

シェルブールでナポレオンは、ラ・ベル・プール号(右))から蒸気船ノルマンディー号(左)に
移されました。


ナポレオンの遺骸はシェルブールでラ・ベル・プール号に別れを告げ、蒸気船ノルマンディー号に移され、ル・アーヴル港へと向かいました。そのル・アーヴル港からセーヌ川に入り、パリを目指すのです。途中から川幅が狭くなるので、ノルマンディー号よりさらに小型の蒸気船ドラード号に移り、12月14日パリ近郊のヌイイに到着。ナポレオンがアンヴァリッドに埋葬されるのは、その翌日の12月15日と決まっていました。

船をおり霊柩車に移ったナポレオンの棺。
高さ10メートル、幅5メートルの霊柩車の上には、ナポレオンの時代の輝かしい14の勝利を祝う女神像が美しい姿を見せ、16頭の馬はムラサキ色のベルベットで華やかに装いながら、          ジョアンヴィル公の後ろに続きながら霊柩車をひいていました。

棺の四隅は元帥と将軍が固め、ラ・ベル・プールの400人の水兵が霊柩車を取り囲みながら、ナポレオンが建築を命じた凱旋門の下をくぐり、シャンゼリゼを華々しく下り、セーヌ川を横切り、左岸のアンヴァリッドへ葬列行進は進んで行きました。


ナポレオンは建築を命じた凱旋門の完成を見ずに、セント・ヘレナに送られたのです。
12月15日、フランスに帰還したナポレオンは、「皇帝バンザイ」の声と大砲の音に包まれながら、栄光の凱旋門をくぐったのでした。


アンヴァリッドでは、イギリスとの7年もの長い交渉の結果、かつてのフランス皇帝の祖国への帰還を実現したルイ・フィリップ国王が待ち構えていました。国王はジョアンヴィル公を先頭に近づいてくる壮麗な葬列行進が見えてくると、アンヴァリッドから数歩前に進み、出迎えました。

アンヴァリッドに着いたナポレオン。

アンヴァリッドに到着したナポレオンは、ミサを受けるためにドームに隣接するサン・ルイ教会に入ります。国王と軍人たちが多数出席する中で、モーツアルトのレクイエムが歌われ、祈りが捧げられました。

アンヴァリッドのサン・ルイ教会でミサがあげられました。

ドームの真下に葬られる予定のナポレオンでしたが、完成に長い年月が必要なために、アンヴァリッド内にある聖ジェローム礼拝堂に安置されます。現在見られる皇帝の墓が完成し、そこに移されたのは1861年4月2日で、ナポレオン3世の時代でした。

  
墓が完成するまでの間、
聖ジェローム礼拝堂に安置されていました。

ナポレオンを安置するために、
アンヴァリッドのドームの下に6メートルの深い穴を開けました。
セント・ヘレナで4重の棺に納められた皇帝は、
新たに作った長さ4メートル、幅2メートルの赤メノウの重厚な棺の中に、
4重の棺のまま葬られ、緑の花崗岩の土台の上に置かれ現在に至っています。


1861年4月2日、ナポレオンはドーム真下の墓に移されました。
遺骸の帰還を実現させたルイ・フィリップ国王は政変で失脚し、
埋葬に出席したのはナポレオン3世でした。

イギリスのヴィクトリア女王(1819-1901)とフランスのナポレオン3世(1808-1873)の間での交渉の結果、ナポレオンが1815年12月10日から1821年5月5日まで暮らしていた、セント・ヘレナのロングウッドの館と葬られた墓所を、1858年にフランスが買いとり、以後、フランスの国旗が飾られています。


1925年8月4日には、セント・ヘレナを訪問したイギリスのエドワード皇太子が、
ナポレオンが19年間葬られていた墓に行き、記念の植樹を行いました。

時が経ち、1925年になると、イギリスのエドワード皇太子がセント・ヘレナを訪れた際に、ナポレオンのお墓で植樹をしました。

エドワード皇太子は後に国王エドワード8世(1894-1972)になりますが、離婚歴があるアメリカ女性シンプソン夫人と結婚するために、王位を捨てウインザー公となります。公爵夫妻を暖かく迎えたのはフランスで、パリの西にあるブローニュの森の中の瀟洒な館を提供し、そこでウインザー公も夫人も生涯を閉じました。

                                   ★★★

15年ほど前にナポレオンに関する本を2冊執筆し、講談社+α文庫で出版されました。この機会に読んでいただけたらうれしいです。

       

2021年5月1日

スズラン祭

 5月1日のスズラン祭の日を迎え、本格的な春です。

大切な女性にスズランを贈る日があるなんて、フランスはやはりいい国。幸せのシンボルのスズランは、この日は誰がどこで売ってもいいことになっていますが、昨年に続いてコロナのために制約があり、街中にスズランがいっぱい、ということにはなりません。

それでもフラワーショップやスーパーで、スズランの小粒のお花を見るのは心がなごみます。スイーツのお店では、スズランを飾ったディスプレイで目を楽しませてくれます。

スーパーでは入り口の近くに飾って、ひと目をひいています。

チョコレート店で、控えめながら愛らしいお花を見せる
アーティフィシャルなスズラン。
チョコと一緒にスズランをプレゼントする人も多いようです。


スズラン祭のきっかけを作ったのは、以前のブログでも少し書いたように、フランス国王シャルル9世でした。

彼が10歳のとき、母親のカトリーヌ・ド・メディシスとフランス南東のドローム県を訪問します。当初、アヴィニオンに行く予定でしたが、カトリックとプロテスタントの宗教争いが激しく、危険なので、アヴィニオン入りをあきらめます。その時、その近くのサン=ポール=トロワ=シャトーに屋敷を持っていた、カトリーヌ・ド・メディシスの信頼を受けていたメゾンフォルド騎士が、自分の館に招き、庭園を共に散歩していた時、咲いていたスズランの花をカトリーヌ・ド・メディシスにプレゼントしました。

国王になって間もない1561年のシャルル9世(1550-1574)

それに感激したデリケートな感性の持ち主のシャルル9世は、翌1561年から、スズランがきれいな花を咲かせる5月1日に、彼の宮廷の女性たちにスズランを毎年プレゼントすることにしたのです。フランス・ルネサンスの時代の美しいお話です。

女性とスズランはよく似合います。フランスの歴史上名高い二人の女性がスズランと一緒に描かれた絵があります。どちらも才女で、すご腕で、権力者でしたが、可憐なスズランが近くにあると、やさしく感じられるから不思議。これもスズランのお蔭でしょう。

スズランのヘア飾りをつける、
若き日の王妃マリー・ド・メディシス(1575-1642)

庭園で花を摘む、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人(1724-1764)