2015年11月30日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 29

王太子を抱く王妃と、祝福する国王。
その足元で、第一王女マリー・テレーズが愛らしく弟を歓迎。
1781年10月22日、王妃は世継ぎとなる王太子を出産し、
王太子と王女と一緒の
この上なく幸せな王妃。
国民の喜びが頂点に達しました。
生まれた当日に、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で洗礼を受け、王子はルイ=ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワと命名されました。

国王夫妻は揃って子煩悩で、出来る限り子供たちと一緒に過ごす時間を取るよう心がけていました。

二人の子供に恵まれた幸せな国王夫妻でしたが、心配事が持ち上がります。王太子の健康がすぐれなくなったのです。それは王子が3歳になった頃からでした。高熱に苦しむ日が続き、ミュエット城で静養し、回復するとヴェルサイユ宮殿に戻るという生活が始まります。

王太子は初期の結核の症状を示していたのです。
後年にそれが判明したとき、乳母のひとりだったジュヌヴィエーヴが移したのではないかと疑われました。彼女は歌が上手で王太子に何度も歌って聞かせ、それに合わせてマリー・アントワネットがクラヴサンを奏でることもありました。


幼いときには主に女官たちが王太子のお世話をしていました。
ところが、1786年、5歳のとき、未来の国王になるための教育を行なう年齢に達したため、男性が養育係を務めることになります。
その儀式が行なわれた際に、王太子はすでに真っ直ぐ歩くことが出来ない状態。脊髄が曲がり始めていたのです。
その年から翌年まで、脊髄を治すために、鉄のコルセットをつけていた幼い王太子でした。

1788年から病状はますます悪化。
翌年5月8日、ヴェルサイユからさほど遠くないムードンの森の中の館で、本格的静養を行なうことになります。
病弱だっ王太子は
7歳半の短い生涯とじます。
人一倍子供好きなマリー・アントワネットは、時間が許す限り息子のそばにいるよう心がけます。国王も毎日息子に会いに行き、マリー・テレーズ王女もかわいそうな弟にやさしく声をかけていました。

ときには連れ立って庭園を散歩することもありましたが、それも徐々に出来なくなり、ついには車イスに座る日がきます。

医師たちの必死の治療と、国王夫妻の祈りにもかかわらず、病気は容赦なく悪化し、ついに1789年6月4日夜、7歳半の短い生涯を閉じます。
王家の墓であるサン・ドニ教会の地下に葬られたのは、くしくもバスティーユ監獄襲撃の前日、1789年7月13日のことでした。

この日を境に王制は日を追って破滅に向っていったのです。

2015年11月29日

ノエル 5

ココ・シャネルが大好きだったカメリア。
シャネル本社のショーウィンドーのノエル装飾には、
白いカメリアがいっぱい。清浄な美しさが満ちあふれています。

2015年11月28日

三色旗にライトアップされた国会議事堂

国会議事堂の正面は、今でも夕刻からフランスの国旗の赤、白、青にライトアップされています。
その写真を撮っていたら、
「キレイでしょ。本当にキレイよね」
見知らぬマダムが話かけてきました。

革命のときに、パリ市民軍の標章である赤と青の間に、ブルボン王朝の象徴の白を入れて、平等を表すことになった国旗トリコロール。
精神の高揚を促す美しさがあるのは確かです。

2015年11月27日

国家追悼セレモニー

11月13日の大惨事から2週間後の27日、アンヴァリッドの「名誉の中庭」で、犠牲者へのオマージュの儀式が行なわれました。

大統領、各大臣、すべての党首、多くの議員、軍人、遺族、警察代表、救助隊代表、数人の負傷者など約2000人が集まった中でのセレモニーは、厳粛で感動的でした。

犠牲者の写真が大きく映し出され、ひとりひとりの名と年齢が告げられ、愛の歌が歌われ、その間、オランド大統領の苦しみに歪む顔が、何度もテレビ画面に大きく写っていました。

沈痛な面持ちの大統領は、その後16分間の演説を行いました。17ヶ国にも及ぶ国籍の人々が犠牲になったこと、多くの希望や将来をもっていた若い命が奪われたこと、この惨事がいつまでも人々の記憶に残り、忘れられることはないこと・・・・
最後に全員で国歌を絶唱。

肌寒い朝の格調高いセレモニーでした。

ノエル 4

コンコルド広場とマドレーヌ教会を結ぶロワイヤル通りは、
テーブルウエアのブティックが並び、とてもシック。
それに合わせたノエルの装飾も、とてもシック。

2015年11月26日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 28

ヴィジェ=ルブラン作の
気品あふれる王妃の肖像画。
写真がなかった当時、自分を引き立たせる肖像画を描く画家が重視されていました。
画家の筆次第で、良くも悪くも見えるのですから、イメージに大きな影響を与えます。
ヴィジェ=ルブランによる
王妃のデッサン。

マリー・アントワネットが最も好んでいたのは、彼女と同年の女流画家、エリザベット・ヴィジェ=ルブランでした。

幼い頃から画家だった父の手ほどきを受け、その後、数人の優秀な画家たちから多くを学んだ彼女は、10代半ばで早くも才能が認められ、肖像画を手がけるようになります。

気品ある彼女が描く絵には、同じように品格があり、貴族たちから絶賛され、ついにエリザベット・ヴィジェ=ルブランの名は、王妃の耳に入ったのでした。

マリー・アントワネットのお気に入りとなったヴィジェ=ルブランは、王妃だけでなく、子供たちの愛らしい姿も描きます。
エリザベット・ヴィジェ=ルブラン

7月14日に旧体制の象徴であるバスティーユ監獄が襲撃され、10月6日に暴徒たちがヴェルサイ
ユ宮殿に押し入り、国王一家がパリに連行されるや否や、ヴィジェ=ルブランは娘を伴って外国に亡命します。
画家のデリケートな感性が、彼女に身の危険を悟らせたのでしょう。

外国を転々をしていた彼女をもっとも温かく迎えたのはロシアでした。
女帝エカテリーナ2世は、誰よりもフランスで起きた革命におののき、亡命貴族を優遇していたのです。彼女は反革命運動を起こすフランス貴族たちに、莫大な資金を調達していたほど。

その後、革命が終わりフランスに戻ったヴィジェ=ルブランでしたが、
王妃処刑という、身を切るような苦しみから逃れることは出来なかったようです。娘にも先立たれた彼女の晩年は寂しく、思い出にひたりながら86歳で生涯を終えます。
マリー・アントワネットが亡くなって7年後に、
ヴィジェ=ルブランが描いた肖像画。

2015年11月25日

ノエル 3

やはりノエルにはカラフルな飾りが似合う。
特に今は、心に明るさを届ける色がいっぱい欲しい。
そうしたとき、ピンクは最適。
夢があっていい。愛があっていい。優しさがあっていい。
世界中にピンクを!

三色旗の大観覧車


コンコルド広場の大観覧車。
例年は白一色なのに、今年はフランスの国旗の赤、白、青。
夜空にひときわの輝きを放っています。

2015年11月24日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 27

プティ・トリアノンの庭園でくつろぐ王妃。
右後に「愛の神殿」が見えます。
マリー・アントワネットが王妃になったお祝いに、
ルイ16世からプレゼントされたプティ・トリアノンの城主は、勿論、彼女自身。
小さめの均整が取れたその城館がすっかり気に入った王妃は、優美なロココの装飾を施させ、時が経つにつれて、そこで過ごす時間が長くなります。
当時の「愛の神殿」を表す
貴重な水彩画。
城館の後方と横手には、自然を生かしたイギリス庭園を作らせます。ヴェルサイユ宮殿に見られる、幾何学様式の人工美を誇る庭園は彼女の好みではなかったのです。
イギリスに多く見られる田園生活を、何よりも愛していたマリー・アントワネットでした。
人工的に作った小川と小さい島、その上には大理石の「愛の神殿」が建てられます。12のコリント様式の柱が美しいネオクラシックの神殿。
それが、プティ・トリアノンの窓から見える位置にというのが王妃の希望でした。
夕刻の幻想的な祭典
実際に、彼女は、窓辺に佇んで「愛の神殿」とその周囲の光景を眺めていました。
夕刻になると、無数のたいまつを灯して幻想的な雰囲気を作り、祭典を楽しむのでした。
マリー・アントワネットの兄、ヨーゼフ2世が1781年夏にヴェルサイユ宮殿を訪問したときにも、「愛の神殿」を光の中に浮かび上がらせ、歓迎した王妃でした。
格別な審美眼を持つ彼女は、こうしたことに関するアイディアと才知に富む女性だったのです。

2015年11月23日

とても寒いパリ



ついに本格的な寒さ。
今朝のパリは0度。
あわててベランダのお花の足元にビニールをかけました。これは、ブーツのつもり。
もっと寒くなったら、ビニールですっぽり包んであげよう。これはダウンコート。

こんなに寒くなったのに、頑張ってお花を咲かせているゼラニュームたち。結構強いのですね。

パリの犬たち 49

ワタシが目的なのかしら、ドレスが目的なのかしら?

さっきからず~っとついてくる人がいる。
左右対称のワタシの均整がとれたお顔がステキだからか、
それとも、赤とグリーンのツートンカラーのドレスが気に入っているのかしら。
どっちにしても気をつけなくてはいけないワンワンワン。

2015年11月22日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 26

王妃の寝室で、王女誕生の瞬間
長年、子供に恵まれなかった夫妻でしたが、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世の説得で、ルイ16世が手術を受けた結果、結婚8年後、1778年12月19日に王女が誕生しました。

王妃の出産は、多数の貴族が見守る中で行なわれるのが、フランス宮廷のしきたりでした。そのために、王妃の寝室には重なり合うように多数の貴族が駆けつけていました。そうした貴族たちや医師たちが放つ緊迫した吐息で、寝室は真冬であったにもかかわらず、熱気がこもっていました。
女官に抱かれる
マリー・テレーズ王女

その中で数時間の陣痛の苦しみの後、初の子供が誕生。生まれたのは王女でした。その喜びを味わうこともなく、王妃は気を失ってしまいます。
あわてたルイ16世が、窓に駆け寄り、背の高い重い窓を大きく開け外の空気を入れ、王妃は我に返ったのでした。

21の礼砲で王女誕生が知らされ、ヴェルサイユでも、パリでも、地方でもお祝い騒ぎが続きました。

マリー・テレーズ・シャルロットと命名された王女は、母に似たブロンドと大きなブルーの瞳の愛らしい顔立ち。
革命で父母、弟とタンプル塔に幽閉されますが、後に釈放され、母の故郷ウィーンへと向います。

母に良く似たブロンドと
大きな瞳の美しい6歳の王女
21歳のときに、父ルイ16世の末弟、アルトワ伯の王子アングレーム公ルイ・アノトワーヌと結婚します。が、子供に恵まれず直径子孫は絶えます。

ナポレオンが日の出の勢いで登場し、権力の座に就き、オーストリアとの激戦が続くとイギリスに亡命し、手厚く迎えられます。その後ナポレオン失脚に伴ないフランスに戻り、義理の父がシャルル10世としてフランス国王の座に就き、マリー・テレーズは王太子妃となります。

ところが政変が起きイギリスに再度亡命。その後、プラハに暮らしたこともありますが、最終的にはウィーン郊外のシャトーで静かな余生を送り、72歳の波乱に富んだ生涯を閉じます。

2015年11月21日

ノエル 2

ノエルに欠かせないトナカイさん。いつか本物に会いに行きたい。
でも、ショーウインドーの中の、白いフカフカのお洋服のトナカイさんも可愛い。
その前を通るた度に
「元気?」
と話しかける私。
すると、やさしい目でじっと見ながら「元気」とうなずいてくれる(ように思える)。
心に平和が広がる幸せなひととき。

雨のパリ

プラタナスの枯葉が描く名画
パリでは珍しく朝から雨。
一日中降り続いている。

路上に落ちたプラタナスの枯葉が、
絵のようにアーテイスティック。

ステキなピンクの雨靴。
ナツミさん、覚えていますか?
そう、あのときのあのブーツ。
小学生になった気分で愛用しています。
雨の日は可愛く。

2015年11月20日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 25

姉夫妻を訪問したマクシミリアン・フランツ大公


パステルブルーは
王妃お気に入りのカラー
マリア・テレジアの16番目の最後の子供、マクシミリアン・フランツ大公は、マリー・アントワネットの弟にあたり、年が近いために二人は仲良しで、共に遊び、共に育っていきました。
彼は大変温厚な性格で、ドイツ騎士団団長を務め、最後にケルン大司教になった人。

見聞を広げるためにフランスを訪れた彼は、ブルゴ伯爵という偽名を使用し、実情を把握するよう心がけ、成果をあげたようです。

姉が弟を迎えたのは、3つの館で形成されていたミュエット城。ブーローニュの森に近い地に建築されたその城は、ルイ15世もルイ16世も好み、度々滞在していました。マリー・アントワネットが結婚式当日の朝までいたのも、その城。結婚式のためにそこを早朝に離れ、ヴェルサイユ宮殿に向ったのです。

その後も度々滞在していたミュエット城は、革命で破壊され、家具調度品は売却され、土地もいくつかに分割されて売られ、すっかり姿を消しました。その後アンリ・ド・ロスチャイルドが18世紀風のシャトーを建築させ暮していましたが、後年、彼の子孫がOECDに売却。現在はその本部が置かれています。ミュエットはメトロの駅名として残っています。
当時のミュエット城

2015年11月19日

パリの犬たち 48

パリの犬の仲間入りをしたばかり。
ボク、まだ若くて知らないことばっかりだし、知らない人ばっかり。
ボクは白い胸飾りが特徴だよ。かっこいいでしょ?
これからどんどん大きくなって、
パリの王様って呼ばれるようになりたいワン。

ヴァンドーム広場、円柱の修復が終わりました。


足場を取り払う作業が
進んでいる
ヴァンドーム広場の円柱。
世界の著名な宝飾店が並ぶヴァンドーム広場の円柱が、以前の姿を見せ始めました。この広場に面した、かの有名なホテル・リッツの大々的資金援助で、修復作業を続けていましたが、それがやっと終わり、今、足場をはずす作業に入っています。

そうした姿でさえもあまりにも美しく、写真を撮らないではいられない。頂上に立つナポレオンも一層の威厳と輝きを放っています。秋のパリでは珍しい青空が、飛び切り清々しくキレイです。

2015年11月18日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 24


王太子妃時代は、あまりお洒落に興味を持っていなかったマリー・アントワネットでした。ウィーンに暮していたころはもちろん、フランスに嫁いでからも、決められた服を着ているだけだったのです。

ところが、今や王妃になった。年金もぐっと増え、
自分の自由になるお金がたっぷりある。しかも20歳で美しい容姿に恵まれている。宮廷人はこぞって彼女の優美な姿をほめ、憧れのまなざしで見つめ、お世辞の言葉を束にして捧げる。

王妃としての自分の自覚が生まれたマリー・アントワネットは、外見に気を配るようになる。

そうしたときに、シャルトル夫人がお気に入りのデザイナー、ローズ・ベルタンを紹介したのです。

パリの北にあるピカルディー地方に生まれたベルタンは、手先が器用で、ヘアも服も手がけるセンスのいい人でした。パリのモード店で働いた後、サン・トノレ通りに自分の店「オ・グラン・モゴル」をオープン。そこからさほど遠くないパレ・ロワイヤルに住んでいたシャルトル夫人は、彼女の才能にすっかり魅了され、重要な顧客になったばかりでなく、多くの貴族夫人にも紹介。ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人も、ベルタンに服を作ってもらうようになったほど、彼女は女性の心を捕らえるすべを持っていたのです。
そうしたベルタンを、シャルトル夫人がマリー・アントワネットに紹介したのは、前国王ルイ15世が世を去った1774年、マルリー城でのこと。王の死因が天燃痘だったために、感染を恐れて王族たちはヴェルサイユ宮殿を離れ、その近くのマルリー城にしばらくの間暮していたのです。

そこでは堅苦しい儀式も少なく、そのためにデザイナーを紹介するチャンスがあったのです。

ベルタンの才能を知ったマリー・アントワネットは、それからというもの、ドレスに異常なほどの興味を抱くようになります。日を追うごとに装飾がごってりついたドレスを身に着けるようになり、それに比例してヘアスタイルも華美なものとなり、再びマリア・テレジアからの非難の手紙が届くのでした。
ローズ・ベルタン

王妃の「モード大臣」と呼ばれるようになったベルタンは、宮殿に趣くときには丁重に衛兵に迎えら
れ、王妃の私室に通され、彼女と親密に次の服の詳しい打ち合わせをする破格の地位に上ります。

革命が起きると、王妃の注文書など証拠の書類をすべて処理し、様々な国を転々としながら、様々な国の貴族のドレスを作り、最終的にはロンドンに亡命。

革命後フランスに戻り、ナポレオンの第一帝政時代に、再び花を咲かせようとしますが、彼女の時代はすでに過ぎ去ったようで、引退を決意。66歳で瀟洒な館で生涯を閉じます。

2015年11月17日

オランド大統領、ヴェルサイユ宮殿で異例の演説

11月16日朝。
上院、下院議員が全員、ヴェルサイユ宮殿の会議場に集合。
壇上に立ったオランド大統領は、今回の連続テロに対して、断固として戦う決意を明らかにしました。

このように上下院議員が集まる中での演説は、異例のこと。フランスがいかに重大な状態に陥っているかが伝わります。

その後、議員全員が立ち上がり、国歌を歌い団結を誓い合ったのです。
「行こう、祖国の若者たちよ・・・進もう、進もう・・・」
感動的な場面でした。

ヴェルサイユ宮殿はフランス共和国の象徴的建造物。
ルイ14世以来、絢爛豪華な宮廷生活が営まれ、諸外国に威勢を見せ付けた宮殿であることは事実ですが、それ以上に、人民のための人民による国民議会が生まれた場所。

この国民議会が正式に認められるまでは、絶対に動かないと一般国民が誓いをたてたのは、ヴェルサイユのテニスコート場でした。その後革命へと突入し、王政が廃止され、共和国になったフランス。

オランド大統領が上下院議員をヴェルサイユに収集し、演説を行い、団結を呼びかけ、全員で国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌ったのは、意味があったのです。

フランス全土で黙祷

11月16日、月曜日。
12時、フランス各地で同時テロの犠牲者にオマージュ。
テロの現場で、広場で、学校で、病院で、会社で、駅で、列車も停止し乗客がこぞって1分間の黙祷を捧げました。

若者の象徴ともいえる学生街に大統領が姿を現し、若者たちと共に悲しみを分かち合い、厳しい表情で黙祷。
その後、様々な地でフランス国歌を声高く歌い、国民の団結を示しました。

革命のときに作曲されたこの国歌の歌詞を、その意味を、この日、誰もが心からの叫びとして歌ったのでした。

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 23

王妃になったマリー・アントワネットの側近にも、変化が現れました。
それまでもっとも気に入っていたランバル公妃に代わって、ポリニャック伯爵夫人が幅をきかせるようになったのです。

マリー・アントワネットが王妃になった1775年、親戚の人に同行して、ヴェルサイユ宮殿の催しに姿を現したポリニャック伯爵夫妻は、鏡の回廊で国王夫妻に紹介されます。ポリニャック夫人の稀に見る宝石のような煌びやかな美貌に、ひと目で魅せられた王妃は、身近にいて欲しいために宮殿の王妃の部屋の近くに暮すよう提案。
ポリニャック伯爵(後に公爵)夫人

野心家の彼女は5歳年下の若い王妃に取り入り、巧みに心をつかみ、多額の報酬を受け取れるように仕向けます。それだけでなく、夫に公爵の地位を与えるほどにまでしたのです。当然、年金もあがり、目に余る贅沢な生活を営なみ、親類の人にさえも宮廷の高い地位を要求していました。

あれこれ理由を並べては王妃にお金をせびり、王妃は彼女の機嫌をそこねたくないために、ネッケル財務長官に多額のお金を請求。それが何度も続き、国庫の赤字は膨れ上がる一方。財務長官が出費を拒むと、ポリニャック伯爵夫人は、王妃をそそのかしてネッケル解任を求めます。

国民に人気があった彼の解任は、国民の大きな怒りをかい、それが革命の一因となったのです。

革命が起きるとさっさと外国に逃れ、イタリアやスイスに暮らし、その後オーストリアに向いその地で世を去ります。王妃処刑の約2ヵ月後でした。

ポリニャック夫妻の子孫、ピエール・ド・ポリニャックが、モナコ大公ルイ二世のプリンセス、シャルロットと結婚。二人の間に生まれたのがモナコ大公レーニエ三世。その息子である現モナコ君主アルベール二世に、ポリニャック家の血は引き継がれているのです。

2015年11月16日

寂しげなパリ

入り口がぴたっと閉まっている
日曜日の公園。

ひっそりした日曜日のカフェ。

11月15日、日曜日。
いつもは、子供連れで賑わう公園。でも、今日は入り口のドアがぴったり閉まっている。行き場を失ったかのように、冷たい空気がとまっているだけ。

いつもは、先を争って通りに面した席を確保する、若者に大人気のカフェ。それなのに今日は、誰もがその場所を避けている。

悲しげな光景のパリ。
「花の都」の栄華が早く戻ってくるのを、皆、待っている。

2015年11月15日

悲しみと怒りのパリ

同時多発テロで129人の犠牲者を出したパリは、翌日の14日、大統領の勧告で外出を控えたパリ市民たち。私も、もちろん、一歩も外に出ませんでした。

13日夜中、ヘリコプターがパリ上空を巡回する音で目が覚めたのですが、外国の要人がパリ訪問の際にはあることだし・・・とそのまま眠ったのですが、かなリ長い間ヘリコプターの巡回は続いていた記憶があります。

そして、翌朝、信じられない悲劇を知ったのです。
テレビは早朝から特別番組。同じ映像が繰り返し流れていて、事件がまだしっかり把握されていないことが伝わってくる。それだけに不安が広がる。

夜のニュースは2時間を超える特別番組となり、数人の専門家が出席し解説がある。その間、パリをはじめとし、各地の様子の映像が流れる。

パリは外出をしないようにとの呼びかけがあったにもかかわらず、多くの人が約80人の犠牲者を出したとされているコンサートホールや、10数人の犠牲者を生んだレストランなどの前に集まり、花束を捧げたたり、ローソクを捧げたり、言葉を書いた紙を置いたり。

地方では3000、4000人が集まり、同じように花束やローソクを捧げる姿が映されていました。感動したのは、フランス国歌の大合唱をしたこと。手を繋ぎながら、涙を流しながら歌う姿に、胸が張り裂けそうでした。

パリ市内の病院には、医師や看護婦が自発的に集まり、負傷した人々の手当てを必死に行なっていると報道。エッフェル塔は照明を消し、哀悼の意を表しました。

アメリカも、ドイツも、イギリスも、その他多くの国が、それぞれの象徴的建造物をフランスの国旗の色にしたという。その様子をテレビで見て、フランスはひとりではない、世界の協力があるのだ、と心強く思えました。

ご心配ありがとうございます。

ランのキレイな色が
癒しになります。

11月13日のテロを心配なさって、日本に住む多くの方々がメールを下さったり、お電話を下さったり。
暖かい気持ちが胸にしみました。

多数の方々がお亡くなりになり、しかも、若い方が多かったようで愕然としています。
安らかな眠りを心底からお祈りしています。

外出する人も少なく、閑散としたパリ。
ベランダに置いたランの花を見つめて、心に平静を保つよう心がけています。


2015年11月14日

パリの犬たち 47

公害がひどくなってきたパリだから・・・
ねえ、ボクだよ、ボク。こっちに来て、お話があるのだワン。
「最近、パリの空気が悪いと思わない?」
「あら、そういえばそうね。でも、だからどうしたの?」
「公害って、健康に悪いんだよ」
「だから、どうしたいの?」
「いい空気を求めてアルプスとかで、一緒に暮そうよ」
「そんなことダメ。ワタシは都会っ子。パリから動きたくないの」
「気が変わったらいつでも言ってネ。待ってるよ」

2015年11月13日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 22


1775年5月10日午後3時15分、国王の寝室の窓辺に置かれていたキャンドルの灯が吹き消され、ルイ15世の逝去が告げられました。
それと同時に、王太子が国王となり、その妃マリー・アントワネットは王妃となったのです。新国王ルイ16世は19歳で、王妃は18歳でした。

ルイ16世の戴冠式
ルイ16世が正式に国王になる戴冠式は、パリの北にあるランスのカテドラルで、
一年間の喪が明けた翌年6月11日、日曜日に執り行われました。

アーミンの毛皮がついた重いマントーを身に着け、ランスの大司教から大粒のルビーとエメラルドが輝く「シャルルマーニュの王冠」を受け、宣誓をし、祈りと賛美の歌声が響き渡り、晴れて公式にフランス国王になったルイ16世は、感動に震えていました。

儀式の様子を女官たちと上階から見つめていたマリー・アントワネットも、あまりにも厳かで美しい戴冠式に感動し、母マリア・テレジアに涙がとめどなく流れましたと手紙を書いたほどでした。

カテドラルの外には無数の人々が集まり、「国王バンザイ、王妃バンザイ」がこだまし、ルイ16世とマリー・アントワネットは微笑を深くしながら、それに応えていました。
国王は20歳、王妃は19歳になっていました。

2015年11月12日

ノエル 1

チョコのツリーの行進です。
ノエルのお祝いが始まりつつあるパリ。
モミの木が並べられたり、イルミネーションの準備が始まったり。
今日は、チョコレートのミニツリーをご紹介。
これからもまめに写真を撮りますね。

2015年11月11日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 21

儀式だらけの苦手な公務から離れると、マリー・アントワネットは内殿にある私室で、好きなハープを奏でたり、細い声で優雅に歌をうたったりして時を過ごしていました。
真面目一方で、規則正しい生活を好む夫を置いて、夜、パリのオペラ座に出かけることもありました。当時のオペラ座は現在パリで見られるのではなく、別の場所の別のオペラ座で、今は存在していません。

スウェーデンの名門貴族
アクセル・フォン・フェルセン
1774年1月30日のこと。オペラ座の仮面舞踏会に、お気に入りの貴族夫人たちと出かけた王太子妃は、全身から気品を放っている貴公子を目に止め、声をかけます。
二人が周囲の人々の注目を引いたために、女官の機転でその場を急遽離れ、会話は中断されます。
それが、マリー・アントワネットと同年に生まれたスウェーデン伯爵、アクセル・フォン・フェルセンとの出会いでした。

その後、しばらく故郷に戻っていたフェルセンが、再びフランスに来たときには、マリー・アントワネットは王妃になっていました。彼女はヴェルサイユ宮殿での様々な催しに彼を招待し、二人の間は日を追うごとに親密になります。

マリー・アントワネットにとってフェルセンは、心から愛した唯一の男性だったし、フェルセンもまた、マリー・アントワネットを敬愛していました。
革命が起き、暴徒たちがヴェルサイユ宮殿に押し入ったとき、ファルセンはその場にいたし、国王一家がパリのチュイルリー宮殿に連行されるときにも、心配のあまり後に続いていたフェルセン。いつでも役立てるようにと、チュイルリー宮殿近くに住んでいたフェルセン。

彼のマリー・アントワネットへの思いは生涯消えることなく、独身を通し、王妃との思い出の中に暮らした騎士道精神の持ち主でした。
王妃亡き後故郷に暮していた彼は、暴徒の手にかかり54歳で世を去ります。

詳しい事は「マリー・アントワネットとフェルセン 真実の恋」に書きましたので、参考にしてください。

2015年11月10日

パリの犬たち 46

お散歩もたいへん、たいへん。
「ボクはもう歩くのヤダッ!「ワタシはもっと歩きたいのッ!」
もうこうなったら別れるほかない。

2015年11月9日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 20

ヴェルサイユ宮殿の内殿にある図書室でのマリー・アントワネット
王太子妃になったときから、マリー・アントワネットに仕えていたのはランバル公妃でした。当初は女官、その後女官長になった彼女は、ルイ14世の曾孫ランバル公と結婚した高位の貴族夫人でした。ところが結婚一年後、19歳のときに夫に先立たれ未亡人になった気の毒な人。

ランバル公妃
21歳からマリー・アントワネットに仕えるようになったランバル公妃は、温厚な性格で控えめ。どこまでも王家に忠実な彼女は、革命で捕らえられチュイルリー宮殿に暮すようになっても、国王一家の世話を親身にします。一時期、野心の固まりのポリニャック伯爵夫人を寵愛したマリー・アントワネットでしたが、あまりにも欲深い彼女に愛想をつかし、再びランバル公妃を身近に置くようになったのでした。

革命で捕われの身となり、チュイルリー宮殿に幽閉され、そこから国外脱出の計画を立てたとき、ランバル公妃に大きな信頼を抱いていた王妃は、密かに伝え、彼女にも偽のパスポートを作るよう勧めます。
国王一家はベルギーを目指し、その一歩手前のヴァレンヌで逮捕されパリに引き戻されます。ランバル公妃は無事にロンドンに逃れますが、国王一家の身が心配で、危険覚悟でパリに戻り、再びチュイルリー宮殿に暮らすようになったのです。

ルイ16世と家族がチュイルリー宮殿からタンプル塔に移されたとき、彼女も共に連れて行かれますが、その後ラ・フォルス監獄に移され、そこで暴徒たちに殺されます。
42歳でした。
マリー・アントワネットはランバル公妃の優しく愛がこもった友情を、心の糧としていたようです。捕われの身の王妃から彼女に書いた手紙が、それを語っています。