2015年11月30日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 29

王太子を抱く王妃と、祝福する国王。
その足元で、第一王女マリー・テレーズが愛らしく弟を歓迎。
1781年10月22日、王妃は世継ぎとなる王太子を出産し、
王太子と王女と一緒の
この上なく幸せな王妃。
国民の喜びが頂点に達しました。
生まれた当日に、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂で洗礼を受け、王子はルイ=ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワと命名されました。

国王夫妻は揃って子煩悩で、出来る限り子供たちと一緒に過ごす時間を取るよう心がけていました。

二人の子供に恵まれた幸せな国王夫妻でしたが、心配事が持ち上がります。王太子の健康がすぐれなくなったのです。それは王子が3歳になった頃からでした。高熱に苦しむ日が続き、ミュエット城で静養し、回復するとヴェルサイユ宮殿に戻るという生活が始まります。

王太子は初期の結核の症状を示していたのです。
後年にそれが判明したとき、乳母のひとりだったジュヌヴィエーヴが移したのではないかと疑われました。彼女は歌が上手で王太子に何度も歌って聞かせ、それに合わせてマリー・アントワネットがクラヴサンを奏でることもありました。


幼いときには主に女官たちが王太子のお世話をしていました。
ところが、1786年、5歳のとき、未来の国王になるための教育を行なう年齢に達したため、男性が養育係を務めることになります。
その儀式が行なわれた際に、王太子はすでに真っ直ぐ歩くことが出来ない状態。脊髄が曲がり始めていたのです。
その年から翌年まで、脊髄を治すために、鉄のコルセットをつけていた幼い王太子でした。

1788年から病状はますます悪化。
翌年5月8日、ヴェルサイユからさほど遠くないムードンの森の中の館で、本格的静養を行なうことになります。
病弱だっ王太子は
7歳半の短い生涯とじます。
人一倍子供好きなマリー・アントワネットは、時間が許す限り息子のそばにいるよう心がけます。国王も毎日息子に会いに行き、マリー・テレーズ王女もかわいそうな弟にやさしく声をかけていました。

ときには連れ立って庭園を散歩することもありましたが、それも徐々に出来なくなり、ついには車イスに座る日がきます。

医師たちの必死の治療と、国王夫妻の祈りにもかかわらず、病気は容赦なく悪化し、ついに1789年6月4日夜、7歳半の短い生涯を閉じます。
王家の墓であるサン・ドニ教会の地下に葬られたのは、くしくもバスティーユ監獄襲撃の前日、1789年7月13日のことでした。

この日を境に王制は日を追って破滅に向っていったのです。