2015年11月17日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 23

王妃になったマリー・アントワネットの側近にも、変化が現れました。
それまでもっとも気に入っていたランバル公妃に代わって、ポリニャック伯爵夫人が幅をきかせるようになったのです。

マリー・アントワネットが王妃になった1775年、親戚の人に同行して、ヴェルサイユ宮殿の催しに姿を現したポリニャック伯爵夫妻は、鏡の回廊で国王夫妻に紹介されます。ポリニャック夫人の稀に見る宝石のような煌びやかな美貌に、ひと目で魅せられた王妃は、身近にいて欲しいために宮殿の王妃の部屋の近くに暮すよう提案。
ポリニャック伯爵(後に公爵)夫人

野心家の彼女は5歳年下の若い王妃に取り入り、巧みに心をつかみ、多額の報酬を受け取れるように仕向けます。それだけでなく、夫に公爵の地位を与えるほどにまでしたのです。当然、年金もあがり、目に余る贅沢な生活を営なみ、親類の人にさえも宮廷の高い地位を要求していました。

あれこれ理由を並べては王妃にお金をせびり、王妃は彼女の機嫌をそこねたくないために、ネッケル財務長官に多額のお金を請求。それが何度も続き、国庫の赤字は膨れ上がる一方。財務長官が出費を拒むと、ポリニャック伯爵夫人は、王妃をそそのかしてネッケル解任を求めます。

国民に人気があった彼の解任は、国民の大きな怒りをかい、それが革命の一因となったのです。

革命が起きるとさっさと外国に逃れ、イタリアやスイスに暮らし、その後オーストリアに向いその地で世を去ります。王妃処刑の約2ヵ月後でした。

ポリニャック夫妻の子孫、ピエール・ド・ポリニャックが、モナコ大公ルイ二世のプリンセス、シャルロットと結婚。二人の間に生まれたのがモナコ大公レーニエ三世。その息子である現モナコ君主アルベール二世に、ポリニャック家の血は引き継がれているのです。