ル・ペルティエ(7号線)
18世紀の政治家ルイ・ル・ペルティエ(1730-1799)が駅名になっています。侯爵の称号を持つル・ペルティエは、1784年からパリ市長を務めていました。
彼がその地位をおりたのは、革命が起きた1789年で、群衆がバスティーユ牢獄を襲撃する前でした。
その後、市長になったのは、貴族のジャック・ド・フレッセルで、同年4月21日でした。
その年の7月14日、バスティーユ牢獄が群衆の手におち、バスティーユの司令官が殺され、勢いに乗った群衆たちはパリ市長舎に向かい、フレッセル市長も同じ運命を辿ります。
彼がパリ市長だったのは、3カ月たらずでした。
このようにル・ペルティエは、危ういところで命拾いしたのです。
右の建物が、 ル・ペルティエが市長を務めていた時代のパリ市庁舎。 その手前の広場で花火があげられ、市民たちが喜びにひたっているデッサン。 この広場でも、革命で捕らえられた多くの貴族が処刑されました。 |
ル・ペルティエは9区の道路にもその名を残しています。
ル・ペルティエ通りには、後年、オペラ座が建築され、現在見られるパリのオペラ・ガルニエが誕生するまで、華やかな存在でした。
1821年に建築された、ル・ペルティエ通りのオペラ座。 |
豪華なオペラ座内部。1854年。 |
ドガはオペラ座に足蹴しく通い、踊り子たちの絵を多数描きました。
ル・ペルティエ通りのオペラ座での バレリーナたちの練習風景を描いたドガの作品。1872年。 その後、ドガは新たに建築されたオペラ・ガルニエで 踊り子たちの絵を描き続けます。 |
余談ですが、オペラ座というと、マリー・アントワネットとフェルセンの出会いの場となっていますが、それはル・ペルティエでもガルニエでもありません。
当時のオペラ座はパレ・ロワイヤルにあったのです。残念ながら1781年に火災にあって何も残っていません。
ル・ペルティエは引退後マレ地区の邸宅に暮らし、そこで生涯を閉じます。
コメントを投稿