そのふたりの書簡の原本と遺骨の一部が売りに出され、それを美術学校ボ・ザールが買い取りたいと名乗り出ましたが、資金不足。これほど貴重な文化遺産を外国に買われたくないからと文化省が呼びかけ、フランスのデラックス製品グループ、ケリングのメセナ活動によって、無事、ボ・ザールのコレクションに加えられました。
かなり理想化したアベラールとエロイーズ、 二人をのぞき見する叔父フュルベール。 |
高名な神学者アベラールがエロイーズに出会ったのは、彼女の叔父、聖堂参事会員フュルベールから、美人の誉れ高い姪エロイーズに学問の指導を頼まれたためでした。フュルベールの家に暮らしながら彼の姪に指導を始めたのは1113年で、アベラールは34歳でエロイーズは18歳。
叔父が驚いたことに大きな年齢差にもかかわらず、二人はたちまち愛人になりエロイーズは子供を身ごもります。それが世間に知られることを恐れたアベラールは、自分の生まれ故郷ブルターニュ地方のル・パレに行くよう説得。エロイーズはその地で1117年、男の子アストララブを出産し、翌1118年に二人は若い秘密の内に結婚します。息子はアベラールの妹に託されル・パレで育てられながら成長しナントで聖職にたずさわります。
修道女になったエロイーズ(1095-1164) 1092年、1101年誕生という説もあります。 |
神学者アベラール(1079-1142) |
この事実は秘密にしていたにもかかわらず、叔父が約束を破ってばらし、世に知れ渡り、激しい非難を受け、アベラールはサンドニ修道院に入り、エロイーズはアルジャントゥイユの修道女になります。離ればなれになった二人は手紙を書き合い、それが後に書簡集となったのです。
時と共に精気を失ったアベラールは、1142年4月21日、当時暮らしていたサン・マルセル・レ・シャロンで病に陥り世を去り、その地の修道院に手厚く葬られました。
サン・マルセル・レ・シャロンの修道院の アベラールのお墓。 1144年、エロイーズの希望でル・パラクレ修道院に移されます。 |
18世紀のル・パラクレ修道院。 |
けれどもそれから2年後、エロイーズの希望でアベラールはル・パラクレ修道院に移されます。それはアベラールが築いたベネディクト派の修道院だったのです。1164年5月16日にル・パラクレ修道院で息を引き取ったエロイーズは、彼女の最期の願い通りに夫の遺骸の下に葬られました。
聖人、聖女のようにあがめられるようになったアベラールとエロイーズの悲劇の愛を、多くの作家が書き、ますます崇拝者が増えます。
アレクサンドル・ルノワールが建築させた、 アベラールとエロイーズのお墓。 後にペール・ラシェーズ墓地に移されます。 |
そうしたひとりがアレクサンドル・ルノワール。考古学者であり、中世美術の専門家であり、革命時に王家の墓や教会、王侯貴族にまつわる美術品破壊に心をいためます。
フランス・モニュメント博物館を ナポレオンとジュゼフィーヌに案内するルノワール。 |
革命が終わり共和制になった時代の1790年、ルノワールはル―ヴルの対岸にフランス・モニュメント博物館を建築させます。そこには革命で破壊された歴史上重要な建造物や彫刻などのレプリカが置かれ、ルノワールが自ら管理を行います。その庭にアベラールとエロイーズのお墓をと熱望した彼は政府に交渉します。
その結果二人の遺骸をパリに移す許可を取得し、物語に登場するようなロマンティックなお墓が誕生したのです。
ところが後年、その敷地に美術学校ボ・ザールを建築することになり、フランス・モニュメント博物館は取り壊され、アベラールとエロイーズのお墓はペール・ラシェーズ墓地に移されたのでした。
ルノワールは歴史を語る多くの品々のコレクタ―でもありました。その中のひとつがアベラールとエロイーズの書簡集と遺骨の一部。それをボ・ザールが買い取ったのです。美術学校の貴重なコレクションとして奥まった所に保管される前に、わずかな期間公開されると知って心を躍らせながら出かけました。
ガラスケースに治められているアベラールとエロイーズの遺品。 |
上段は二人が交わしていた手紙。その左は歯と遺骨の一部。 下段は一時期一緒に暮らしていた家のデッサン。 |
手紙とデッサンのアップ。 |
手紙と遺骨。その手前は二人の愛を語る数冊の書籍。 |
おそらくルノワールが特別に制作させたと思われる、美しい小箱に入ったアベラールとエロイーズの遺品。それを実際に見られるとは思ってもいませんでした。
このような貴重な機会はないでしょうから、もちろん記念写真を。 感動しました。 |
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