2019年11月30日

メトロの駅名は語る 140

Marx Dormoy
マルクス・ドルモワ(12号線)

社会党政治家の名を語る駅名。

マルクス・ドルモワ(1888-1941)
社会主義者だった父親を11歳のときに亡くしたドルモワは、経済的に苦労し、若い時代から労働者や貧しい人の味方となります。生まれ故郷アリエ県(フランス中部のオーベルニュ地域)のモンリュソンで助役を務めた後、町長に選出され、その後本格的に政治の道を進み、1936年、48歳の年に内務大臣になります。

内務大臣執務室で。
大きな転換は第二次世界大戦中におきます。戦い初期の1940年、フランスはナチス・ドイツに侵略され、当時副首相だったフィリップ・ペタン元帥が、ドイツとの講和条約を主張し、レノー内閣を倒し首相になります。フランス東部と北部はドイツ支配下に置かれ、政府は南仏ヴィシーに移ります。

崇拝者に崇めたてられていたペタンとその政府に、全ての権限を与える投票を行った際に、ドルモワは反対に一票投じます。それから2カ月後、ドルモワは全ての役職を失っただけでなく、数日間投獄され、釈放後は故郷近くのモンテリマールで監視付きの生活を送ることになりました。

1941年7月25日から26日にかけて、ベッドの下に仕掛けられていた爆弾が爆発しドルモワは暗殺されます。ドルモワ暗殺の犯人として4人が逮捕されましたが、裁判もないまま投獄され、後にドイツ軍によって釈放されています。

当時の政府の邪魔者だった彼は秘かに葬られました。けれども第二次世界大戦後、生まれ故郷であり、町長も務めたモンリュソンのサン・ポール墓地で盛大な儀式が行われ、手厚く埋葬され、レジスタンスの英雄の名誉も授けられ、名誉を挽回したのです。現在、彼の名を冠する学校も道路名もフランス各地で見られます。

2019年11月28日

クリスマス・マーケット

昨年からチュイルリー公園内で開催されるようになったクリスマス・マーケット。以前はシャンゼリゼの両サイドで行われていたのですが、2018年、シャンゼリゼの美観を損ねるという理由でチュイルリー公園に変更。当初はどうなるかと心配していたのですが、遊園地とフランス各地の名産物の屋台が並んでいるといった感じで、かなり好評いい。子供も大人も平等に楽しめるクリスマス・マーケットはちょうどいい大きさ。今年も早速足を運びました。活気に満ちる様子をお届けします。

左の塔の下にはドリンク・カウンターがいくつもあり、
右には食器、キャンドル、帽子、スイーツ、オブジェなどのショップが
並んでいます。

兵隊さんも整然と並んで護衛。役に立ちそうもないけれど・・・
大人も子供の楽しめるアイススケートリンク。
大きなツリーの下にプレゼントがいっぱい。
全部ほし~い。
この季節に欠かせない焼きグリ屋さん。
本物のチョコレートといった感じがいい。
いたる所にテーブルが置いてあり、
生ガキ、ラクレット、エスカルゴ、チーズフォンデュなどを食べながら
おしゃべりに花を咲かせます。

家族連れに人気のホットチョコレート。

あまりにもいろいろあってワンちゃんもびっくり。
目が回りそう、というか目が回っています。
トナカイに引かれるソリにものれます。
でも動かない。
ソリの右奥の静かな場所に、イエス・キリスト生誕をあらわす馬小屋が。
電気でゆっくり動く仕掛けに心が奪われます。
ひときわ目立つホットワインのタワー。
クリスマスに欠かせないドリンクです。

どこまでもクリスマスの楽しさが続いていて、
去りがたいほど。
寒さなど気にならないほど活気にあふれています。

2019年11月24日

パリの犬たち 215

サイズが合わない。

ねぇ、このニットコートちょっと大きすぎるみたいな感じ。
ブカブカしていて、体にぴったりしないのよ。
エッ、ナ~に?
今年はゆったりしたコートが流行っているって?

でも、ワタシはエレガントなのが好きなの。
ホラ、イギリスのキャサリン妃みたいに完璧に着こなしたいの。

脚の長さもウエストの細さも違うから、
無理だってパパは言う。
ずいぶんひどいワァ~~~ン。

でも正面からだと、けっこういい線いっているように見えるけれど、
どう思う?

今度お洋服を買ってもらう時には、
鏡の前で正面だけじゃなく、後ろ、横、斜め、
いろいろな角度から観察しなくてはネ。

2019年11月23日

クリスマス ポエティックな装飾もいい。

クリスマスにはジョイフルな色が飛び交うのは心が浮き立っていい。
でも、色彩をおさえた詩情あるディスプレイもいい。
カラフルな装飾に続いて、シックなクリスマスをご紹介します。

ポエティックなアンビアンスに身も心も奪われます。
幻想的な世界に浸れる心地よさは格別。


宇宙を漂っているようで、英気が養われます。
エレガントな街並みによく似合う、落ち着いたツリー。

2019年11月22日

クリスマス ギャラリー・ラファイエットは・・・

ギャラリー・ラファイエットの今年のテーマは「ミツバチの巣箱」。中央のクーポールの下の巨大なクリスマスツリーには、ハチが好きな花がたくさん飾られ、頂上には女王バチが君臨し、その周りをハチたちが飛び交っています。ウインドウでもミツバチが忙しそうに飛びながら、祭典の準備をしているようです。どれも絶え間なく動き、色の変化もあるのでいつまで見ていても飽きない。最上階のテラスにはスケートリンクを設置し、オペラ座やエッフェル塔を見ながら滑れるのは二度と味わえない贅沢です。

デパート全館で花とミツバチが待っています。

ゴージャスなクリスマスツリー。
女王バチが頂上に君臨し、ミツバチたちが気持ちよさそうに飛び交っています。
働き者のミツバチたちが、何やら宝物を閉まっているようです。
女王さまの身支度に心を込めるハチたち。

小さい子供たちが目を輝かせながら喜ぶ姿に心が和みます。

2019年11月21日

クリスマス オ・プランタンは・・・

毎年のことですが、デパートのクリスマス装飾は見応えがあって楽しい。
なので今年も早めに行ってみました。オ・プランタンは11月半ばにすでに店内はクリスマスムード一色。あちらこちらに飾られた大きなフィギュアが最高。どれも個性的な表情で、見ているだけで顔がほころびます。

何て楽しい表情。世の中が一挙にあかるくなります。
このベビーの気持ちよくわかる。
話しかけたくなるようなお洒落な〇〇さん。
同系統の色でバッチリの装い。
電気仕掛けで踊るクリスマス・ツリー。
驚くべきことにこの大きな目も動くのです。
ウインドウではカラフルなオウムたちが歌ったり踊ったり。
ファーコートはほとんど見かけないこの頃。
スニーカーが大流行です。
しかも冬でも白が人気。
これが今のパリらしい姿。

2019年11月17日

ヴェルサイユ宮殿、リヴァイヴァル展。

2019年11月19日から2020年3月15日まで、ヴェルサイユ宮殿内の特別会場で興味深い展覧会を開催。15日に内覧会がありじっくり鑑賞しました。しかもこの展覧会の最高責任者の丁寧な解説つきという贅沢なもの。

ブルボン朝のヴェルサイユ宮殿における華麗な宮廷生活は、いつの時代にも憧れを抱かせますが、今回の展覧会では1867年から1937年に焦点を合わせ、その時代にいかに多くの人がかつての栄華にノスタルジーを感じていたかを伝えています。

パリ万博が開催された1867年は第二帝政時代で、フランス皇帝ナポレオン3世のお妃ウジェニーが、マリー・アントワネットの熱烈な崇拝者だったために、宮廷が置かれていたチュイルリー宮殿はヴェルサイユ時代を彷彿とさせる華麗なものでした。服装も社交も芸術的な食卓も何もかも、ブルボン朝絶頂期のアンシャン・レジームへの郷愁を掻き立てないではいませんでした。

かつての栄光時代を飾った家具が再現されるようになり、瀟洒な邸宅を飾り、画家たちはヴェルサイユ宮殿の庭園や宮殿の部屋を描き、プルーストをはじめ作家が美しい文体で描写していました。1896年にロシアの二コライ2世皇帝がフランスを訪問したときには、庭園でアンシャン・レジームと同じように劇が演じられ、1912年には宮殿の複数の内装をほどこした「洋上のヴェルサイユ」と呼ばれる豪華客船フランス号まで誕生。パリ万博が開催された1867年から、第二次世界大戦がはじまる2年前の1937年は、いわばヴェルサイユが蘇った時代、再生の時代だったのです。こうした時代があったから、革命で荒らされたとはいえ、ヴェルサイユ時代の華麗な炎は消え去ることはなかったのでしょう。


展覧会の入り口からすでに別世界。貴族の館に招かれたよう。
1867年のパリ万博の際に、
プティ・トリアノンのマリー・アントワネットの居室を再現し、
それを今回の展覧会で再び再現。
王妃の居屋の左手の家具の上に
10歳で悲惨な最期を迎えた王子の素焼きの胸像があります。
1855年8月21日、イギリスのヴィクトリア女王が、
マリー・アントワネットがこよなく愛した村里を訪問した際の絵が
後に描かれました。
庭園にいるような心地よい展示室もあります。
アンシャン・レジームのころのように、
19世紀に「鏡の回廊」で舞踏会も催されました。
1923年6月、ロシアの芸術プロデューサー、ディアギレフが
「鏡の回廊」でバレエ公演を実現。
バレエを愛し自ら太陽に扮して踊ったルイ14世へのオマージュ。
ルイ15世と公式愛妾デュバリー夫人を描いた
19世紀の絵。
ルイ16世一家が庭園内にある運河で、
ゴンドラに乗っている様子を想像して描いた
1892年前の作品(推定)。
1912年に就航した豪華客船のファーストクラス(絵の最上階)は、
ヴェルサイユ宮殿の部屋を再現。
227メートルの客船フランス号は「洋上のヴェルサイユ」と呼ばれていました。
充実した展覧会を堪能し、カクテルに向かう手前に
庭園の大きな写真(らしきもの)があり見ていたら、
突然、白いドレス、白い帽子の女性がゆっくり現れてびっくり。

誰かが「マリー・アントワネットだ」と声をあげ、
「そうだ」「そうにちがいない」「王妃もリヴァイヴァルしたんだわ」
皆、大騒ぎしながらスマホで彼女と記念撮影。

こんなお洒落なサプライズがあるなんて、ますますヴェルサイユ宮殿にはまります


ビュッフェでいただいたお料理は美味ばかり。
アントレは野菜を取り入れたのが多く、
メインの肉料理はやわらかく煮込んであり、
外の寒さを忘れさせるほど温かい。

デザートはさずがグルメの国。
適度な甘さと美しい色、形が芸術的で種類豊富。
ヴェルサイユ宮殿ならではのお・も・て・な・しでした。

2019年11月14日

メトロの駅名は語る 139

Porte de la Chapelle
ポルト・ド・ラ・シャペル(12号線)

パリの北にあったラ・シャペル村から生まれた駅名で、この村は後年にパリ市の仲間入りをしました。

パリ市に合併される前のラ・シャペル村。

歴代の王家の埋葬地になっているサン・ドニ大聖堂とパリの間にあったラ・シャペル村は、かつて巡礼の旅で栄え、その後14世紀から革命が始まる18世紀末までは、裕福な人が別荘を持っていた牧歌的情緒あふれる村でした。

パリ、ノートル・ダム大聖堂の
サン・ドニ像。

パリの守護神とされている
サント・ジュヌヴィエーヴ。

ラ・シャペルが素朴な村だった5世紀のこと。パリを外敵の侵略から救ったサント・ジュヌヴィエーヴが、475年に礼拝堂を建築させました。250年にここで殉死したパリ最初の司教サン・ドニを葬るためです。キリスト教を布教していたサン・ドニは、モンマルトルの丘で斬首されましたが、切り落とされた自分の頭を手にしながらパリの北に向かって歩き、ラ・シャペル村で息たえたとされています。約200年もの間、粗末に扱われていたサン・ドニは、サント・ジュヌヴィエーヴによって、やっとその業績にふさわしい礼拝堂に手厚く葬られたのです。巡礼の旅はその時から始まり、サン・ドニの遺骸がこのシャペルに葬られていた636年まで続きます。

7世紀の国王ダゴベルト1世が、そこからさらに北に行った地にサン・ドニ修道院を建築させ、サン・ドニの遺骸を移し、自分亡き後そこに葬るよう指示します。それ以降、歴代の王家の埋葬地となったのです。それが現在のサン・ドニ大聖堂です。ラ・シャペル村への巡礼は終わりを告げ、パリ郊外の静かな村となります。ラ・シャペル村は1229年にサン・ドニに所属する村となり、1860年パリ市に合併されました。


ジャンヌ・ダルクを描いた唯一のデッサンといわれています。
歴史的に特に興味があるのは、ラ・シャペル村の宿にジャンヌ・ダルクが泊まったことです。イギリスとの100年戦争で窮地に陥っていた当時の王太子シャルルから軍をまかされたジャンヌ・ダルクは、奇跡的に戦いを勝ち取り、1429年、ランスのカテドラルでシャルル7世が正式に国王になる戴冠式を見届けます。

1429年9月8日、
パリのサン・トノレ門で戦うジャンヌ・ダルク。

その後、イギリスに支配されていたパリを解放するために、9月3日ジャンヌ・ダルクは数人の貴族及び軍隊と共にラ・シャペル村の宿に宿泊。8日、パリのサン・トノレ門を目指して進軍しましたが、敵の矢を脚に受けラ・シャペル村の宿に引き返します。国王シャルル7世は戦いを続けたいと主張するジャンヌ・ダルクに、サン・ドニ修道院(後のサン・ドニ大聖堂)で手当てを受ける命令を出し、数時間後に軍を退却させたのでした。


ジャンヌ・ダルクがパリに進軍する前に
近郊のラ・シャペル村に宿泊。
その間に村のサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会で、
ジャンヌは神に祈りを捧げました。
入り口の左のジャンヌ・ダルクの像と、記念のプレート。
ジャンヌ・ダルクが宿泊したラ・シャペル村の宿は消え去りましたが、パリに進軍する前に祈りを捧げたサン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会が、その後何度か手が加えられたとはいえ、今でも当時の一部が残っているのは幸いなことです。この教会は12世紀に建築され15、19、20世紀に改築されたと記録が語っています。信仰深いジャンヌ・ダルクは1429年9月6日、7日、8日にこのシャペルで祈りを捧げたそうです。

このように歴史的に重要な出来事を刻んでいるラ・シャペルは、今はパリ18区となり、多くの難民が暮らしていて社会問題になっています。