2021年3月30日

オルセー美術館とオランジュリー美術館に元大統領の名

 昨年末の12月2日に94歳で亡くなった、ヴァレリー・ジスカールデスタン元大統領の名前が、オルセー美術館とその付属のオランジュリー美術館に加えられることが決まりました。この案が提出されたのは、ジスカールデスタン元大統領が亡くなった直後で、多くの人が賛成していましたが、2021年3月29日、正式に決定されました。

今後はオルセー美術館ヴァレリー・ジスカールデスタン、オランジュリー美術館ヴァレリー・ジスカールデスタンとなります。

アメリカのカ―タ―大統領(左)とジスカールデスタン大統領
1978年。


47歳で大統領になったジスカールデスタンはリベラルで、フランスの改革を次々に実現した、有能な政治家でした。TGVのプロジェクト、原子力発電、サミット会議の提唱など、若い大統領らしく矢継ぎ早に近代化を図った他、女性の権利を高めることにも貢献し、シモーヌ・ヴェイユ厚生大臣を全面的に支持し、妊娠中絶を合法化しました。


1900年に建設されたオルセー駅。1905年の写真。

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1900年代初期の駅の構内。駅でありホテルでもありました。
当時の面影を最大にいかしてオルセー美術館になっています。


1900年の万博に合わせて、オルレアン鉄道が建設させたオルセー駅は、1939年に駅としての役目を終えました。取り壊す案まで出て、その行く先が案じられていたのですが、1977年、大統領だったジスカールデスタンが美術館にする提案をし、19世紀以降の美術品が展示するようになったのです。正確には、第二共和政が生まれた1848年から、第一次世界大戦がはじまった1914年までの、絵画、彫刻、家具などで、馴染み深い印象派の作品が多く、世界中からの訪問者が絶えません。

ヴァレリー・ジスカールデスタンが亡くなった時には、美術館に彼の写真を飾って衛兵が見守り静かなオマージュをささげていたのが、感動的でした。

2021年3月27日

メトロの駅名は語る 167

Malakoff -Plateau de Vanves
マラコフ=プラトー・ド・ヴァンヴ(13号線)

パリ14区に接しているマラコフ市とヴァンヴ市の駅。1883年 までマラコフはヴァンヴの一部でした。

アンリ・ルソーが描いたマラコフ。1898年作。

マラコフの名は、フランス軍が勝利を得たクリミア半島の「マラコフの戦い」に由来しています。1855年、マクマオン伯爵の指揮の元にフランス軍は勇敢に戦い、セバストポリのマラコフ要塞にたてこもるロシア軍を打ち破ります。

それがクリミア戦争を終結させることになったので、この勝利はフランス各地で熱狂的に祝われ、マクマオン伯爵は1873年に大統領に就任しています。

要塞マラコフの塔を巡る、ロシア軍とフランス軍の激戦。

パリ南部のヴァンヴで生まれた、開発企業を手広く経営していたアレクサンドル・ショヴルは、このマラコフでの戦勝に感激し、フランス軍の栄光を称える「マラコフ塔」を生まれ故郷に建築し、ヴァンヴから分離した塔がある地域はマラコフという名の町になったのです。

フランス軍の栄光を称えるマラコフ塔。

1856年に造られた50メートルもの高さのマラコフ塔は、エッフェル塔ができる前のパリの最も高い建造物で、中に入ることもでき多くの観光客が訪れ、重要なモニュメントになっていたのですが、19世紀初頭に取り壊されました。

一方、ヴァンヴの歴史は長く、1163年の資料によると、この地域は有力なサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に属していました。1700年にはブルボン家支流のコンデ公がシャトーを建築させ、ルイ13世、ルイ14世の時世に活躍したフランソワ・マンサールを建築家として選んでいます。

コンデ公が建築させた豪勢なシャトー。現在は校舎になっています。

ナポレオンが最後の戦いを失いパリに戻った1815年に、敵のイギリス軍司令官ウエリントン公とプロセイン軍司令官ブリュヘル元帥が、コンデ公のシャトーに司令部を置いていた時期もありました。歴史的建造物に指定されているその建物には、現在、高校とエリート校グランゼコールへの準備学級が置かれています。

現在ヴァンヴは3つの地域に分かれていて、メトロの駅がある場所はプラトーと呼ばれ、高層ビルが多く近代的です。

2021年3月25日

もうじきイースター

 今年のイースターは4月4日。ロックダウンの最中ですが、何となく心が浮き立ちます。チョコレート店はロックダウンの間も営業していいことになり、きっと楽しいチョコに会えると思いつつ、ショップ巡り。

卵、にわとり、ウサギがイースター特有のチョコレート。でも、ショコラティエのアイディアは果てしなく、夢がチョコで形になっているようで、見ているだけで楽しい。

中からパワーがあふれているチョコ。
アーモンドやクルミが卵の中から勢いよく飛び出しています。
しかも金箔がところどころにあり、とってもゴージャス。
限定製品でお値段もゴージャスで63ユーロ。

お馴染みの卵とニワトリ。
イースターだから、お花やハートの飾りをつけて、ゴキゲン。

いつ見ても親しみ深いウサギたち。
カラフルな箱に入って、出番を待っています。


たくさんの貝殻の飾りがとてもユニーク。
何となく洞窟を想像しますが、
やはりこれは卵なのでしょうね。

2021年3月22日

3月21日から春

 フランスでは3月21日が春の始まり。きっと何かいいことがあるだろうと、単純な私は早速春らしい光景を求めて公園に。春が始まったとはいえ、まだ寒いのでダウンコートともちろんマスク姿。

期待していた通りマロニエの蕾がたくさん見えたときには、思わず歓声。かわいらしい蕾は、葉がなく、まるで鉄の棒をからめた彫刻のような複雑な枝の先で、天をつくように上を向いていました。これから日に日に蕾を開いて、きれいなお花を咲かせるのです。


勢いよくのびる枝に蕾がいっぱいのマロニエ。


複雑にからむ枝の間から愛らしい蕾を見せるマロニエ。


ロックダウンも寒さも一気に飛んでいったかのように、蕾たちに元気付けられました。それは多分、小さいながらも力強く、上に上にとのびようとしている姿が、強い生命力を発揮していたのでしょう。これからは頻繁に公園に行って、マロニエの日々の成長を見よう。


テイクアウトのランチを食べている人のお隣で、
ナニかを期待している2羽のカラスがかわいい。
正直言ってカラスがかわいいと思ったのは初めて。

春を告げる花とされているヒヤシンスも、あちらこちらに。

2021年3月21日

ロックダウン、何かおかしいなぁ

3度目のロックダウンに入ったけれど、何となく腑に落ちない。

まず、外出の際に携帯すべき証明書が問題。
外出が禁止されている19時から翌朝6時以外は、外出時間に制限ないとカステックス首相が発表したのだから、証明書は、以前のよりずっとシンプルになるとばかり思っていました。それが、逆に、外出理由の項目が増えていて、ナンと2ページもある。これを外出の度に印刷して、該当する項目に印をつけ、住所、氏名、生年月日まで入れて持っていなくてはならないのは、なぜ、と単純に思ってしまいます。

時間制限がないのなら、外で何をしようが個人の自由ではないか、というのが多くの人の意見。私は家でグツグツ文句を言っているだけだけど、「バカげている」と声にする人たちのお蔭で、政府も矛盾に気が付いたのか、急遽変更。結局、証明書は必要なく、身分証明書だけでいいそう。

わずか数時間後に取りやめるとは、いかにもフランス人らしいし、即刻、国民の意見を取り入れる柔軟性は見上げたもの。

生活必需品を売るスーパーや店舗、薬局のほか、今回は書店もオープンしていいことになった、ずいぶん理解あるロックダウン。不思議なのは、それだけで終わらず、今度は美容院、チョコレート店、眼鏡店、フラワーショップもOK、とだんだん増えていること。これで本当にロックダウン? と思えるほど寛大。内心、大丈夫かとちょっと心配。

それに加えて、ロックダウン発表でパリを脱出し、感染者が少ない大西洋側に大挙して移動したことも気がかり。TGVは満席だし、道路は400キロもの渋滞。その地域のホテルは泊まり客が一挙に増えて喜んでいるようだけれど、これによって、パリからコロナが安全地帯に運ばれるかもしれない。

何事にも動じない「鉄の貴婦人」エッフェル塔。
パリをしっかり見守っています。
ちょっとかわったロックダウンです。

2021年3月19日

パリ、3度目のロックダウン

「 ロックダウンは最終手段。そうならないために、注意事項をしっかり守ってコロナ感染を拡大させないこと」と、まるで、親が言う事を聞かない子供に話すように、何度も我慢強く語りかけていたカステックス首相。

それにもかかわらず、感染者は増える一方で、ついに昨夜、パリを含む複数の都市にロックダウンの処置をとると発表。最近のニュースを見ていると、第3波がすでに来ている可能性が強く、医療崩壊も目前で、何らかの厳しい処置を取らなければならないことは、私も感じていました。

ロックダウンは今週末から直ちに実行で、4週間の予定。外出禁止は18時以降だったのが、19時以降に変更。昼間の外出は証明書を持参すれば、時間制限がなく、10キロ以内なら移動もOK。幼稚園から中学までは通常通りの授業が行われ、高校は生徒数を半分にする。さらに、5日の内4日はテレワークを実施するのが好ましいそうです。これは仕事場での感染率が高いため。

以前のロックダウンに比べると、かなり緩和されているように思えます。生活必需品の店舗は営業でき、その中には書店が入っています。レストラン、映画館、美術館などは今まで通り閉鎖。これが私には一番つらい。

イギリス変異株の感染率が、驚くほど高く、陽性反応が出た人の4分の3はイギリス変異株だそうです。その他にも新たな変異株が出てるいるようで、今のところ、あまり明るい希望を持てそうもない。

春は、もう、そこに来ているのに、気温も冬並みに低いし、太陽も控えめ。マロニエの花も咲いていない。魔法の杖でなんとかコロナを一掃できないのかと、本気で思っています。

ジヴェルニーのモネの庭園がなつかしい。
一日も早く訪れたい。

2021年3月18日

メトロの駅名は語る 166

Plaisance
プレザンス(13号線)

この駅がある界隈は、19世紀初期まで広大な農地が広がっていました。石切り場や風車もあったり、狩猟が行われたりしていた時期もあり、1860年にパリ市に合併されました。駅名プレザンスは、この地にあった農家プレイサンスが起源とされています。

領主はサント=ジュヌヴィエーヴ修道院で、現在の学生街5区からプレザンス駅がある14区まで広大な土地を持っていたのです。威勢を誇っていた修道院でしたが、革命で破壊され、今はアンリ4世高校の一角に当時の建物の一部が残っています。

1618年のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院。

19世紀には、レストランやキャバレーが立ち並ぶようになり、活気を帯びた地域になります。その中でもっとも人気があったのは「メール・サゲ」と呼ばれていたキャバレーで、特に文芸人の好む場所でした。1830年代には画家ドラクロワ、文豪ヴィクトル・ユーゴーやアルフレッド・ド・ミュッセ、アレクサンドル・デュマが常連でした。残念ながら、すっかり姿を消して、当時をしのべるものは何も残っていません。

気さくなキャバレーが多く誕生し、人気を呼んでいました。

19世紀になると、この地域全体が労働者たちのたまり場となり、1871年のパリ・コミューンや、第二次世界大戦のレジスタンス運動に加わる人もここから多数出ています。特に、レジスタンスの英雄と称えられているジャン・ムーランは、この駅からさほど遠くない所に住んでいた時代があり、その建物には記念碑がはめられています。現在も庶民的な雰囲気があり、それを求める人々、特に若者に人気があります。

2021年3月12日

東日本大震災10周年記念、フランスでも大々的に報道

 世界中を震撼させた東日本大震災が起きて、今年は10周年の年。フランスではテレビで大きく報道し、新聞「ル・モンド」も「ル・フィガロ」も数ページに及ぶ特集を組み、週刊誌「パリ・マッチ」は、8ページにわたって復興の詳しい状況などを伝えています。

マクロン大統領は3月11日に、日本、フランス、EUの旗の前で、ビデオメッセージで日本人に語りかけました。

被災者たちに心を寄せているという言葉で始まり、試練に見舞われた人々の勇気を称え、復興への力強さに敬意を払い、活気を取りもどす努力をしてきたことを高く評価していました。それは希望を与えてくれるとも語っています。現在コロナウイルスと戦っている我々に、それを乗り越える力を与える、希望のメッセージでもあると述べています。一緒に未来に目を向けよう、「皆さんと一緒に、未来を」

この力強いメッセージは、決して儀礼的でも、表面的でもなく、マクロン大統領の心の底からの言葉だと、語りかけ方から伝わってきました。セーターとジャケットのラフな服装だったのも親しみやすく、温かみが感じられました。

世界中に一刻も早く平穏な日々が訪れますように・・・

2021年3月11日

パリの犬たち 248

夜18時以降は外出禁止だよ

パパとパパ友とボクの3人(?)で
優雅にお散歩していたら、
パパのもう一人の友人が車で近寄ってナニか言った。

ナニを言ったのかよく聞こえなかったので、近づく。

「18時には家に戻っていなくてはいけないから、
犬の散歩も大変だね」だって。
まるでボクが悪いみたいで、すご~~く自尊心が傷ついたワン。

2021年3月9日

国際女性デー

 3月8日の国際女性デーに、フランス各地で女性たちのデモが繰り広げられました。パリ、マルセイユ、ナント、リール、ストラスブールなどの主要都市では、多くの女性がマスクをしながら行進。町によっては音楽を奏でながらのお祭だったそうです。

スローガンは毎年同じようで、男性との平等を要求することがほとんど。サラリーや社会的地位の差別をなくしてほしいことです。意外に思われるかもしれませんが、家庭内暴力は驚くほど多く、2-3日に一人の女性が夫、あるいはパートナーに暴力で命を奪われているのが現状です。それをニュースで知ったときには、大きな衝撃でした。家庭内暴力廃止も、もちろん大事なスローガンのひとつでした。

フランスで国際女性デーが祝われるようになったのは、ミッテラン大統領の時代の1982年からです。女性の主体性、平等、尊厳を目的にしていました。そのときから女性の地位向上を公に訴えるようになったのです。

フランスは王政時代に女王が生まれなかったし、革命後、共和制になってから現在まで女性大統領は存在していません。2022年に大統領選がありますが、出馬に意欲を燃やしている女性がすでに数人います。どうなるか、今から楽しみです。

たくさんのお花を
たくさんの女性に捧げます。

2021年3月6日

パトリック・デュポン、天空のエトワールに

 フランスが誇るバレエダンサ―、パトリック・デュポンが3月5日に旅立ちました。61歳という年齢も、突然の死も、多くの人にとって衝撃でした。詳しいことは報道されませんでしたが、数か月前から病に伏していたそうです。

10歳にもならない幼い年齢で、すでに比類なき才能を発揮し、15歳でパリ・オペラ座に迎えられたパトリック・デュポンは、超人的な飛躍や、ダイナミックでありながら優美なバレエで、世界中の人々を魅了していました。

21歳でオペラ座のエトワールになり、31歳の若い年齢で芸術監督も務めるようになったパトリック・デュポンは、クラシックバレエだけでなく、コンテンポラリーバレエにも意欲を燃やし、勇気を持って新たな分野を切り開いた人でもあります。


インタヴューに応じて下った、
稀に見る天才エトワールのパトリック・デュポン

このような格別なカリスマ性の持ち主であるパトリック・デュポンに、2度もお会いできたのは貴重なことでした。1回目は、雑誌のオペラ座特集のためのインタヴューで、オペラ座内の彼の事務所でお会いしました。

近くで見るパトリック・デュポンは、明るいブルーの瞳が限りなくチャーミングで、声にはやさしさがあり、くったくのない笑顔は、汚れなき少年のようでした。時々動かす手は、空気の中を舞っているかのようにエレガント。初めてお会いするのに、数年来の友人のように気さくに話してくださり、感動したのをよく覚えています。

インタヴューを終えてお礼を言って事務所を出ようとすると、「〇〇日に公演があるけれど、興味ある?」と言うので、もちろんですと間髪を入れずに答えると、招待状を手渡してくださっただけでなく、何とその日は、舞台の袖にまでは入れるようしてくださったのです。キレイにメーキャップし、コスチュームを身に付けたパトリック・デュポンから、秀でたエトワールの輝きがほとばしっていて、まぶしいほどでした。

シャガールが描いたオペラ座の天井画の一部。

エトワールと芸術監督を長年こなしていたパトリック・デュポンは、1998年、オペラ座を離れ、2000年には自動車事故で重傷を負いました。バレエはもう無理だと誰もが思っていたのですが、強靭的な精神を持つ彼は、リハビリを続け、再び踊りを披露します。その後は子どもたちにバレエを教える学校を設立したり、テレビ番組に出演したり活躍していたのですが、数年前からマスコミから完全に遠ざかり、3月5日に突然、悲報にが告げられたのでした。

「日本は大好きで、畳の上に寝ることもあるんだよ。僕の体には畳が合ってあるみたいだ」
パリでも時々和食レストランに行くよ、と日本びいきを明るく語っていたパトリック・デュポンでした。

「オペラ座は僕のメゾンで、家族だ」
「ダンスは体で表現するもの。言葉を発しないで、体だけで伝えるべきことを伝えるんだ」
「踊りに情熱がこもっていれば、見る人にしっかり伝わると僕は信じている」
「舞台と観客の間に距離があってはいけない」
「優れたバレエダンサ―と呼ばれるには、踊りと演技の両方が要求される。それが一つになった時、バレエは生きたものになり、観客を感動させるんだ」

多くの教えを地上に残して、パトリック・デュポンは去って行きました。今後は広い空で星たちと踊るのでしょうか。

2021年3月4日

メトロの駅名は語る 165

Pernety
ペルネティ(13号線)

フランス革命から第二帝政までの長い間活躍した軍人、ジョゼフ・マリー・ド・ペルネティを称える駅名。

ジョゼフ・マリー・ド・ペルネティ(1766-1856)

軍事学校で学び砲兵連隊でキャリアを始めたペルネティが、目立った活躍を示したのはナポレオンの軍人として戦った、1805年のロシア・オーストリア連合軍を相手とするアウステルリッツの戦いでした。ナポレオン戦史に輝かしい形跡を残したこの戦いに満足したナポレオンは、ペルネティを将軍にしたほど。その後もペルネティ将軍は皇帝に忠実で、1812年のロシア遠征にも参加。1813年8月26ー27日のナポレオンが最後の勝利をおさめたドレスデンでの戦いでも鋭敏な指揮をとっていたのです。

1805年のアウステルリッツの戦い。
ナポレオン率いるフランス軍が大勝利を得ました。

ドレスデンの戦い。これがナポレオンの最後の勝利でした。

ナポレオン失脚で王政復古が起きルイ18世の時代になっても、ペルネティの評価は変わらず、国王は子爵の称号を授けたほどでした。さらに時が経ち、ナポレオン3世の第二帝政時代では上院議員になり、多くの栄光に包まれた89歳の生涯をパリで閉じました。

弟子丸泰仙の師だった沢木興道(1880-1965)

ペルネティが土地を所有していた14区には彼の名を冠した道路があり、そこに曹洞宗の僧、弟子丸泰仙(1914-1982)が1970年に禅の道場を開き、教えを説いていました。現在、その禅道場は13区に移動しています。1979年には弟子丸泰仙によってロワール河畔のブロワ近郊に、大規模な国際禅協会、禅道尼苑が創設され、ヨーロッパに広く禅が伝わっていったのでした。

2021年3月1日

ミニのお雛祭り

 パリに暮らしていても、日本のお祝い行事がいつも気になります。いろいろある中で、もっとも楽しみなのは3月3日のお雛祭り。

「とらやパリ」では特別のお料理をいただけるので、例年、そこで友人たちとお祝いするのですが、今年はコロナで諦めざるを得ないのです。

そのかわりに我が家にある、小さなお内裏さまとお雛さまを目の前にしながら、自宅で和菓子をいただくことに。ということで、大好物の特製モナカを買いに「とらやパリ」に向かいました。

いつも季節の和菓子を置いている「とらやパリ」。
パリにお店を出して早くも40年。

立派なひな壇を店内に飾ってあって、
つかの間でも日本の世界に浸れるのは幸せ。

買ったのはまろやかなお味の「御代の春」。桜の花のように淡いピンクのモナカで、中には白あんが入っています。

それをどの器に入れるか迷った末選んだのは、ステキな思い出がある懐石料理の老舗「辻留」からいただいた貴重な品。

懐石料理の「辻留」からいただいた、大変貴重なお茶托。

ある高名な茶道家がご招待して下さったから、このような敷居が高い高級懐石料理のお店で逸品を味わうことができたのです。そうでなければ絶対に入れないお店。それなのに、帰り際にプレゼントまでいただいたのです。それがオリジナルのお茶托。

お茶碗がちょっと大きすぎるけれど、
手元にある品でいい雰囲気がでた、と自己満足。


本来はお茶を入れるお茶碗をその上に置くのだけれど、和菓子にぴったりと思ってそのお茶托にのせたら、とてもいい感じ。これに似合う湯呑み茶碗もないので、これもまた急に思い立って、茶わん蒸しの器を使用。いかにもお雛祭りの雰囲気になりました。ほんとうはお着物を着たらいいのでしょうが・・・

来年は「とらやパリ」で友人たちとお祝いしたい!!