2010年11月29日

マリー・アントワネットのデザイナー10

マリー・アントワネットと
二人の子供たち
ルイ15世の愛妾だったデュ・バリー夫人は、ベルタンの顧客でもあったのです。ロンドンで再会した二人でしたが、ベルタンがそこにすっかり落ち着いたのに比べて、デュ・バリー夫人はフランスとの間を何度か行き来しています。

そもそもデュ・バリー夫人がロンドンに行ったのは、盗まれた彼女の宝飾がロンドンで見つかったらしいという情報があり、その確認のため。彼女がロンドンにいる間に革命は激化し、国王が処刑され、フランスは王侯貴族には危険な国になった。それなのにデュ・バリー夫人は、わざわざ戻って行ったのです。ベルタンの忠告も聞き入れずに。

それというのも、残してあるたくさんの宝飾品や、国王からプレゼントされた館が気になってしかたがなかったから。
彼女の命取りとなってしまったのは、この浅はかな考えのため。
以前の使用人の通告によりデュ・バリー夫人は捕らえられ、コンシエルジュリーに送られたのです。
彼女が閉じ込められたのは、マリー・アントワネットの元独房。
王妃が処刑され、空っぽになっていたその独房に捕らえられていたいたデュ・バリー夫人は、王妃と同じコンコルド広場で処刑され、王妃と同じ共同墓地マドレーヌに葬られました。


過去の華やかな王妃のドレス
ベルタンがフランスに戻ったのは、革命が終わり平和を取り戻したことを確認してから。世が変わり、ナポレオンが皇帝になり、ジョゼフィーヌが優雅な妃としてフランスのエレガンスを外国に示していました。が、それはベルタン作ではなく、ルロワ制作。ベルタンの名があまりにも旧体制、特にマリー・アントワネットと結び付いていたために、故意に避けていたと考えられています。
いかにもナポレオンらしい。

年老いたベルタンが、パリ郊外のサン・クルー城の庭園を歩いていたときのこと。そろそろ帰ろうとしたその時、彼女は気品ある美しい女性を目にとめます。その人は何と、ナポレオンの二番目の妃、マリー・テレーズ。
マリー・アントワネットが
こよなく愛したバラ
その姿を見たベルタンは大きな衝撃を受け、心臓が早鐘のように激しく打ち、やっとの思いで家にたどり着きました。
マリー・テレーズはマリー・アントワネットの姪の娘なのです。

マリー・アントワネットとの絆が強かったベルタンにとって、王妃は多くの思い出のある忘れられない人。そうした人の血をひく女性を目の前に見たベルタンの衝撃は、あまりにも大きかった。その翌日、1813年9月22日、ベルタンは心臓麻痺で66歳の生涯を閉じました。
マリー・アントワネットに気に入られていたデザイナーらしい最期です。
おわり

2010年11月28日

マリー・アントワネットのデザイナー 9

国王処刑後の
喪服姿の王妃
タンプル塔で厳しい監視の元に暮らしていたマリー・アントアネットのために、ベルタンが作ったのは4つのボンネットと数枚の肩掛け、そして何足かの靴下。

やがて革命裁判がおこなわれ、その結果死刑の判決を受けた国王ルイ16世は、
1793年1月21日にコンコルド広場で処刑。未亡人になったマリー・アントワネットは、それ以後、喪服だけを着るようになります。革命家からその制作を依頼されたベルタンが作ったのは二枚の喪服。それがベルタンがマリー・アントワネットのために作った最後の服となったのです。

その後マリー・アントワネットはコンシエルジュリーに移されます。それも急に決まったことで、着の身着のままの王妃のために、後日、彼女がタンプル塔で使用していた服を、コンシエルジュリーに運んでいます。

ベルタンが作った喪服で
毅然とした態度を崩さない王妃
同じ年に王妃も革命裁判にかけられ、ヴェルサイユ宮殿でいかに彼女が贅沢していたかの証明のために、服の注文書の提示を命じられたベルタンでした。が、彼女はそのいくつかを処分。このようにしてベルタンは、少しでも気の毒なマリー・アントワネットのために役立ちたいと願ったのです。

その後ベルタンはフランスを離れます。行き先はロンドン。多くの貴族の亡命先だからです。そこで彼女はマリー・アントワネットの処刑を知ります。

運命は不思議なもので、同じ亡命先に、かつてマリー・アントワネットの宿敵といわれていた、
ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人もいました。
死の控え室と呼ばれていた
コンシエルジュリー
ベルタンは彼女にフランスに戻るのは危険だと忠告。
けれども残してきた宝飾などが気になってしかたがないデュ・バリー夫人は、ベルタンの忠告を無視。
それが彼女の運命を決定したのです。

続く・・・

2010年11月26日

マリー・アントワネットのデザイナー8

ヴェルサイユ宮殿からパリに連れてこられた国王一家は、パリ中心にあったチュイルリー宮殿に幽閉されます。長年放置されていたその宮殿は、蜘蛛の巣がはびこる不吉な建物。当然家具もなく、急遽、最低限必要な家具が置かれました。

あまりにも突然のことで、王妃は着替えもない。ベルタンは何枚かの服を大急ぎで仕立てます。が、以前のような華やかさがすっかり失われたドレスばかり。
当時の王妃の服の記録は、残念なことにありません。

チュイルリー宮殿
国王一家がチュイルリー宮殿に暮らすようになった1789年の暮れに、ベルタンはフランスを離れました。危険をいち早く察知した貴族たちが、外国に亡命したことを知ったからです。たくさんの布地やリボン、そして二人のお針子を連れたベルタンは、彼らの亡命先に行き、そこで服を制作。こうした機敏な反応がベルタンの強み。

しばらくした後に、ベルタンはお針子を現地に残してパリに戻ります。彼女の店は顧客が少なくなったとはいえ、まだ服を頼んでいた人がいたためです。
本来ならば、王妃お抱えのデザイナーということで、ベルタンにも危険が迫っていたはずなのに、彼女が店を続けていられたのは、ちょっと不思議。

逃亡に失敗し、
パリに連れ戻された国王一家

ベルタンが多くの職人を抱え、その人たちの生活を支えていたために、革命家は大目にみていたからなのです。しかも、王妃は捕らわれの身といえども、着る物が必要。ベルタンは欠かせない人だったのです。チュイルリー宮殿に何度かマリー・アントワネットを訪れていたベルタンは、王妃の数少ない話し相手として貴重な存在でもありました。


タンプル塔
けれども、それにも終止部が打たれます。国外逃亡を図った国王一家でしたが、それに失敗。陰惨なタンプル塔に閉じ込められたのです。そこでもベルタンはマリー・アントワネットの服を作っていました。簡素とはいえ、王妃はベルタンの服に身を包むたびに、過去の栄華に時代を思いをはせていたかもしれない。が、ベルタンはもっとも悲惨な服をマリー・アントワネットのために作る日がきます。ルイ16世が処刑されたからです。

続く・・・

2010年11月25日

マリー・アントワネットのデザイナー 7


ヴェルサイユの庭園の一角に
作られた村落
ヴェルサイユ宮殿における、
息が詰まるほどの公式行事や儀式に、うんざりしていたマリー・アントワネットが、気がねしないで過ごせる場を持ちたいと思うのは、当然のこと。

王妃になった日に、ルイ16世からプレゼントしてもらったプティ・トリアノンは、たしかに彼女の息抜きの場でした。
その館を自分の好みで装飾したとはいえ、
それは、やはり金と大理石の館。

ちょうどそのころ、ジャン・ジャック・ルソーの自然復帰の思想が宮廷でも語られていました。それに共鳴したマリー・アントワネットは、庭園の一角に、いくつかの田舎小屋からなる村落を作ることを思いつきます。

1783 年の王妃
わらぶき屋根のいくつもの家、水車小屋、さまざまな動物がいる牧場、白鳥がゆったりと泳ぐ池。
野菜を作ったり、牛の牛乳をしぼったり、マリー・アントワネットはそうしたひとときを、こよなく愛していました。

そのためには、シンプルな服が必要。
ベルタンは直ちに簡素な、けれども王妃としての品格を損なわない服を制作。
それにはむぎわら帽が似合う。
いままでと異なるスタイルに王妃もすっかりご満足。

プティ・トリアノンの庭園で
1785年
けれども、そうした楽しみに終わりを告げる日は刻々とせまってきました。農作物の不作が続き、国民の生活はどん底。日々の糧を求める声は次第に高く、激しくなっていきました。

そして、ついに1789年10月5日から6日にかけて、暴徒たちが宮殿に入り、国王一家はパリへと連れて行かれたのです。
誰も想像もつかなかった革命が、今始まったのです。

続く・・・

2010年11月22日

マリー・アントワネットのデザイナー 6

マリー・アントワネットと
第一王女、王太子 1785年

マリー・アントワネットの服装にかける費用は、
子供が生まれてから5年後には4倍にもなっていました。

これでは、王妃への手当てをいくら増やしても、追いつかない。
ベルタンが請求する金額は、国王の援助金なしでは支払えない状態が続いていたのです。

その他、ドレスに合わせて帽子も作る。
ベルタンは請求書の明細を作ったことがなかったために、苦情を言う人も宮廷にはいましたが、
何しろ王妃のお気に入り。そのために、強いことは要求出来ず、結局、いいなりに支払う他ない。

ドレスには最高級のシルクやタフタ、ビロード、レースが使用され、ボタンはダイヤモンドが多いし、
その上豪華さを増すために羽をつけたり、
パールも縫い付ける。
胸元や、袖口、足元ではレースがひらひらと舞う。

そうしたごってりした服と釣り合いを取るために、ヘアーもボリュームたっぷり。
宝飾や羽をつけたり、ヘアーを油で固めて庭園を作ったり、本物のお花をいけたり、船をのせたり・・・
王妃を模倣したがる貴族夫人の注文も増すばかり。それに比例してベルタンの不動産も増えていきました。パリに住まいを何件も購入し、近郊の別荘ともなると、イギリス庭園まで作らせ、まるで小トリアノン。
それでも彼女は仕事が何よりも好きな働き者で、結婚もしなければ 、子供もなし。そのかわり家族思いで、故郷から家族を呼び寄せ、裕福な生活を味わわせていたのです。
マリー・アントワネットがジャン・ジャック・ルソーの影響を受けて、自然と親しむようになると、利発なベルタンもそれに素早く順応。彼女は王妃に今までと異なる装いをすすめます。
続く・・・

2010年11月21日

マリー・アントワネットのデザイナー 5

乗馬の腕前も
たしかな王妃
才知あるベルタンは、マリー・アントワネットのお気に入りのデザイナーであることを、最大限にいかします。

パリの店に大きく「王妃のデザイナー」と書いて、人々の関心をひいていただけでなく、サロンの壁にマリー・アントワネットの肖像画と、その隣に、何と自分の肖像画も飾っていたのです。

マリー・アントワネットがそれほど頻繁にベルタンに服を注文していたからには、
彼女はそれだけの才能があったのにちがいない。ベルタンのように認められたいと願っていたデザイナーは、他にもいましたが、誰ひとりとして、ベルタンほどの特権を得ることは出来ませんでした。

ベルタンはフランスモードの素晴らしさを、王妃を通して世界に発信していたのですから、業績は称えられるのにふさわしい。

1781年に待望の王太子が誕生
クリエーターであるだけでなく、実業家としての手腕もあったベルタン。彼女が店や住まい、別荘まで購入したのは、何よりの証拠。利益を不動産に投資することの重要性を、ベルタンは知っていたのです。

1779年にはベルタンの従業員は、約30人。忙しいときには外部の人にも依頼。それに加えて、布地やレース、リボン産業を盛んにしたわけですから、彼女の実績は賞賛にあたいすること。
ヴェルサイユ宮殿の
王妃の寝室
ベルタンの才能に魅せられたマリー・アントワネットの出費はかさばる一方。
彼女が支払いに困っている様子を示すと、王妃を盲目的に愛するルイ16世は、いそいそと助けていたのです。
もしかしたら、自分を頼りにしてくれると、内心うれしかったのかも知れません。
本当に愛すべき国王。

マリー・アントワネットの装いは、長年待っていた子供誕生から、
さらにゴージャスになっていきました。

続く・・・

2010年11月20日

マリー・アントワネットのデザイナー 4

1778 年の
マリー・アントワネット
王妃がローズ・ベルタンを迎えていたのは、 寝室の裏手にある内殿の一室で、そこには家族やごく親しい人しか入れませんでした。
貴族夫人でさえも、いつそこに入る許可が出るかと、その光栄ある日をじっと待っていたほど。ベルタンがいかに優遇されていたかという証拠です。

内殿は王妃の好みでフェミニンな装飾がなされ、そこで彼女はハープを奏でたり、時にはひとりで食事をしたり、子供たちと遊んだり。

王妃はその部屋で、ベルタンの新しいドレスに関するアイディアに
全神経を集中させ、自分の意見を伝え、
完成するのを楽しみにしながら待つという日々を送っていました。

王妃の要望にいつでもこたえられるようにと、ベルタンはヴェルサイユ宮殿近くに家を借ります。
着飾った衛兵が居並ぶ中を、胸を張って通るベルタンは、その後、王妃の内殿に入り、親しげに長い間語り合う。
もともとヘアーも得意だったベルタンは、マリー・アントワネットの髪型も手がけていました。その役は後に、レオナールという男性に変わります。

マリー・アントワネットの服装は日に日に豪華になり、
ヘアースタイルもそれに比例して派手になり、
オーストリア女帝である母マリア・テレジアの
お小言が、ウィーンからヴェルサイユに届きます。
けれどもそれも何の役にもたたず、
マリー・アントワネットの華やかさは増す一方。

小さい頃から
ハープが好きでした
王妃を模倣したい貴族夫人は、ベルタンのパリの店に通い、
夫たちはその支払いに悩むということが、日常になっていました。
ベルタンの名はフランスを飛び出し、ロシアやポルトガル、
イギリス王室にも届き、それによって彼女は莫大な財をなしました。
今や「モード大臣」ベルタの栄光も財産も、破格なものとなったのです。

続く・・・

2010年11月19日

マリー・アントワネットのデザイナー 3

1778年の
マリー・アントワネット
1774年に前国王ルイ15世が逝去し、王太子がルイ16世として即位し、
その妃マリー・アントワネットは、ついにフランス王妃になりました。

シャルトル公爵夫人のお気に入りのベルタンを、彼女がマリー・アントワネットに紹介したのは、その年の6月か7月頃と推定されています。
シャルトル公爵夫人を筆頭に、貴族夫人が、皆、今までと違うあかぬけた服装をしているのを、マリー・アントワネットも目にとめていたはず。
そして内心、一体誰が作ったのだろうと
思っていたはず。

それまで彼女は、長年働いていた宮廷デザイナーの服を、
他の王妃と同じようにそのまま着ていたのです。
ベルタンの服との差が大きいことは、ひと目で分かる。自分ももっと自由におしゃれをしたい、と思っても無理ないこと。
しかも彼女は若く、しかも王妃。それに加えて誰よりも予算もある。

王妃ともあろう人は誰よりも美しくあるべきだ、輝く存在であるべきだ、とマリー・アントワネットが思ったと容易に想像できます。

もともと舞踏会が大好きなマリー・アントワネットは、
王妃になると自ら率先して頻繁に開催。
そのたびに、王妃はベルタンにアイディアを求め、
斬新なデザインのドレスで身を包み、
ますます美しさに拍車がかかりました。

ヴェルサイユ宮殿の
鏡の回廊
そうした王妃を見て、ルイ16世は微笑みを深くし、
貴族夫人たちは感嘆し、賞賛の眼差しで見つめる。
フランス駐在の外国大使は、王妃の美しさを称える報告を
矢継ぎ早に本国に送る。

今やマリー・アントワネットは、
どの国のどの王妃よりも美麗になりました。
それは彼女が望んでいたことに違いありません。

王妃お抱えのデザイナーとなったベルタンは、
「モード大使」と呼ばれ、
王妃の内殿には入れる数少ない人となったのです。

続く・・・

2010年11月18日

マリー・アントワネットのデザイナー 2

1775年の
マリー・アントワネット
シャルトル公爵とルイーズ=マリー・アデライドの
結婚式は1769年4月5日。
金糸銀糸のウエディングドレスに身を包んだルイーズ=マリー・アデライドは、天から今舞い降りてきたかと思うほど、
煌びやかな美しさ。

人々の好奇心と感嘆は花嫁のウエディングドレスに集中。
「いったいどなたがお作りになったのでしょう」
というささやきが起きたのは、当然。
ベルタンの名はその瞬間に、貴重なものになったのです。

ベルタンがつとめるモード店パジェルは、それ以降、
多くの貴族夫人のお気に入りになります。
勿論、誰も彼もがベルタンを指名。

彼女のすごさは、それを境に独立を考えたこと。
やはり、ただ者ではなかったのです。
1773年10月24日、ベルタンは自分のモード店「グラン・モゴル」をオープン。
しかも高級なサントノレ通り。
このときから彼女は、マリー・ジャンヌからローズとなり、
その名で知れ渡るようになります。

ローズはバラのこと。
そして、
マリー・アントワネットがこよなく愛していたのはバラ。
運命的な出会いを暗示するような名になったのです。

フランス王太子妃マリー・アントワネットは、
そのときまだ17歳。
服装に関する興味はあまりなく、
周囲の言いなり。

彼女がおしゃれに大きな興味を持ち、多額の出費をするようになるのはそれから間もなくのことで、
王妃になってから。
ローズ・ベルタンの本格的な活躍が
そのときから始まります。

続く・・・

ウイリアム王子婚約

ウイリアムとケイト
© D.R.
イギリスのウイリアム王子がついに婚約。
このニュースはパリでは、
ああ、やっとという感じ。日本でも同じでしょうね。
なにしろ彼がケイト・ミドルトンと交際していたことも、ヴァカンスを一緒にすごしていたことも、
何年も前から知っていたことなのだから。

ウイリアムが正式にケイトに結婚を申し込んだのは、
旅先のケニア。
そういえば、エリザベス二世が父の逝去を知ったのも、
ケニア訪問中。
イギリスの大きな出来事と関係が深いのですね、ケニアは。

チャールズ王太子からダイアナへの婚約指輪が、
そのままウイリアムからケイトに。
ダイアモンドとサファイアのリングの輝きが、ひときわ豪華。このように、宝飾は代々受け継がれていくのが
ヨーロッパの王室の習慣。

結婚式は2011年。
ウイリアムの父母の結婚式からちょうど30年後。
モナコのアルベール大公も2011年夏。
ということで、
来年は華々しい年になりそう。

日本からはどなたが御出席なさるのでしょう。
あれこれ考えて、眠れない日々。

2010年11月17日

活躍し続ける賢三さん

いつまでも若い賢三さん、
ホテルディレクターと一緒に
 一年中なにかしらしている
賢三さん。
今度はホテルのお仕事。

インド洋にある夢のようなモーリス島に、
もうじき誕生する高級ホテルの、
ユニフォームやタオルなどの
デザイン。
それだけでなく、オブジェのデザイン、ホテル全体のカラーのアドヴァイスと重要な任務。

その記念パーティがシャンゼリゼのエリゼ・ル・ノートルでありました。
なにしろ、顔も性格もチャーミングな彼のこと、
崇拝者もすごい。
彼の名を呼び、握手をして、
賢三さんがデザインした
ユニフォーム
誰も彼もが写真を撮りたがる。

やはり賢三さんは世界規模の人。
日本人でこれほど世界で名を語られている人は
他にいないでしょう。

それなのに気さくで、
親しくしてくださって、
お食事もよくご一緒。
とても光栄で~す。

彼の魅力はあの笑顔。
くったくのない、少年のような純な笑顔は、
世界が必要とする太陽のような存在。
そして稀有な才能。


 ソワレはDJで盛り上がり、ル・ノートルならではの豪華で美味なビュッフェ。これほど種類豊富なビュッフェは珍しい。
花装飾はトロピカル、そして、勿論、カクテルもトロピカル。パリらしいおしゃれなソワレで、皆、幸せいっぱい。ホテルオープンが待ち遠しい。モーリス島はパリから飛行機で8時間。いつかぜひ行ってみたい島。

2010年11月16日

マリー・アントワネットのデザイナー1

ファッションリーダーだった
マリー・アントワネット
マリ-・アントワネットが当時の
ファッションリーダーであったことは疑いもない事実。
彼女が身につける服のすべてが
流行の先端で、貴族夫人たちは
競って模倣していました。

ファッションをリードするためには、
当然、才能あるデザイナーがつきっきりだったはず。
それがローズ・ベルタン。

彼女に関しては、
あまり知られていませんでした。
ところが最近、本が出版されたので早速購入。
多少知識が増えましたのでお知らせします。

ベルタンが生まれたのは
ピカルディー地方のアベヴィルで、
子供のころの名はマリー・ジャンヌ。
そこは繊維産業が盛んな地域でした。


そうした環境のもとに生まれ育った
ベルタンは、9歳のころに仕事を始めます。
騎兵憲兵隊の射手だった父が
早くに亡くなったためです。
見習いとして入ったのは、
モード店。
そこで彼女は顧客のヘアーも手がけます。
それが彼女の将来を輝かしいものにしたのですから、
人の運命はわからないものです。

数年後にベルタンは、パリへと向かいます。
ピカルディーでは満足しなかったからです。
才能のある人は、いつの時代でも、どの国でも、
常により以上のことを求めるものなのですね。

ひとりでパリに暮らすようになったベルタンは、
ジェヴル河岸の名のない小さなモード店で働いていた
という証言があります。
そこでも彼女はヘアーも担当していました。


ローズ・ベルタン
 その後ベルタンは、突然、高級モード店「トレ・ギャラン」で
働くようになったのです。
しかもその店は、誰もがあこがれるサントノレ通りにある。
けれども彼女にとってその店は、単なる仮の仕事場だったのです。
というのは、その店の主任だったパジェルが、
モード店「パジェル」をオープンし、ベルタンがそこで働くようになったから。

ある日、パジェルはベルタンに重要な仕事を依頼します。
シャルトル公爵と結婚する、
ルイーズ=マリー・アデライド・ド・ブルボンー
パンティエヴルの
結婚衣裳の担当に選んだのです。
1769年のことで、ベルタンは21歳。
栄光への道が開かれる、運命の時が到来したのです。

続く・・・

2010年11月15日

シャトレのつぶやき26 ワタシの好物を公開します

ワタシの一ヶ月の食料品です
ワタシの食料品を買うとき、
ママンはいつもブツブツいうのよ。
「重いのよ、君の食料品が」

見ればなるほど重そう。
何しろワタシの好物はスーパーでは売っていないの。特にカンヅメは
獣医さんのところにしかないの。

しかも、どこの獣医さんでも売っているのではなくて、お家から遠いところの獣医さんでしか
売っていないの。
だからママンはバスに乗っていくのよ。
どれどれ、
ワタシが好きなのかチェック
「君がぜいたくだから、ほんとうに苦労する。クリニックに入っているときだって、看護婦さんがずいぶんとわがままだって、言っていたわよ」

そう言われても、
嫌いなものは嫌い。
これからだって、
好きなのしか食べないからねぇ~。

それにしても一ヶ月でこんなに食べるの?
まとめて見ると、すごい量ね。
これが全部、おなかにはいるのかと思うとおそろしいくらい。
これでダイエットになっているのかしら。
ちょっと心配になってきたわ。

これが全部ワタシの
おなかに入るのね。ちょっとこわ~い
え?
ワタシの一ヶ月の食費をしりたいの?
45ユーロくらいかな。
お肉は食べないでお魚ばかり。
2種類のカンヅメと乾燥のと、
その日の気分によってちがうの。
後、ママンがヨーグルトを食べるときにおねだりして、ちょっともらうし、ミルクも少し。
そうそうお水もたっぷり。

これでスリムな体を保つようにしているの。
どうかしら、
参考になったかしら。
そうだとうれしいけれど・・・

2010年11月7日

メレリオの王妃たちに捧げる宝飾品

王妃たちに捧げる宝飾発表の
素敵なソワレ
フランス最古の宝飾店のメレリオ・ディ・メレーが、王妃たちに捧げる宝飾品を発表。
そのどの作品もフェミニンで気品があり、見ているだけで心が高揚。それにふさわしいモーヴの照明が、ムードを高めます。

ヨーロッパ中の王侯貴族に愛されているメゾンだけあって、様々な国の王妃が古くからの顧客。特にティアラに関しては、メレリオにかなうメゾンはありません。

マリー・アントワネットに
捧げる新作
今回の作品で特に注目を集めたのは、マリー・アントワネットに捧げるビジュー。
彼女はパールとダイヤモンド、ピンクが好きだったので、それを取り入れての新作品。

マリー・アントワネットは初めてメレリオのビジューを見たときに心を奪われ、それ以降いくつもの宝飾品を注文していたのです。

地下のアーカイヴには
顧客のスペインやオランダ王室の
お妃のティアラの写真などを展示。
当時のファッションリーダーだった王妃にならって、貴族夫人も次々に発注。
メレリオは画期的な発展をしたのです。
その時代の宝飾店で今でも続いているのは、メレリオのみ。
創立が1613年というから、約400年もの歴史があるのです。
分厚い顧客名簿を見ると、ヨーロッパ中の王侯貴族の名がずらり。
 現在の当主は14代目。

現当主、フランソワ・メレリオと
他のメゾンの経営者が、次々とめまぐるしく変わっているのに、直径子孫がこれほど長く続いているのは、画期的なこと。
フランスの文化の深さがひしひしと伝わる、
心地よいソワレでした。

2010年11月5日

婦人画報に登場後の反応

夏に東京に行っている間に、
婦人画報の撮影がありました。
なんと、それは「今、私たちに似合うおしゃれ」という特集で、
個性的で著名な美女ばかり(私以外は)が登場。
そのような女性の仲間入りをさせていただき、とても光栄。

メイクは自分でして、ほぼ素顔。前日にパリから東京に着いたのでちょっと疲れていましたが、とても素敵な写真にしてくださってカメラマン若木信吾さんに感謝。

彼はすごい腕前。この記事を見た友人がこぞって
「カメラマンがいいから、よくうつっている」
と大合唱。私も納得。

カメラマンの腕がいいとの
大合唱を受けた写真。
「婦人画報」誌
ところで、その時
「世界で唯一のオーダーメイドのケリー」として、私が愛用しているエルメスのバッグを語ったのが、結構反響を呼び、価格や制作に必要な日数、オーダーが可能かなどと、いくつも質問が来てびっくり。婦人画報が出てすでに2ヶ月もたっているのに、それが今でも続いているのです。

婦人画報に注目している女性がそれほど多いのですね。とにかく雑誌の影響はすごい。パリに来るツーリストが、住んでいる私たちより詳しくパリを知っていて、教えられることも度々。

日本の情報は緻密で立派。世界に誇れるレベルです。

2010年11月3日

パリの美しい秋


黄金色に輝く並木
日本も紅葉の季節でしょうが、パリも同じ。
市内でもたっぷいりと味わえます。

パリの代表的な街路樹がプラタナスとマロニエなので、日本ほど変化はありませんが、
それでも、オレンジや赤、黄色の葉をつけた姿は美しい。

高い秋の空に似合う見事な色合い
自然の変化が与えてくれる、今までと異なる街の光景は、心に刺激を与え、活性化し、毎日、街を見るのが楽しい今日このごろ。どこもかしこも絵のようなパリに暮らしていると、何か創造的なことをしたくなるもの。そうしたパリが文芸家をひきつけるのは、当然。

「このパリならでは見られぬ生きた悲しい詩」
と書いたのは永井荷風だったかしら。
いずれにしても、
誰も彼もがロマン派になりそうな、秋のパリです。

2010年11月2日

シャトレのつぶやき25 エレベーター物語

エレベーターを観察しているの
ときどきお家のドアの外に出ることは
前にお話したわよネ。
ほら、ジムをするときに。

そのほかにも
ワタシには楽しみがあるの。
エレベーターが
上がったり下りたりするのを
見ることなの。

人間てほんとうにおかしいわね。
だって、あんな箱を作って、
その中に入って、
上がったり下りたりして喜んでいるんだもん。
それを見ていると、人間てなんて単純なんだろうって思っちゃう。
見ていてちっともあきないわ。

アーッ ドアが閉まりそう
でもね、ワタシがエレベーターに
見とれているうちに、
お家のドアがなぜか少しづつ閉まっちゃうことがあるの。
きっと風が吹くのよね。     
そんなとき、こわくてこわくて
もう、
エレベーター観察どころじゃなくなるの。        
だって、もし完全に閉まったら、
ワタシとてもひとりでは開けられないもん。
万が一のときには
大きな声をだせばいいのだけれど、
やはり恥ずかしいワ。
一度そういうことがあって、声の限りに泣き叫んだの。
エレベーター観察どころじゃないわ
だけどママンはそれにちっとも気が付かなかったの。
すごい神経しているのね。音楽でも聴いていたのかもしれないけれど。
それにしても、ちょっとひどいわよネ。

でも運のいいことに、
ちょうど通りかかった
上の階に住んでいる
ムッシューが 、ワタシの必死の声を
聞いて
お家のドアをガンガン叩いてママンに
しらせたの。
「お宅のネコが泣いていますよ」
って、ワタシをやさしく抱いてママンに
渡してくれたの。
ギャー、助けて!
命の恩人よネ。
それなのにママンは
「エーッ! そちらに遊びに行っていたんですか?」
なんて、トンチンカンなことを言うの。
信じられる、この無責任さ。
ああ、はずかしい。

2010年11月1日

エルメスに衝撃を与えたアルノー

パリのエルメス本店
フランスを代表するデラックス産業の多くを
傘下にしているLVMHが、
ついに、エルメスの二番目に有力な株主になりました。

これまでエルメスは、アンタッチャブルと考えられていたのに、
それが突然のこの発表。
LVMH会長のベルナール・アルノーは、公に発表する直前に、
エルメス社長パトリック・トマに電話で報告したそう。
彼は地球がひっくり返ったほどの衝撃を受けたのに違いない。
何しろまったく想像もしていなかったはずなのだから。

新聞や雑誌の報道によると、
アルノーは数年前から少しずつエルメスの株を買っていて、
公表したときには、すでに17パーセントの株主。

筆頭株主は創立者のファミリーたち。
その次の株主になったのですから、
これは、もう、足元に火がついだほど重大なこと。

エルメスの有名なロゴと
オレンジのシンボルカラー
今、心配されているのは、
今後もLVMHが買い足していくのではないかということ。
今は17パーセントでも、
その内、いきなり大株主になることも考えられる。
個人の小株主もいるわけだから、
その人たちがアルノーに売らないともかぎらない。

今後どのような展開をするか、
今、大きな関心が寄せられています。

ここまできたLVMHが、介入していないデラックス産業は、
シャネルのみ。
世の中の大きな変革の時期に
さしかかっているようです。