国王処刑後の 喪服姿の王妃 |
やがて革命裁判がおこなわれ、その結果死刑の判決を受けた国王ルイ16世は、
1793年1月21日にコンコルド広場で処刑。未亡人になったマリー・アントワネットは、それ以後、喪服だけを着るようになります。革命家からその制作を依頼されたベルタンが作ったのは二枚の喪服。それがベルタンがマリー・アントワネットのために作った最後の服となったのです。
その後マリー・アントワネットはコンシエルジュリーに移されます。それも急に決まったことで、着の身着のままの王妃のために、後日、彼女がタンプル塔で使用していた服を、コンシエルジュリーに運んでいます。
ベルタンが作った喪服で 毅然とした態度を崩さない王妃 |
その後ベルタンはフランスを離れます。行き先はロンドン。多くの貴族の亡命先だからです。そこで彼女はマリー・アントワネットの処刑を知ります。
運命は不思議なもので、同じ亡命先に、かつてマリー・アントワネットの宿敵といわれていた、
ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人もいました。
死の控え室と呼ばれていた コンシエルジュリー |
けれども残してきた宝飾などが気になってしかたがないデュ・バリー夫人は、ベルタンの忠告を無視。
それが彼女の運命を決定したのです。
続く・・・