2016年4月13日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 75

早熟でおしゃべりが好きな王子ルイ・シャルル。
タンプル塔では王女と王子が、母の死をしることもなく暮していました。
1785年3月27日、
王子は生まれたその日に
ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂で
洗礼を受けました。
時が流れ、王子の面倒をみていたシモン夫婦が1794年1月5日に去ります。
それ以降、王子は散歩に出ることがなくなったばかりでなく、王子の部屋に入る人さえいなくなりました。つまり、彼はたったひとりで、太陽も入らない陰惨な部屋に閉じ込められていたのでした。

王子の部屋と、その隣りの監視員の部屋の間には暖炉があり、その上に細長い隙間を開け、そこから食べ物を入れていました。
まるで、檻の中の凶暴な動物のような扱いだったのです。
王子を診察した医師ペルタン。

窓が開けられることもなく、彼に言葉をかける人も、姿を見せる人もいないまま、時は更に経っていきました。

約半年後の7月28日、国内軍最高司令官バラスが、
突然、タンプル塔の王子を訪ねます。
バラスは血で血を洗う恐怖政治に終止部を打とうと、同士たちと立ち上がり、過激派を捕らえコンシエルジュリーに送った人物です。
1794年7月28日、もっとも冷酷でもっとも過激な革命家ロベスピエールと彼の仲間が処刑され、長年続いた恐怖時代が一段落します。

貴族出身のバラスは、真っ先に、捕われていたルイ・シャルルの身を案じます。カビの匂いがはびこる部屋で、生気のかけらもない王子を見たバラスは、
ルイ・シャルル・カペーの
死亡証明書。
部屋の改善を早急にし、王子の健康状態が悪いようなので、医者の手配もし、去っていきます。

ルイ・シャルルを診察した医師ペルタンは、王子が悪性の結核にかかっていると判断。薬を用意し、窓を開け新鮮な空気を入れるようにと指示も出します。

けれども衰弱しきっていたルイ・シャルルの命を救うことは出来ませんでした。1795年6月8日午後3時。彼は10歳の短い生涯を閉じます。

10歳の生涯をタンプル塔で閉じた
ルイ・シャルル。
ペルタンにより直ちに解剖がなされ、その際、彼はこっそりと王子の心臓を取り出し、ポケットに秘かにしまいます。それが、後年、タンプル塔で死亡した少年が、確かに王子だったとの証拠になるのです。(マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 33章を参考にしてください)

王子は救出されたとか、自分こそ、その王子であるとか、その子孫は今でも健在であるとか、2世紀もの間様々な説が飛び交っていましたが、2004年のDNA鑑定で、王子は確かにタンプルで死亡したことが判明したのです。

国王になることもなく、たったひとりで世を去って行ったルイ・シャルルでした。