2016年4月17日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 76

オーストリア風の装いの17歳の王女。
国王夫妻の愛を
独占していた王女。




1795年12月19日、マリー・テレーズ王女が釈放されました。
その日は彼女の17歳のお誕生日でした。

王女は母の死も叔母の死も知らされていなかったために、どこか別の監獄に移され、そこに暮らしていると思っていたようです。

タンプル塔の階下に弟が暮らしていたことは知っていて、幼いルイ・シャルルの健康を気にかけていました。 けれども、その悲惨な死を知らずに、話し相手もいないまま、たったひとりで約2年間、タンプル塔の厚い壁の中で日々を送っていたのです。

タンプル塔から出る王女。
 王女の釈放は、従兄フランツ2世とフランス共和国の間でなされた交渉の結果決まったのです。 フランス側の条件は、オーストリアの捕虜になっていた 共和党員4人の釈放でした。その中に、何と、あのドルーエがいたのです。

マリー・テレーズが結婚した
アングレーム公。
 
チュイルリー宮殿から無事に抜け出て、国外脱出が後一歩で成功すると思われた、そのちょっと手前のヴァレンヌで捕まった国王一家。そのきっかけを作った熱烈な共和派のドルーエ。恨みが深いそのドルーエが、自分の釈放と引き換えに自由になったのを知ったのは、後のことでした。

約3年半捕われていた タンプル塔を離れる際、王女はわずかな持ち物を鞄につめました。その中には、母マリー・アントワネットが彼女と一緒に暮らしていたときに、壁布からた糸を紡いで作った靴下止めもありました。それは王女にとって、掛け替えのない遺品でした。

当初はウィーンの 宮殿に住んでいましたが、ナポレオンが攻め入ったためにそれ以降亡命の旅を続けます。ロシア、ハンガリー、ポーランド、イギリスと。

 
アングレーム公爵夫人になった
マリー・テレーズ。
亡き父の末弟アルトワ伯の息子アングレーム公と結婚しますが、子供には恵まれませんでした。
 アルトワ伯が後にシャルル10世としてフランス国王の座につき、再び宮廷生活を味わいます。

いまわしい思い出が詰まった陰惨な タンプル塔は、1808年、ナポレオン皇帝の命令で取り壊されました。その際、マリー・テレーズが壁に書いた文字が見つかり、多くの人の涙を誘いました。

  マリー・テレーズは世界で一番不幸な人。    
 母の様子をしることができないし
 近くにいくこともできない。
 それを何度もお願いしたというのに。
  大好きな善良な母、 バンザイ!        

そのほか、彼女のベッドが置かれていた近くには次の文字がありました。

         おお神よ、処刑に追いやった彼らを許し給え。

義父にも夫にも先立たれたマリー・テレーズは、慈善事業に携わり、晩年を過ごしていたウィーン郊外のフロースドルフ城で、波乱に富んだ72歳の生涯を静かに閉じました。