2016年4月21日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 78

マドレーヌ墓地の国王、王妃が葬られていた地を、
王党派のデクロゾーが見守り続けていました。
気高さを保ったまま処刑された王妃は、近くにあったマドレーヌ墓地に葬られました。そこでは、同じ年の1月21日に処刑されたルイ16世が待っていました。

このマドレーヌ共同墓地には、処刑された貴族や国王の元愛妾、さらに、多数の王侯貴族を処刑に追いやった革命家さえも葬られていました。当時は身分の差などなかったのです。

デクロゾーによって
2本の柳と、そのほかの木々が植えられました。
1796年、パリ市内の全ての墓地を閉鎖することになります。それに伴いマドレーヌ墓地は売りに出され、それを知り買い手としていち早く名乗り出たのは、元大法官デクロゾーでした。

彼は熱烈な王党派で、国王、王妃が葬られた墓地の世話を自らしたかったのです。
その近くの屋敷に暮していたデクロゾーは、二人の埋葬を秘かに見ていて、どこに葬られたか知っていました。

旧マドレーヌ墓地を買い取った彼は、自分の庭になるとすぐに、国王と王妃が葬られていた場所に2本の柳と数本の木を植え、懇切丁寧に手入れをしていました。

そこに葬られていた他の人々の遺骨の多くは、後年にカタコンブへと移されました。

革命の混乱の中からナポレオンが日の出の勢いで昇進し、皇帝になりますが、1814年、失脚しエルバ島に流刑されます。

その間にルイ16世の弟プロヴァンス伯が、王政復古で王座に就きルイ18世を名乗ります。彼は亡き兄とその妃マリー・アントワネットが葬られていた地に、ふたりに捧げる贖罪礼拝堂の建築を命じます。礼拝堂の祭壇は、ルイ16世の遺体が発見された場所に設けられ、現在もそのまま残っています。
左右対称のクラシックな贖罪礼拝堂