2016年10月30日

パリの犬たち 100

はかない恋物語。
お互いに一目ぼれ。でもちょっと恥ずかしいから、感情をかくしている彼と彼女。

でも、もう胸の内に秘めておけない。
「キミのこと好きだよ」
「ワタシもあなたが大好き」
なのに・・・・
数分後にもうお別れ。
あまりにも短い恋でした

2016年10月28日

ハロウィン


楽しさと驚きがあるパトリック・ロジェ。
10月31日のハロウィンの日に、日本ではかなり派手にお祝いするようですが、フランスはおとなしいもので、ショップの飾りつけもたいしたことがない。

それでも何かないものかと歩いていたら、独特なフォルムとディスプレイで人気を呼んでいるチョコレート店、パトリック・ロジェでユニークなショーウィドーを発見。ここのアィディアにはいつも驚きがあり見逃せません。

2016年10月26日

メトロの駅名は語る 8

Châtelet 
シャトレ (1,4,7,11,14号線)

「シャトレ」は「小城砦」という意味で、パリがシテ島を中心とした小さなた町だった時代に、侵略者から守るために造られました。セーヌ川左岸にプティ・シャトレが、そして右岸にグラン・シャトレがあったのです。

1785年、革命前のグラン・シャトレ。

当初、木造だったシャトレを頑丈な石造りに変えたのは1130年、国王ルイ6世の時代でした。
ところがその後パリが拡大され、シャトレは砦の役目を失ってしまいます。
以後、右岸のグラン・シャトレには警察、牢獄、裁判所が置かれるようになり、革命の際の1790年には350人もが捕らえられていました。プティ・シャトレも一時期監獄になっていましたが、革命数年前に除去され広場に変わります。

1808年、グラン・シャトレの取り壊し作業。

ナポレオンが皇帝だった1808年、グラン・シャトレが取り壊され、広場が造られ、ナポレオンのいくつもの戦勝を記念する塔と噴水が中央に飾られます。

1810年、ナポレオン皇帝の命令で造られた塔。
 

その後1858年、ナポレオン皇帝の甥であるナポレオン3世の時代に、スフィンクスの噴水がある立派な台座が加えられ、現在見られるモニュメントになります。

このシャトレ広場からメトロの名が生まれ、ふたつの劇場もあるし、植物を扱う店舗が軒を並べ、犬や猫、小鳥を売るペットショップもあるので利用者がとても多い。

ナニを隠そう。私の愛猫との出会いも実はここのペットショップ。それでシャトレと名づけたのです。ああ、なつかしい・・・

2016年10月24日

黒田アキさんと「ハムレット」

黒田アキさんの絵が語る「ハムレット」
迫力満点。シェイクスピアの名作を異なった感覚で味わえます。
2016年はシェイクスピアが生涯を閉じて400年の記念すべき年。
学生時代に4大悲劇に感激して何度も読んだし、映画も観たし、バレーやオペラも鑑賞した好きな作家。

ギャラリーでのヴェルニサージュ。
アキさんの「ハムレット」の原画がたくさんあって、心がときめきました。
そのシェイクスピア没4世紀記念のために、フランスの大手出版社ガリマールが、画家黒田アキさんに「ハムレット」に関する絵を依頼。アキさんの解釈による絵がたくさん入ったフランス語の「ハムレット」を発行するなんて、何て素晴らしいアイディア。

夏前から、アキさんからお話を聞いていたので、発売をとても楽しみにしていました。それがついに実現。

レストラン・バー、Yeeelsでサイン会とカクテル。
パリの中のニューヨークといった感じ。
アキさんの作品がここにも多数展示。
まず10月20日、 バック通り近くのギャラリーで、数点の原画展示のヴェルニサージュ。原画が想像以上に大きくてびっくり。もっとも、アキさんの作品はいつも大きい。
引き続き23日、ジョルジュサンク通りの話題のレストラン・バーYeeelsでサイン会とカクテル。
もちろん両方に行きました。

Yeeelsは壁に絵が展示してあるだけでなく、
テーブル上にもアキさんの作品が並んでいます。
アキさんの絵は自由と楽しさが漲っていて大好き。本人も冗談がお上手ですごく楽しく、それが作品に表れているのかも。限りなくコンテンポラリーで、限りない未来があるようで、見るたびに心が躍ります。
絵は高すぎてとても買えないけれど、本だったら私の予算内。仲良く記念撮影もしたし、デッサン入りのサインもいただきとっても幸せ。

こんなステキなデッサン入りサイン。
大切にします。私の宝です。

アキさんとは縁があるようで、カフェ、レストラン、バスの中などで偶然お会いすることもあるし、大使公邸のディナーやレセプションでも何度もご一緒。
アキさんのこの「ハムレット」は、文字を読まず絵を見ているだけで細胞が活性化します。他の作品も同じようにアキさんの絵を入れて欲しい。何しろ400年以上の積もり積もった埃を一掃したように快適な本なのです。

2016年10月23日

パリの犬たち 99

とっても寒いパリ
急に寒くなったから、パパがニットコートを着せてくれたの。
今日のパパの靴はブラウン。ボクのコートもブラウン。
ハーモニーは大切だね。これがパリのシックなのだ。
もっと寒くなったら、もちろん、ダウンコート。それを着るのが今から楽しみだワ~ン。

2016年10月21日

FIACが始まりました。

国際現代アートフェア、FIACが10月20日に始まり、パリはコンテンポラリーな美術作品で輝いています。
主要会場のグラン・パレだけでなく、ヴァンドーム広場、チュイルリー公園など屋外で無料で観賞出来るのが素晴らしい。

ヴァンドーム広場のインパクトある彫刻。
今日はヴァンドーム広場のスイス人アーティストの迫力ある彫刻をご紹介。
5メートルの高さの古びたオリヴの木が5本。
 「静けさの美」「沈黙の美」を表現しているそうです。

見方によっては、人が体をよじっているようにも見える、不思議なフォルム。
私は静けさより、年をとり葉がすべて落ちても生命力が残っているような力強さを感じます。足をしっかり地につけ、天に、世界に、あるいは未来に、全身で立ち向かっているような印象を受けます。

この木から朽ちない生命力をもらいたい。

2016年10月20日

メトロの駅名は語る 7

Palais Royal =Musée du Louvre
パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル (1,7号線)

17世紀のパレ・ロワイヤル。
1900年にメトロが開通した当初は「パレ・ロワイヤル」と呼ばれていましたが、ルーヴル美術館の入り口に最も近いのでミュゼ・デュ・ルーヴルが後で加えられ、現在の駅名に変更されました。けれども、今でもパレ・ロワイヤル」の名で親しまれています。

後にパレ・ロワイヤルと呼ばれる広大な館を建築させた、
ルイ13世の宰相であり枢機卿リシュリュー。
 この駅の近くに、ルイ14世が子供のころ住んでいた広大な館があったために、王宮という意味パレ・ロワイヤル」と呼ばれるようになりましたが、元は国王ルイ13世の宰相であり枢機卿リシュリューの館として1628年に建築。当時は「パレ・カルディナル」つまり、「枢機卿宮」でした。
国王に忠実な彼は、ルーヴル宮殿に暮らしていた王の近くに自分の住まいを持ちたいと思ったのです。王もリシュリューに頼りきりでした。

幼少のルイ14世(左)と、弟のオルレアン公フィリップ(右)。
1642年暮れ、リシュリューはパレ・カルディナルで生涯を閉じ、遺言に従い館はルイ13世に贈与されます。が、彼もリシュリューを追うように翌年に逝去。

亡き父を継いで王太子がルイ14世と名乗り、ルーヴル宮殿に暮らしていましたが、母の希望で「パレ・カルディナル」に居を移し、それ以降パレ・ロワイヤル」と呼ばれるようになったのです。

4歳で国王になったルイ14世は、パレ・ロワイヤルに暮らしながら、リシュリューの後継者マザランの指導のもとに立派な君主に成長していきます。
乗馬の練習をしたのはパレ・ロワイヤルの広大な庭園だったし、中央にあった大きな池で危うく溺れそうになったこともあります。

オルレアン家の紋章が刻まれた会議室。
革命前の豪華な生活が伺えます。

ヴェルサイユに宮廷を移しそこに暮らすようになったルイ14世は、館を弟オルレアン公フィリップに譲り、それ以降オルレアン家所有となりました。後のオルレアン公の時代に、庭園を囲むように建物が建てられ、レストランやカフェ、ブティックが生まれ、庭園は誰でも入れる場になったのです。

2016年10月18日

ユネスコ 「日本へのクリエイテイヴな旅」展

ユネスコ本部に設置された
オープニング・セレモニーの演説台。
ユネスコが力を入れいている「ユネスコ創造都市ネットワーク」活動の一環として「日本へのクリエイテイヴな旅」展を、パリのユネスコ本部で開催中。そのオープニング・セレモニーが10月17日に行われました。
松浦晃一朗、創造都市国際交流実行委員会会長。
食文化、文学、音楽、工芸、映画、デザイン、メディアアートの7分野で構成されている創造都市ネットワークは、現在54カ国が参加している大規模なもの。

都市の間でパートナーシップを組み、強化し、各都市が誇るそれぞれの文化の知名度と理解を深め、さらに国際的なネットワークを生かして様々な国に普及していこうというのが目的です。

右から木曽陽子さん、節子・クロソフスカ・ド・ローラさん、私。
ユネスコ本部で開催されている日本の文化に捧げるイヴェントのセレモニーは、松浦晃一郎創造都市国際交流実行委員会会長、イリナ・ボゴヴァ ユネスコ事務局長、佐藤地 ユネスコ日本大使らのご挨拶に続き、鏡開き。

カワイピアノでの海老彰子さんの力強く、同時に感動的な演奏後は、それぞれのブースに立ち寄って、参加都市ご自慢の作品観賞。日本画、生け花、漆器、芸術的な和菓子、 一級の日本酒、新鮮なお寿司・・・・

アート作品のような和菓子。
目の前で実演してくださり、しかも試食もありました。
おさえた甘味がフランス人にも大好評。
三味線や日本舞踊もあり、盛りだくさん。
日本のよき文化を再確認した実り多いひとときでした。

2016年10月17日

メトロの駅名は語る 6

Tuileries
チュイルリー (1号線)

チュイルリー宮殿と庭園。17世紀。
現在は宮殿の右端と左端のみ残っていて、
ルーヴル美術館の一部になっています。
かつて瓦(フランス語で瓦はチュイル)の製造を行っていた地が脚光を浴びるようになったのは、16世紀半ばで、摂政を務めていたカトリーヌ・ドゥ・メディシスが宮殿を建築させた時。 チュイルからチュイルリー宮殿という名が生まれ、それが後にメトロ名になったのです。
 
チュイルリー宮殿内の「平和の回廊」
ルイ14世がこの宮殿の庭園を造園家ルノートルに任せ、現在見られるようなフランス式庭園が完成。ところが国王はヴェルサイユ宮殿に宮廷を移し、1683年、放置されます。

モネが描いた「チュイリー」1876年作。
革命後ナポレオンがチュイルリー宮殿に暮らすようになり、その後、王政復古で王座に就いた国王も、第二帝政を築いたナポレオン三世もこの宮殿に宮廷を置き、華やぎが戻ってきます。

マネが描いた「チュイルリーのミュージック」1862年作。
ところがドイツを相手とする普仏戦争でナポレオン三世は大敗。1871年、パリ市民の自治体であるパリ・コミューンと政府軍が激突し、その際、チュイルリー宮殿はパリ・コミューンによって燃やされます。宮殿は姿を消しましたが、庭園は残り、公園として憩いの場になっています

2016年10月16日

木陰にミステリアスな女性が・・・

ミステリアスな女性。
なかなか魅惑的です。顔の表情もいいし、
スタイル抜群。着ている服も個性的。
お天気がいいので公園を歩いていたら、スゴーイ美人が木の横に立っているのが見えた。もう、びっくり。
近くに行ったら、彫刻というかマヌカンというか、とにかく本物の女性ではない。
「FIAC(国際現代アート展)がもうじきだから、作品のひとつかしら」
「それにしてはちょっと早い」
「第一、FIACの出品作品だったら、タイトルとか作者名が書いてあるはずよね」
友人とごちゃごちゃ言い合っていたら、彫刻だかマヌカンだか分からないそのミステリアスな女性の写真を撮る人が多いこと。
私もそのひとり。

彼女の肩に手を乗せて記念撮影する人もいるし、自分のバッグを彼女に持たせて写真をとる人もいる。前から横から、後ろからじっくり見る人、「ワーッ」と声をかけて驚かせる人・・・
反応は様々。
「もしかしたら、心理学者が人の反応の研究をするために置いたのかも」
などと思ったりで、今夜はよく眠れないかも。

2016年10月14日

パリの犬たち 98

変身の術をつかう他ないみたい。
ママン 疲れたからだっこしてぇ~




フン、ちっともワタシのお願いをきいてくれないワン。
だから、マジックを使って変身するの。ナニに変身するのかしりたい?
宝石がいっぱいついているブローチ。
そうしたらママンはしっかり胸にうけとめてくれるはず。
ウフフ、いい考えでしょ。
では、グルグルグル、ブローチにな~れ。

2016年10月13日

秋に味わう和食

秋だからモミジのモチーフの器。
日本人ならではの感性に、一瞬ほろり。
まるで日本にいるような錯覚を起こすパリの高級和食レストラン「アイダ」。
やさしい木のカウンター、木の格子のドア、目の前で腕を振るう若いシェフたち。
柔和な微笑をたたえながらの心を込めたおもてなしは、 フランスレストランでは味わえない。

デザートにもシ-ズンのセップを入れるなんて・・・
和洋の調和が感じられる味と器。
和食レストランでいつも関心するのは、季節を感じるお料理と器。
日本人のデリケートな感性が、心と体にほっとした安らぎを与えてくれます。

お互いに忙しい日々を送っていて、
やっと賢三さんとのお食事を「アイダ」で。
そういえば、フレンチの日本人シェフは多いけれど、フランス人の日本料理シェフはいまだかつて見かけたことがない。
和食は日本人でないといけないのかしら。
素材の鮮度、微妙な包丁さばき、盛り付けなど、日本人特有のデリカシーのみが可能にするのかも。

女性のシェフも見かけたことがない。
特に生魚は
「女性の手は体温が高く、鮮度を落とす」
「精神が一定していないので、味にムラがある」
などと理由があげられているようだけれど、まったく納得いかない。

色彩が豊かで、形も、器も、盛り付けも美しい和食は目で味わい、舌で味わうといわれています。いい和食レストランに行くたびに、五感が磨かれるようです。

もっと頻繁に行けたら、もっといい女になれるような気がする、たぶん、いやいや絶対に。
晴天続きの秋に、ふわふわとそんな夢を見ています。

2016年10月12日

メトロの駅名は語る 5

Concorde
コンコルド (1,8,12号線)

18世紀のルイ15世広場。
広場の名前から駅名が生まれたコンコルド駅は、3本のメトロが走りいつもにぎわっています。この広場ほど時代の変貌に伴って何度も名前が変わった例は、ほかにありません。

広場が造られたのは18世紀。国王ルイ15世を称えるのが目的でした。中央には王の騎馬像が置かれ「ルイ15世広場と命名されます。

革命が起きるとルイ15世の騎馬像は壊され、代わりに自由の女神像が置かれ、1792年から「革命広と呼ばれていました。その翌年、国王ルイ16世も王妃マリー・アントワネットもここで処刑され、生涯を閉じます。

革命後の1795年、コンコルド」と名が変更されます。古代ローマ神話のコンコルディアを語源とするコンコルドは調和という意味で、国の調和、和合を願って選ばれた名です。

「ルイ16世広場」にするための工事が行われていた時代。
革命後ナポレオンが頭角をあらわし、国の指導者になり、ついは皇帝を名乗りますが、ヨーロッパ諸国を敵とした彼は大敗し失脚し、流刑の運命を辿ります。

王政復古が起き王座に就いたルイ16世の弟ルイ18世と、末弟シャルル10世は、亡き兄をしのんで、広場にルイ16世に捧げるモニュメントを造る計画を立て「ルイ16世広場」にする工事が行われます。
ところが1830年7月に革命が起きシャルル10世は亡命し、広場の工事は中断され、再び元の名コンコルド」に戻ったのです。

広場中央にオベリスクを置く作業が行われ、
群集の興味と感嘆を搔き立てました。
シャルル10世の後王座に就いたルイ・フィリップの時代、エジプトのルクソール神殿にあった「クレオパトラの針」と呼ばれる2本のオベリスクのうち1本がフランスに寄贈され、1836年10月25日、ルイ・フィリップ国王臨席のもとに広場中央に設置。

もう1本のオベリスクもフランスが受け取ることになっていたのですが、両国の関係が悪化し実現せず、1本のままのオベリスクです。エジプトの難解な象形文字の解読に成功したのは、フランス人のエジプト学者シャンポリオン。残念ながら彼はコンコルド広場にオベリスクが建つ4年前に世を去ります。

このように複雑な歴史を歩んできたコンコルド広場。中央に立って前後左右を見ると、フランス人の優れた感性による調和ある美しい都市造りが分かります。

2016年10月11日

大使公邸で「マリー・アントワネット展」記者会見

駐仏日本大使公邸に飾られた「マリー・アントワネット展」のポスター。
2016年10月25日から2017年2月26日まで、東京の森アーツセンターギャラリーで開催されるマリー・アントワネット展。ヴェルサイユ宮殿監修とあって、かなり大きな反響を呼びそうです。

木寺昌人駐仏日本大使と、
カトリーヌ・ペガール ヴェルサイユ宮殿美術館・国有地公団会長。
このイヴェントに関する記者会見が10日、駐仏日本大使公邸で行われました。
木寺昌人駐仏日本大使、ヴェルサイユ宮殿美術館・国有地公団会長カトリーヌ・ペガール女史から、日仏の友好のためにも、文化交流を深めるためにも、この展覧会がいかに重要であるかそれぞれご挨拶がありました。

200点を超える展示作品から、マリー・アントワネットの生涯や美意識を見られるのは、ほんとうに貴重。絵画、家具、食器などだけでなく、宮殿見学では見られない王妃のバスルームやプライベートルーム、図書室が再現されるのですから、この展覧会は画期的な規模です。

「フランス以外でマリー・アントワネットに最も興味をもっているのが日本です」
と ペガール女史が語っていましたが、その通りです。

展覧会監修員のおふたり。
スクリーンに見えるのは、王妃がコレクションしていた日本の漆器。
展示作品の一部です。
おふたりの展覧会監修員の細部にわたる説明もとても興味深いものでした。特に王妃の肖像画に関する逸話がよかった。マリー・アントワネットは肖像画を描かれるときにじっとしているのが嫌で、最高で5分間。そのために顔を急いで描いたそうです。女性にとって一番大切ですから。
いかにも彼女らしく、想像するだけで楽しい。

マリー・アントワネットがいなかったら、ヴェルサイユ宮殿にあの洗練された文化は生まれなかったはず。彼女がいかに秀でた美意識の持ち主だったか、当時の空気にさえも触れられそうな展覧会。
絶対に見逃せません。

2016年10月10日

メトロの駅名は語る 4

Franklin D.Roosevelt
フランクリン D. ルーズべルト (1,9号線)

第32代アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトの名は、この駅と、そこからセーヌ川まで続いている道路名にもなっています。高級ブティックが並ぶモンテーニュ通りも、この駅からのびていて、あたり一面に気品が漂っています。

第二次世界大戦中のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト。
第二次世界大戦はフランスに大きな打撃を与えました。戦争初期にナチス・ドイツに大敗し、占領され、屈辱と搾取の日々を送っていたのです。

そのドイツ支配から祖国を解放しようと、フランス国民の間でレジスタンスが結成され、イギリス、アメリカを筆頭とする連合軍も全面的に協力。1944年6月6日、連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、パリへと進軍しながら、次々と町や村をドイツ支配から解放していきます。

ナチス・ドイツ支配から解放され、
シャンゼリゼでフランス軍を熱狂的に迎える市民たち。
功績をなしたド・ゴールを称える「ド・ゴール万歳」の文字が見えます。
パリ解放の戦いは1944年8月15日から25日まで続き、ついに念願の自由を取り戻す。アメリカの大々的な援軍なしでは、それは不可能なことでした。このときのアメリカ大統領がルーズベルトだったのです。
フランスが自由を取り戻すのに貢献をなしたアメリカ軍は、
8月29日にシャンゼリゼを行進。
その後もフランス全土の解放のために戦いが続き、終戦を迎えたのは1945年5月8日。ルーズベルトはその一ヶ月前、4月12日、生涯を閉じます。
彼の名がメトロの駅名になったのは翌年10月で、それ以前はマルブフという名でした。マルブフは17世紀を代表するバロックの詩人で、彼の名はフランクリン・D・ルーズベルト駅近くの道路名として残っています。

2016年10月8日

パリの犬たち 97

パリではとっても貴重な存在のボク。
ボクは、「アルプスの少女ハイジ」のおかげで
世界中で有名になったセントバーナード。
雪の中じゃなくて、大都会パリに暮らしているんだワン。
大きな体だから、
ボクを見ると「ワーッ、すご~い」っててみんな大騒ぎ。
横から見ても迫力あるでしょ。
心は優しく頭もいいボクは、どこでも人気者さ。

2016年10月7日

ああ、マロニエよ・・・・

秋のマロニエ。情緒がありますね。
秋のマロニエを見るたびに思い出すのは、永井荷風の「ふらんす物語」。

・・・ああ、マロニエよ、わが悲しみ、わが悩み、わが喜び。
  わが秘密を知るものは、マロニエよ、汝にのみなり。・・・

33歳の永井荷風。
永井荷風がフランスに滞在したのは28歳のときで、約10ヶ月の短い期間。
そのときの体験を綴った「ふらんす物語」はかなり感傷的。
秋に思い出すのは多分そのためでしょう。

・・・パリでは樹木一本でも野生のままにして置かない。
   枝を切る、高さをそろえる・・・

永井荷風の言葉を思い出しながらパリの自然を見るのも、ときにはいいものです。
特に秋は。

38歳の横光利一。
パリを愛した文豪に横光利一もいます。彼は名作「旅愁」に、春先のマロニエについて次のように書いています。

・・・磨かぬ石炭のように黒黒と堅そうな幹は盛り繁った若葉を垂れ、
  その葉叢の一群ごとに、やがて花になろうとする穂のうす白い蕾も頭を
  擡げようとしていた。・・・

このような繊細な心で綴った文を読むと、マロニエの木がいつもの木ではなく、芸術的に見えたり、息吹が感じられ貴重なものとなり、より一層いとおしくなります。

急に寒くなったパリ。今朝から暖房が入っているパリ。マロニエの葉が次々と落ちる季節です。 

2016年10月6日

メトロの駅名は語る 3

George V 
ジョルジュ・サンク (1号線)

イギリス国王ジョージ5世とメアリー・オブ・テック王妃。
1913年。
凱旋門に近いシャンゼリゼ大通りに面した地にあるジョルジュ・サンク駅は、イギリス国王のジョージ5世という意味。メトロが開通した1900年からしばらくの間は、アルマ駅と呼ばれていました。

1918年、シャンゼリゼを馬車で通るジョージ5世。
アルマ広場とシャンゼリゼ大通りをつなぐアルマ通りが、1918年7月14日、パリ祭に出席したジョージ5世を称えるためにジョルジュ・サンク通りに変更されました。それに伴い、1920年5月27日に近くのメトロの駅名もジョルジュ・サンク駅と改名。

ジョージ5世はフランスで大変人気があり、妃メアリー・オブ・テックと1914年にパリを公式訪問したときには、シャンゼリゼ大通りで20万人もの群集が出迎えたほどでした。

3人のイギリス国王のポートレート。
左からジョージ5世、ジョージ6世、エドワード8世。
1918年には二人の王子を伴ってパリを訪問。
プリンス・オブ・ウェールズの称号を持つ年長の王子エドワードは、父王の希望で1928年にパリに滞在し、フランスとの友好を結びます。

その王子を迎えるために建築されたのが、ジョルジュ・サンク通りに面したホテル。メトロからわずかな距離です。 プリンス・オブ・ウェールズはフランス語で「プランス・ド・ガル」。それがそのままホテル名になっています。近年にリニューアルされ好評を得ています。

エドワードは父の逝去に伴い国王になりエドワード8世を名乗りますが、アメリカ女性シンプソン夫人への愛を貫くために退位し、ウインザー公となりパリ西方のブローニュの森の館に暮らし、そこで生涯を閉じます。歴史上名高い「王冠をかけた恋」の主人公です。

ジョージ5世のふたりの孫。
少女時代のエリザベス王女と妹のマーガレット王女。
左は祖母のジョージ5世妃メアリー・オブ・テック。

兄の退位によって弟がジョージ6世となり、国王亡き後長女がエリザベス2世女王として即位します。女王はジョージ5世の孫なのです。

イギリス国王の名を冠するジョルジュ・サンク駅。その近くのホテル、プランス・ド・ガル。セーヌ川に向かってのびるジョルジュ・サンク通り。この界隈一帯がイギリスに縁が深い地域です。