コンコルド (1,8,12号線)
18世紀のルイ15世広場。 |
広場が造られたのは18世紀。国王ルイ15世を称えるのが目的でした。中央には王の騎馬像が置かれ「ルイ15世広場」と命名されます。
革命が起きるとルイ15世の騎馬像は壊され、代わりに自由の女神像が置かれ、1792年から「革命広場」と呼ばれていました。その翌年、国王ルイ16世も王妃マリー・アントワネットもここで処刑され、生涯を閉じます。
革命後の1795年、「コンコルド広場」と名が変更されます。古代ローマ神話のコンコルディアを語源とするコンコルドは調和という意味で、国の調和、和合を願って選ばれた名です。
「ルイ16世広場」にするための工事が行われていた時代。 |
王政復古が起き王座に就いたルイ16世の弟ルイ18世と、末弟シャルル10世は、亡き兄をしのんで、広場にルイ16世に捧げるモニュメントを造る計画を立て「ルイ16世広場」にする工事が行われます。
ところが1830年7月に革命が起きシャルル10世は亡命し、広場の工事は中断され、再び元の名「コンコルド広場」に戻ったのです。
広場中央にオベリスクを置く作業が行われ、 群集の興味と感嘆を搔き立てました。 | 、 |
もう1本のオベリスクもフランスが受け取ることになっていたのですが、両国の関係が悪化し実現せず、1本のままのオベリスクです。エジプトの難解な象形文字の解読に成功したのは、フランス人のエジプト学者シャンポリオン。残念ながら彼はコンコルド広場にオベリスクが建つ4年前に世を去ります。
このように複雑な歴史を歩んできたコンコルド広場。中央に立って前後左右を見ると、フランス人の優れた感性による調和ある美しい都市造りが分かります。