2015年10月10日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 7

1767年、11、12歳のマリー・アントワネット。

ハプスブルク家は幾世紀もの長い間、結婚を重要な政策とし、ヨーロッパの王家との縁組みによって国土を広げ、権力を増していました。

家訓に従い、姉たちが外国の王家に嫁いだように、末娘マリー・アントワネットにも順番がまわってきて、真剣に嫁ぎ先が考えられるようになったのが、この年齢のとき。

ルイ15世
オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、長年に及ぶ戦いで不和が続いていました。
その手っ取り早い解決方法は、両家を結婚で結びつけること。

当初は、妃を失っていた国王ルイ15世の再婚相手として、マリア・テレジアの美貌の誉れ高い5女マリア・エリザベートを、という案が出ました。ところが間もなくして、彼女が天燃痘にかかったために立ち消えになってしまう。彼女は修道院に送られ、そこで生涯を閉じます。

次にマリア・テレジアが目につけたのは、国王ルイ15世の孫で王太子のルイ・オーギュスト。
夫が亡くなってから、
生涯喪服姿だった
マリア・テレジア
未来の王の座が確約されている相手で、しかも末娘より1歳年上。年齢的にも申し分ない。

それからというものマリア・テレジアは、ルイ15世の説得に全精力を傾け、やっと正式に承諾を受け取ったのが1769年6月。
マリー・アントワネットは13歳でした。

実はフランス国王も、ハプスブルク家の皇女を妃に迎えることにかなり乗り気だった。けれども、フランスの権威を示したかったために、わざと返事を遅らせマリア・テレジアを苛立たせていたのです。

結婚式は翌年春に執り行うことも決定すると、大喜びしたマリア・テレジアは、諸外国に報告書を送り届けさせたほでした。

挙式までわずか1年しかない。マリー・アントワネットのお妃教育が本格的に始まります。