2017年4月18日

メトロの駅名は語る 37

Cité
シテ(4号線)

シテ島の唯一の駅で、入り口も一箇所のみという変った駅です。
紀元前250年ころからケルト人のパリジイ族がこの島に住んでいて、このパリジイから後年にパリという都市名が生まれすが、当時はリュテシアと呼ばれていました。

シーザー(右の赤い服)率いるローマ軍に破れ
剣を手放すケルト人ヴェルサンジェトリクス(馬上の人)
素朴でのどかな生活を送っていたパリジイ人でしたが、ローマのシーザーが大軍と共にフランスに侵略し、シテ島だけでなく各地で猛威をふるい、紀元前52年からローマ支配に入ります。
シーザーによる侵略に率先して戦ったのがケルト人部長ヴェルサンジェトリクス。彼は捕らえられローマで処刑されますが、フランス最初の英雄として歴史に名を残しています。

フランク王国初代国王クロヴィス1世とクロチルド王妃。
しばらくの間ローマ支配が続きますが、ゲルマン民族が大移動しローマ人は追い払われます。ゲルマン民族の一族であるサリー・フランクの王の息子として生まれたクロヴィス1世が、フランク王国を築き、その首府としてシテ島を選んだのが508年。 このときからシテ島は脚光を浴び、発展を続けるようになります。フランク王国は現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、さらにスイスやオーストリアなどに及ぶ破格の大きさの国でした。その首府としてシテ島が選ばれたのですから、大変名誉なことです。

15世紀のシテ島の様子。
仕事をする女性たちの後方に、
王宮と右側にサント・シャペルが見えます。
現在、司法宮(パレ・ドゥ・ジュスティス)となっている場にはローマ時代から本拠が置かれ、クロヴィス1世からはじまったメロヴィング朝の王宮もありました。それに続くカロリング朝とカペー朝の時代に王宮が拡大され、ステンドグラスが美しいサント・シャペルも建築されます。

17世紀のシテ島とノートル・ダム大聖堂。
セーヌ川の船での交易が盛んだったことがわかります。
ところが14世紀の国王シャルル5世はシテ島の王宮を離れ、マレ地区の館やルーヴルに暮らすようになり、シテ島の王宮には高等法院がおかれます。

1770年のノートル・ダム大聖堂内部。
ローマ人が支配していた時代に神殿があり、その後クロヴィス1世が祈りの場を造らせたといわれる跡に、ゴシック建築の壮麗なノートル・ダム大聖堂が建築され、さらにずっと後年にはパリ警視庁、病院などが生まれ、パリ発祥地にふさわしい中核をなしていきます。

1827年のシテ島。現在の姿に近くなってきました。
この絵のように、尖塔が一時期なかったこともあります。
船の形をしたシテ島がセーヌ川に浮かんでいるように見えるのも、偶然とはいえ不思議です。ここから町が左岸や右岸に拡大されていったのですから、シテ島はパリの起点なのです。