2020年3月10日

メトロの駅名は語る 147

Solférino
ソルフェリーノ(12号線)

イタリア北部のソルフェリーノにおける、フランス・サルデーニャ連合軍とオーストリアの激戦地の名。

ソルフェリーノでフランス軍の指揮を取る
皇帝ナポレオン3世(1808-1873)
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
(1820-1878)

フランツ・ヨーゼフ1世
(1830-1916)

1859年6月24日にソルフェリーノを舞台に繰り広げられたこの戦争は、フランス軍とサルデーニャ王国軍が力を合わせてオーストリア相手に戦い、連合軍側の勝利に終わりました。歴史に残る「ソルフェリーノの戦い」は、サルデーニャ王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が、イタリア統一をもくろんで始めた戦いの激戦地で、当時ソルフェリーノがある北イタリアのロンバルディ地方はオーストリア支配下にありました。フランス皇帝ナポレオン3世はサルデーニャ王国を支援し軍隊を送り、自らも参戦し、着々とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いる軍を追い詰め、敗北させたのです。

ジャン=アンリ・デュナン(1828-1910)

この戦いの最中にソルフェリーノに行き、おびただしい人数の兵士たちの悲惨な光景を目にしたのがジャン=アンリ・デュナン。政治家で実業家の父と慈善事業に情熱を捧げている母の間にスイスで生まれたデュナンは、当初銀行に勤めていましたが、ロンドンで創設されたキリスト教青年会(YMCA)に関心を抱き、ジュネーヴにYMCAを設立。それから3年後、1855年、パリにYMCA世界同盟を築きました。その後フランス支配下にあったアルジェリア発展のために尽くしますが、資金的困難に陥り、皇帝ナポレオン3世に直接会って援助を頼もうとソルフェリーノに向かったのです。

そこでデュナンが目にしたのは放置されたままの無数の遺体と、たいした治療も受けられずに苦しみに必死に耐えている負傷兵たちでした。その総数約4万人。大きな衝撃を浮けたデュナンは、近くの村の教会を急遽病院にし、住民たちに呼びかけ負傷兵の看護にあたらせる一方、様々な町から医者を呼び寄せ敵味方の区別することなく治療をほどこさせます。その費用はすべてデュナンが負担したのでした。

デュナンが目の前にした戦地ソルフェリーノの悲惨な兵士たち。

「ソルフェリーノの思い出」の最初のページ。

それから3年後デュナンは「ソルフェリーノの思い出」を書き、戦争の非情さ悲惨さを伝えます。それだけで終わらず1863年には、戦争の犠牲者たちを支援する組織を友人たちと設け、それが後年に赤十字となったのです。負傷兵たちの治療のために資産の全てを費やし財を失ったデュナンは、借金を重ね、返済に追われ、貧困生活を強いられ、病に陥り赤十字の仕事から身を引き、ひっそり暮らすようになります。

晩年のデュナン。

その間にデュナンは執筆も手掛け、それが掲載されたり彼に関する記事が書かれたりすると、改めて偉業が語られるようになり、1901年、初のノーベル平和賞を受賞する栄誉に授かります。後年に「赤十字の父」と呼ばれるようになったデュナンの人生は、「ソルフェリーノの戦い」で大きく変わったのでした。彼のバースデーの5月8日は第二次世界大戦後「世界赤十字デー」となり、世界各地で様々なイヴェントが行われます。