2015年12月21日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 39

バスティーユ監獄襲撃

1789年7月14日。
政治犯を投獄していたバスティーユ監獄が、襲撃されました。バスティーユ監獄は旧体制の象徴だと考えられていて、新時代を築こうとする革命家たちが中心になり襲ったのです。国政に不満を抱く群集も加わり、バスティーユへ向う人数は膨れ上がっていました。

群集はまず廃兵院に向かいます。そこに武器が多数あることを知っていたからです。その武器を手にしながらバスティーユへと急ぎ、監獄守備隊との激しい衝撃後、中に入り込むことに成功し、捕らえられていた7人の囚人を解放。
監獄所長は殺され、パリ市長も同じ運命を辿り、革命が起きたことがヴェルサイユ宮殿の国王に告げられました。

1789年5月5日に
ヴェルサイユで開催された三部会
その2ヶ月前、国王は175年ぶりに三部会を開き、国が抱えている諸問題の解決に取り組みます。
けれども不公平な議決方法は、第三身分と屈辱的に呼ばれる平民代表の議員たちの反感をかい、混乱を招く一方でした。

そうしている間に、国王に反感を抱いているオルレアン公の援助を得て、革命家を中心とした群集による、バスティーユ襲撃が起こったのです。

パリの東を守る砦として14世紀に
建築されたバスティーユ要塞。
ルイ16世は急遽、国民議会へと向かい譲歩を示します。
マリー・アントワネットとその取り巻きが、倹約を進言するネッケル財務長官辞任を迫り、国王の命令で罷免し、それが民衆の怒りをかっていたことを知っていたために、彼の復職を約束します。
国王はパリに行って、人民の味方であることも明らかにします。

それを知った国王の末弟アルトワ伯は、王政の危機をいち早く察し、直ちに国外逃亡を計ったのでした。
この日から革命は、刻々と危険性を増していきます。