2023年11月27日

キラメキがいっぱい、近づくクリスマス

 今年は例年よりクリスマス装飾が早めに行われているパリ。特に目立つのがキラキラ輝くゴールド。今回はクリスマス装飾第1段。

ゴールドがまぶしいほど。心が浮き立つばかり。

白いキリンさんと象さん。
子供製品のブティックはメルヘンの世界。

黄金色の蝶があちらこちらで幸せを振りまいています。

小さい広場もゴールドの球で華やかに。
記念撮影が出来る配慮に心があたたまります。

すごいインパクトに圧倒されます。

こうした中で、
カラフルなディスプレイも視線をとらえます。

2023年11月22日

源氏物語とフランス人

ギメ東洋美術館で開催中の展覧会「源氏の宮廷で」が素晴らしい。そこには日本の平安時代の雅な世界が漂っています。

会場は二つにわかれていて、まず、「源氏物語」が生まれた平安時代に訪問者を導きます。何と麗しい時代だったことよ!! このような高雅な宮廷文化が栄えた時代に身を置くことが、パリで出来るなんて、無条件に大感激。「枕草子」「古今和歌集」そして、何よりも「源氏物語」といった優れた日本文学が生まれた、約400年ほど続いた平安時代の麗しい雰囲気に浸れるのは、この上ない幸せ。

展覧会会場に入ると、そこは、すでに、平安時代。
典雅な世界が広がっています。

紫式部の肖像画。高位の宮廷人だったことがお召し物から伝わってきます。


18世紀末に再現された駕籠。
内部にもきめ細やかな装飾があり、
そこに身を置く宮廷人の優美な姿が浮かび上がります。

マリー・アントワネットが18世紀の日本の漆器を多数コレクションしていて、その中に「源氏物語」を描いた漆器もあり、今回その内の数点が展示されています。もちろん当時は紫式部が書いた宮廷物語はフランスでは知られていなかったから、王妃は単にそこに描かれている絵と器のフォルムに惹かれたのでしょうが、さすが優れた審美眼の持ち主のマリー・アントワネット。この作品は他の漆器と一緒に、革命初期に機転をきかせた王妃が専門家に保管を依頼したお蔭で、無事だったのです。

「源氏物語」をテーマにした18世紀の日本のすずり箱。

珍しい6角形の小箱。これも「源氏物語」がテーマ。
二つともマリー・アントワネットのコレクションで、
王妃はヴェルサイユ宮殿の私室「黄金の間」に日本の漆器を飾っていました。
革命の際に難を逃れたのは幸いです。

その奥の会場には、西陣織物制作の第一人である山口伊太郎(1901-2007)による「源氏物語」の織物絵巻に捧げられている。氏は70歳から亡くなる105歳までに、4巻の絵巻物語を手がけ、そのすべてをギメ東洋美術館に寄贈。全長30メートルの大作が一挙に展示されるのは今回が初めて。シルク、金銀のプラスティック糸、金銀の紙などを、フランスのジャガード織物機を導入して制作。

「源氏物語」の織物絵巻。山口伊太郎による4巻の大作。

全長30メートルにも及ぶ絵巻を一挙に公開するのは初めて。

これが織物だと、とても信じられないほど精密。

フランス人が平安時代の古典「源氏物語」に触れたのは19世紀末で、それは批評文に過ぎなかった。1910年には法律家で日本学者のミシェル・ルヴォン(1867-1947)が抄訳を発表し、これが「源氏物語」のフランス語初の訳とされている。

1988年になるとフランス国立東洋言語文化研究所長のルネ・シフェール(1923-2004)が「源氏物語」を完訳。彼はそれ以前に「万葉集」の翻訳を手掛けた日本古典文学の巨匠。

2007年にシフェールの翻訳の豪華本が出版され、即、購入しました。何が素晴らしいかと言うと、シフェールによる「源氏物語」54帖の全訳と、日本の寺院や世界各国の美術館が所蔵する520点の源氏絵を集めた、いわば源氏物語絵巻本なのです。しかもオールカラー。分厚い3巻は美しい箱に収められ、それを見るだけで宮廷文化の芳しい香りに浸れるほど。初版3500部はあっという間に完売。その貴重な一冊が我が家の本棚で輝いています。こうしたことからも、フランス人がいかに古典文学「源氏物語」に大きな関心を抱いているかわかります。

ルネ・シフェールが手掛けた「源氏物語」
約500ユーロ、でも迷わず購入しました。
520枚もの源氏絵は何度見ても感動します。

我が家のシンプルな本箱で、ひときわの輝きを放っています。

ギメ東洋美術館で味わえる典雅華麗な「源氏物語」の世界。忘れがたい展覧会です。

日本が大好きなフランス人と、ヴェルニサージュの日に。

2023年11月21日

ナポレオンの帽子、3億円超える高値

 ナポレオンと切っても切れない二角帽が、3億円を超える前代未聞の高い値で落札され話題になっています。三色の記章が帽子についていることから、皇帝時代にナポレオンが使用していたとされている。

3億円を超える高値で落札されたナポレオンの二角帽。

ナポレオンは自分のイメージ作りを異常なほど気にかけていて、その結果、黒いフェルトの二角帽、グレーのマント―、白馬で象徴されるようになったのです。

二角帽、グレーのマント―、白馬。
この3つがナポレオンの象徴。

軍事学校で流行の二角帽をかぶっていた生徒たち。

二角帽はナポレオンが発明したのではなく、17世紀ころから乗馬の際に頭と耳を守るために作られた帽子で、18世紀になると大きな流行となります。そこに、革命期に生まれた青白赤の国旗と同じ色の記章を加えたのはナポレオン本人で、革命の混乱の中から頭角を現した人にふさわしい。この帽子を120個も作らせたナポレオンは、流刑地セントヘレナでも被っていたとは、ちょっと物悲しい。栄光の日々をその帽子を通して懐かしんでいたのかもしれない。

セントヘレナ島のナポレオン。

2023年11月17日

文化省でのセレモニー

パリの真っ只中のパレロワイヤルにある文化省は、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿が1628年から建築させた旧邸宅の一角にあります。とはいえ、館の大部分は起伏に富んだ歴史と共に数回変貌を遂げ、火災にもあい、今ではわずか一部分が残っているのみ。それは、ビュラン作の黒白の円柱が並んでいる広場前で、ギャラリー・デ・プルーと呼ばれる回廊。その壁には船首のリリーフがあります。リシュリューは航海貿易監督官でもあったその名残り。その階上が文化省です。

リシュリューの豪奢な館だった時代の唯一の名残りの、
船主のリリーフがいくつか並んでいます。

文化省を設立したのは第二次世界大戦の英雄で、後に大統領に選出されたシャルル・ド・ゴール。16世紀のルネッサンスの時代から、国王が率先して芸術文化を保護していたフランス。革命でそれが消え、愛国心の固まりのド・ゴールは、文化国家フランスの復活を直ちに行ったのです。大統領に就任したのは1959年1月8日で、文化省設立は一ヵ月後の2月3日だったことから、いかにド・ゴールが熱意を抱いていたか分かります。

今回招待されたセレモニーレ会場は、数多い文化省の部屋の中でもっとも華やぎがあるサロンで、かつてはオルレアン公、後のルイ・フィリップ国王の妃マリー・アメリ―が使用していた部屋。ゴージャスなシャンデリア、いくつもの背の高い鏡、彫刻が施された暖炉、バルコニーから一望できるパレロワイヤルの庭園・・・これが官庁関係の建物と実感が湧かないほど絢爛豪華。しかも上等なシャンパン、ワインがふるまわれ、芸術的なフィンガーフードまである。


セレモニー開始の挨拶が短くてスマート。

ビュッフェタイムになると賑わいが一挙に湧き上がります。

私もフランス人の友人と久々の会話を楽しみました。


フランスの大人ならではの知性とエレガンスがほとばしっていて、
思わず見とれてしまう。

文化省のセレモニーに招待されたのは4回目。今回はルーヴル美術館のある研究員の業績を称えるセレモニーでした。

2023年11月9日

オペラ座、ファサードの洞窟完成

工事中のオペラ座のファサードを隠すように、トリックアートの旗手JR(ジェイアール)が、第一幕として9月に手掛けたのは、工事中の洞窟でした。(9月9日のブログで紹介)

11月上旬には第二幕として、完成した洞窟が登場。オペラ座の建物は完全に姿を消し、洞窟がファサード全体を支配していて、すごいインパクト。

トリックアートで注目を浴びるオペラ座。

洞窟の壁のほとんどは人の手の跡でおおわれていて、夜空の星のよう。このファサードを目前にしていると、現実からかけ離れた見知らぬ世界を彷徨っているように感じる。周囲のすべての建造物が、存在感を失っているようにさえ思える。

近づくと洞窟の中に吸い込まれそうなほど迫力がある。
さらに近づくと洞窟の外の壁にも中の壁にも
人の手の跡が無数に描かれていて、まるで星のよう。

トリックアートの後ろは、ご覧の通り工事中。

イルミネーションの中でも、自己主張し続けるファサード。

芸術を重んじる素晴らしいパリの一コマ。やはり離れがたい街。

2023年11月8日

マリー・アントワネット自叙伝 12

退屈な毎日

フランスで最初に描かれた肖像画。
宮廷画家ジョゼフ=シフレッド・デュプレシの作品で、
アメリカドル紙幣のベンジャミン・フランクリンの肖像画も手掛けた画家。

 祭典に明け暮れしていた日々があっという間に終わり、本格的に皇太子妃の生活が始まりました。オーストリアでは家族愛にあふれるお母さまのお蔭で、暖かい雰囲気に包まれ自由な日々を送っていたのに、嫁ぎ先のフランス宮廷の規則のうるさいこと。想像以上でした。

私はたった14歳。それなのに、オーストリア人の女官はひとりもいないで、フランス人だけ。しかも、皆、私よりはるかに年上。話も趣味も合うわけがないのです。


特に私の女官長に選ばれたノアイユ伯爵夫人は、26歳も年上で、長年ルイ15世のお妃マー・レクザンスカさまの女官を務めていらした高位の貴族夫人。そうした女官長が、外国からお嫁入りした若く未熟な私に、フランス宮廷のしきたりを一刻も早く教えようと、朝から晩まであれこれあれこれうるさいのです。

あまりにも礼儀礼儀とやかましいノアイユ伯爵夫人を、「マダム・エティケット」と名付けたほどでした。我ながら、いいあだ名を考えついたものです。


着るものにも口を出し、体をしめつけるコルセット着用を義務づけるのです。

「これは、フランスの古くからの伝統なのですからお守り下さい」

ですって。

流行遅れの古めかしい服にも不満があったけれど、一応それは我慢し、コルセットは何回か言い争って最終的に私の勝ち。やっといくらか体の解放感を味わえました。このような女官長がずっと傍にいたら、窒息してしまう。王妃になったらすぐに、ノアイユ伯爵夫人を辞めさせようと心で強く誓っていました。


女官長ノアイユ伯爵夫人。
26歳も年上の古い頭の持ち主。


窮屈でちっとも面白くない皇太子妃の一日は、朝9時か10時の起床に始まります。着替えをし、朝のお祈りを捧げ、朝食をいただきます。といってもココアかコーヒーと、クロワッサンに似たパンだけ。


オーストリアでは毎朝このパンをいただいていました。それは17世紀のウィーンで作られたパンで、トルコとの戦いに勝利を得て、その記念にトルコ国旗の三日月形をヒントにしたと言い伝えられています。「小さい角」という意味のパンが起源だとも言われています。


どちらにしても、クロワッサンは私がお嫁入りのときにフランスに持ってきて、それがずっと現代まで続いているのですから、フランス食文化に貢献しているのです。それなのに、そのことはあまり知られていないし、感謝されていないのは不満です。


シンプルな朝食の後、国王の王女さまたちのお部屋に行ってご挨拶し、その後、王家の人々と揃って礼拝堂に行きミサを受けます。


昼食は皇太子さまとふたりでいただいていました。いつまでたっても私に興味を示さない夫との会話もほとんどなく、退屈で仕方ないひとときでした。2人の間に会話がなかっただけでなく、皇太子さまは妻の顔をまともに見ることもなかたったのです。たまに目が合うと、緊張しているのか、まばたきばかり。彼は極度の近視なので、私の顔がよく見えなかったのかもしれません。


午後のひとときを叔母さまたちと過ごした後は、クラヴサンや歌のレッスンです。音楽はシェーンブルン城で腕を磨いていたので得意です。ですからこのレッスンは楽しくて仕方ありませんでした。


お夕食まではお散歩やゲームの時間です。国王一家とのお食事と団欒を終えて、ベッドに入るのは結構遅く夜11時ころでした。そのために朝起きるのが遅いのです。こうした変化がない日々が続いていたのです。


お母さまは私の行動を些細なことも含めて全部知ってました。私がお手紙で知らせることもありましたが、それ以上に、お母さまから頼まれて、私の監視役として滞在していた駐仏オーストリア大使メルシー伯爵が、事細かに報告していたのです。


お父さまの故郷、ロレーヌ地方の貴族の家に生まれたメルシー伯爵は、トリノやサンクトペテルブルクの大使を務め、私がお嫁入りする4年ほど前から駐仏大使の職にあった人で、お母さまに徹底的に忠実でした。フランス皇太子さまと私の結婚をまとめるために、ひと役かったのはメルシー伯爵でした。ですから結婚後、私の行動のすべてに目を光らせていたのも、今考えると無理もないことです。両国に対して責任があるのですから。


駐仏オーストリア大使のメルシー伯爵。

このようにノアイユ伯爵夫人とメルシー伯爵に一部始終監視され、注意ばかり受けている新婚時代は、バラ色からほど遠いものでした。

2023年11月3日

少女マンガの主人公みたいに

 1974年に創業した原宿のロリータ・ファッションのブティックが、パリでも大変な人気。当初はプリティという名で、その後変わってアンジェリックプリティになり、その特有なコンセプトがパリジェンヌたちをまたたく間に魅了。

最初はパリでの反応を見るために、若者たち好みのバスティーユ界隈のケレール通りで、小規模ながら作品を販売したところ、思いもよらないほどの評価。2016年4月1日にはチュイルリー公園に近いパリの真っ只中にブティックをオープン。マンガの主人公のような、かわいい少女っぽいファッションに憧れるヤングジェネレーションのマストな店舗になり、今年10月にリニューアルし、さらなる人気を呼んでいます。

ロリータ・ファッションのブティック「アンジェリックプリティ」
楽しさと幸せがはちきれそう。

18世紀の建造物が多いこの界隈で、ひときわの輝きを放っています。
これでは通りがかりの人が写真を撮らないわけがない。

レースやリボンでゴテゴテ飾られたドレスは、どれもフレアが多くフワフワしていて、プリンセスになった気分になれる

こうしたファッションでどこに行けばいい? などと心配することはない。アンジェリックプリティはニューコレクション発表とティパーティーを兼ねたイヴェントも、しっかり企画しているのです。

ホテル・ル・ムーリスの「サロン・ポンパドゥール」で開催したこともあるし、ホテル・ル・シャングリアで派手なパーティーを行ったこともある。それに出席する人は、当然、全員アンジェリックプリティの装い。

誰もがお人形さんのようにかわいい。

全身を飾るのは、
もちろんアンジェリックプリティのアイテム。
とれも結構なお値段なのに、皆さんリッチなんですね。

フランスは日本の次にマンガが好きな国。と言うことは、日本生まれのファッションが受け入れられる要素があるのかも。そう言えばポップの大集合、ジャパンエキスポへの情熱も半端ではない。一度は見た方がいいと思い出かけた所、会場に向かう郊外線の中に、すでにコスプレイヤーがいて異様な雰囲気だったし、会場はそうした突飛な服装の若者が大部分。公共の乗り物では普通の恰好をしていて、会場に着くや否や持参した大きなバッグを開き、コスプレ用の服に着がえる人もいる。しかも、多くの人がいるホールで。

その時は気が付かなかったけれど、アンジェリックプリティのドレス姿の女の子たちも、その中にいたのかも。ヨーロッパ唯一のパリのブティックには、イギリスやドイツ、オランダなどからもファンが訪れるそうで、人気がさらに過熱しそう。

シャッターもピンクという凝りよう。
以前は色の厳しい規制があったのに、
パリも変わったものです。

2023年11月1日

マリー・アントワネット自叙伝 11

 何日も続いた結婚祝いの祭典

 

儀式続きでうんざりした翌日は、ちょっと休息できましたが、皇太子さまは大好きな狩猟にさっさとお出でかけ。新婦の私より猟の方が大切なのかしら、と一瞬思いました。でも、それはその日に限ったことではなく、その後もずっと私に無関心。

私に興味のかけらも示さないのは、私に魅力がないからでは、と悩んだ日もありました。国王も貴族も国民も、誰もかれもが私のことをチャーミングだとほめてくださるのに、皇太子さまの趣味は違うのかしら。幸いなことに、連日祭典があったので寂しさは感じませんでしたが。


フランス人は人生を楽しく生きることに長けていると聞いていましたが、それが本当だとよくわかりました。アイディアいっぱいの祭典ばかりで、どれもこれも楽しく、お父さまに似て祭典好きな私は、毎日生き甲斐を感じていました。


結婚のお祝いの最後は、パリでの花火でした。それを見るために、5月30日にルイ15世の王女さまたちと6頭立ての大型馬車でパリへと向かいました。夜8時ころでした。国王も皇太子さまも、興味がなかったようで宮殿に残っていらっしゃいました。


パリ市が結婚祝いとして企画した花火は、ルイ15世広場(現在のコンコルド広場)で行われました。広場の中央に立つ立派なルイ15世の騎馬像の横に、この日のためにコリント様式の神殿を造ってありました。


中央にルイ15世の立派な騎馬像がある「ルイ15世広場」
その向こうに左右対称の建造物がある、均整がとれた広場。

そこで花火を打ち上げる計画だったのです。数か所にビュッフェがありワインも無料でふるまわれ、大勢の人が集まり身動きできないほどだったようです。報告によると30万人もの群衆だったとのこと。

ヴェルサイユ宮殿を離れ、パリの西にあるセーヴル橋に差し掛かったころ、大きな音が聞こえました。花火があがったのでしょう。馬車が進むに連れて音が大きくなり、期待で胸が高まってきた私たちは、一刻も早く広場に到着したいと御者に急がせました。


「ルイ15世広場」の中央には、この日のために神殿まで造り、
花火が華々しく上げられました。


パリ市内に入り、セーヌ川に近づいて、もうじき広場に着くかと喜びが大きくなったとき、馬車が急に止まったのです。それだけでなく、人々が顔色を変えながら必死に走っているのです。広場に向かうのでなく、反対方向に。

何事が起きたのかと不安になって顔を見つめ合っている私たちに、衛兵が「直ちに宮殿に戻ります」

と、鋭い声で早口に言いました。

花火をあげている間に火事が起きたのです。すき間もないほど詰めかけていた群衆たちは、ますます激しくなる炎に気が動転して、パニック状態におちいり、火消しの車は逃げ迷う人々にさえぎられて、広場の中央に近づけず、火は広がる一方だったそうです。

無事に宮殿に戻った私は恐怖で震え、132人もの犠牲者が出たと知った時には、涙があふれるのをどうしようもできませんでした。


私たちの結婚祝いの最後は、このような大悲劇で終わったのでした。