2016年2月29日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 62

王子と母の別れの日がついにきました。
ルイ16世の処刑後、王が息子と住んでいた3階は閉ざされ、王子は4階で母、姉、叔母に囲まれて暮すようになりました。
父不在の悲しみを、女性たちのやさしいぬくもりで慰めていた王子の不幸は、突然、訪れます。
王子を連れて行く
命令文を読み上げる役人たち。

王処刑から約半年後の7月1日でした。
ルイ17世が家族から離される決定がなされたのです。彼は共和国にふさわしい、ひとりの少年として育てられるべきだ、王子の身分などすでにないと判断されたからです。

7月3日夜。ドアを激しく叩く音がし、6人の役人が足音高く部屋に入ってきました。
いったい何事かと、立ちすくんでいたマリー・アントワネットに向って、役人のひとりが荒々しい声で伝えます。
「カペーの子はひとりで暮すことになった。それは国民公会の決定なのだ」
 
マリー・アントワネットはそれに抵抗するかのように、鋭い叫び声をあげます。
それまでベッドでぐっすり眠っていた王子は、そのただ事でない声で目覚め、ベッドから飛び降り、異様な様子におののき、母の体にすがりつきます。

明るく愛らしいルイ・シャルルでした。
ルイ・シャルルの華奢な体をしっかりと胸に抱いた王妃は、息子を渡すわけにはいかないと叫びます。
毅然とした態度を守りながら、彼女は再び繰り返します。絶対に、絶対に息子を渡しません。

約1時間ほどやりとりが続きますが、国民公会の決定であるからには、目の前にいる役人たちの力ではどうしようもない。
彼らは、単に、決定を告げ、ルイ・シャルルを連れて行く命令に従っているだけなのだ。

それが分かると、マリー・アントワネットは息子の着替えを手伝い、言葉をやさしくかけました。
それが永遠の別れになるとは、その時、誰も思っていませんでした。

2016年2月27日

パリの犬たち 67

黒と白、だからいつも反対向き。
「いつ、どこでも反対なのは
ボクたちの運命なのだワン
「そうなのだ。だってボクたち
白と黒だからだワン、ワン、ワ~ン」

2016年2月25日

ヴァンドーム広場の円柱


長い長い修復工事でした。
それがすべて終わり、昨日から以前の姿を見せているヴァンドーム広場の円柱。

ルイ14世の時代の古典主義のファサードを、いまだに保っているこの広場は、ブルボン王朝時代の栄華を伝えると同時に、中央に聳え立つ、ナポレオンの輝かしい戦勝を刻みこんだ円柱によって、第一帝政時代の威勢を見せています。

ルイ14世とナポレオン。
フランスの歴史に華々しい足跡を残し、世界に偉大さを見せたふたりの君主とふたつ異なる時代。
それが共存しているヴァンドーム広場。
稀有な存在です。

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 61

未亡人となった王妃は、
急激に老けていきました。
ルイ16世が処刑されると、王妃と子供たちを救出しようという動きが王党派の間で強まります。
タンプル塔の4階。
右下が王妃の部屋。
そのひとりはバッツ男爵。
処刑場に向うルイ16世を救おうと、沿道で群集に発起を呼びかけ、失敗したにもかかわらず、バッツ男爵はまたもや救出計画を立てたのでした。

彼はタンプル塔の監視長ミッショニーに目をつけます。様々な人から得た情報で、彼は買収しやすい人物だと思ったからです。

バッツ男爵から多額の金を受け取ったミッショニーは、王妃たちの脱出を手伝う提案を承諾します。
男爵が塔に入れるようにするために、監視人の制服を渡したのも、王妃たちが脱出の際に身につける、国民軍のマントーと帽子を準備したのも彼でした。

その後ミッショニーは、バッツ男爵から受け取った金を複数の監視人に握らせ、味方を増やします。
脱出は、6月21日夜中から22日朝にかけて行なうことも決まりました。

王妃は一日として
祈りを欠かしたことはありませんでした。
ところが、土壇場で計画は断念せざるを得なくなります。ミッショニーが王妃たちを脱出させようとしているという密告のメモを、熱心な共和党員の元靴屋シモンが、受け取ったのです。
このような通報は年中あって、特別驚くべきことではなかった。けれども、万が一を考え、シモンはタンプル塔に出向いたのです。

シモンの姿を見たミッショニーとバッツ男爵は、計画が発覚されたと解釈し、怪しまれないように、こっそりとその場を去るのがやっとでした。王妃たちの脱出はあっけなく失敗に終わります。

この他、王妃に傾倒しているジャルジェイも、王妃脱出計画を立てますが、彼の場合は王妃のみの救出だったので、子煩悩なマリー・アントワネットは頭からそれを断ります。

救出計画はどれも実現しないまま、タンプル塔での日々は流れていきます。

2016年2月24日

パリの犬たち 66

ジュエリー、ジュエリー。
多分、こうなると思っていたワ~ン。
だって、ここにはジュエリーのお店がずらっと並んでいるの。
それをワタシのママンは全部見るのよ。
寒いから、早くお家に帰りたいというワタシの心を無視して。
プンプン。

2016年2月23日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 60

喪服を着るタンプル塔のマリー・アントワネット。
ルイ16世が1793年1月21日に処刑されると、それ以降、マリー・アントワネットは生涯、喪服に身を包みます。喪服は彼女が国民公会に頼んで手にしたものでした。

14歳で嫁ぎ、心の底から愛したことはなかったとはいえ、4人の子供の父親であり、真面目で善良な夫をだった人を失った悲しみは大きかった。
お聞き入りの女流画家が
亡命した後、王家のお抱え画家になった
クシャルスキーによる、
タンプル塔の王妃。

慰みは、夫の妹とふたりの子供だけになりました。幸いなことに、4人揃って暮すことが許されていました。

国王が処刑されたことを王妃が知ったのは、塔の外で騒ぐ人々の声を耳にしたからでした。
彼らは「共和国バンザイ!」「共和国バンザイ!」と高らかに叫んでいたのです。
それを耳にしたマリー・アントワネットは、息子の前にひざまずき、心の中で言ったことでしょう。
「新国王バンザイ」

国王である夫が亡くなり、その跡継ぎである息子ルイ・シャルルは、このようにして捕われていたタンプル塔で、非公式に、フランス国王ルイ17世になったのです。マリー・アントワネットはいつの日にか、彼が正式に戴冠式を行なうことを夢見ていたかも知れません。
王子はこれ以降、亡命貴族の間でルイ17世と呼ばれるようになります。

王政が廃止され、国王が処刑され、共和国になり、これで国民の希望が叶ったかのように思えたのですが、革命は坂を転がるように悪化します。

王亡き後、暗い塔の中での日々はますます暗くなりました。

2016年2月22日

ネコの日


ネコの日のお祝いにかけつけた
愛猫シャトレ。
日本にはユニークな日があるのですね。
2月22日がネコの日だそう。
なので、我が愛猫のシャトレが久しぶりに再登場ニャのだ。

フランスはペット天国で、ネコだけでなく犬もアパルトマンで同居できるのです。人間と同じように感情があると解釈されているから、人間扱いなのです。

2度目のエジプト旅行で買った
ネコの像。
小さいころからネコを飼っていた私は、大のネコ派。両手をそろえて座っている姿を見るたびに、何て気品があるのだろう、と思います。
じっとしている姿を見ると、本当に何か考えているよう。
まるで哲学者みたい。それを私は飽きることなく見ながら成長したのです。

エジプトではネコは神聖な生き物とされていたそうだけど、
よくわかります。
そういえば、ロンドンの大英博物館にネコのミイラもあった。
人がネコを飼うようになったのも、エジプトが最初だったとか。エジプトのモニュメントにネコが描かれていることからも、重視されていたことがわかります。

このように、ネコが人のパートナーになった歴史は長いニャー。

100年前の2月21日、ヴェルダンで。

第一次世界大戦最大の激戦地、ヴェルダン。
フランス軍の指揮を取った英雄
ペタン将軍、後の元帥。
第一次世界大戦最大の激戦「ヴェルダンの戦い」が始まったのは1916年2月21日。今年はその100年目です。
12月19日まで続いたフランスードイツ間のこの戦いは、70万人もの死傷者を出した、第一次世界大戦最大規模の会戦でした。

フランスの勝利に終わったこの戦いの指揮を取ったフィリップ・ペタン将軍は、英雄と崇められ、元帥の称号を獲得。
ところが、第二次世界大戦ではドイツに屈服し、ドイツのフランス支配協力者となり、国を裏切ったと死刑の判決を受けます。

けれども「ヴェルダンの戦い」での業績があまりにも偉大だったために、大西洋のユー島に流刑され、そこで生涯を閉じます。それは第二次世界大戦の英雄ド・ゴールによる配慮でした。彼は「ヴェルダンの戦い」の際、ペタンの部下だったのです。ペタンはド・ゴールの軍人としての有能性を、誰よりも高くかい、公に賞賛していたほどでした。

昭和天皇が皇太子裕仁親王だった1921年にフランスを訪問なさり、ペタン元帥にお会いになり、ヴェルダンにも行かれました。

いろいろな意味で重要な「ヴェルダンの戦い」。
この激戦が始まった100年記念の2016年2月21日、テレビは特別番組を報道し、フランスは重要な歴史を再認識しました。

2016年2月20日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 59

国王救出を試みた
バッツ男爵

タンプル塔から革命広場(現在のコンコルド広場)に向う間、ルイ16世は途切れることなく、臨終の詩篇を唱え続けていました。その隣りには、フェルモン神父が神妙な面持ちで座っていました。

ガタガタと音を立てながら進んでいた王の馬車が、現在のメトロの駅、ボンヌ・ヌーヴェル近くにさしかかったとき、
「国王を救おう!」
大きな声が群集の間から上がりました。

破格の資本家であり、王の相談役だったジャン・ピエール・バッツ男爵でした。
剣を振りかざしながら叫び続けるバッツ男爵は、群集が大挙して自分に続いてくることを願っていたのです。彼は王を土壇場で救い、しばらくの間フランスでかくまい、その後国外亡命を企てていたのです。

けれども、彼の声はかき消され、危険を感じたバッツ男爵は群集に紛れ込んでその場を離れ、ロンドンに向かいます。
1793年1月21日、10時22分、
38歳の生涯を閉じたルイ16世。

何事もなかったかのように馬車は進み、広場に着いたのは、10時を少しまわったころでした。
馬車を降り、上着を自ら脱ぎ、神父の足元にひざまずき最後の祈りを捧げたルイ16世は、しっかりした足取りで処刑台の階段をのぼります。

処刑直前に彼が国民に向けて語った言葉は、途中から刑実行を告げる太鼓の音にかき消され、王の最後の言葉を聞いた人は誰もいませんでした。

2016年2月19日

冬もきれいなパリの風景



「葉の落ちた木々も彫刻のように美しい」
と書いたのは、アメリカの文豪ヘミングウェイでした。

パリに暮していた当初はお金がなかったけれど、パリはヘミングウェイに多くの心の糧を与えていたことが伝わってきます。

葉を落とした木が並んでいるのを見るたびに、ヘミングウェイのこの言葉を思い出します。

2016年2月17日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 58

慈悲深い国王と呼ばれていた
ルイ16世。
1月21日、処刑の日、国王は朝5時頃に目覚めます。よく眠ったようで、いつもと同じように爽やかな顔で侍従クレリーに声をかけます。

2番目の王子ルイ・シャルルが生まれたときから、クレリーは王子の侍従として仕えていました。
1789年に革命が起き、暴徒たちがヴェルサイユ宮殿におしかけ、国王一家がパリのチュイルリー宮殿に住むようになると、あくまでも忠実なクレリーは、一家を追って移住し、侍従の役目を続けます。彼が身近にいることは、国王一家にとっても心強いことでした。

その後事態が悪化し、王一家がタンプル塔に幽閉されると、そこでも王にお仕えしたいと願い出て、許可をもらい王のお世話をしていました。
最期の日まで
王に使えていた侍従クレリー。
彼の妻マリー・エリザベットは王妃の音楽のお相手をしていた人で、彼女も王妃のお役に立ちたいと、タンプル塔近くに住み、王妃が散歩するときには、音楽を奏でて慰めていた思いやりのある夫妻でした。それも最初の内だけで、直ぐに禁止されてしまいます。

王家に忠実だったクレリーは、国王処刑後、監獄に入れられ、革命が終わるまで釈放されませんでした。
後年、ナポレオンが妃ジョゼフィーヌの侍従の地位を勧めます。が、それを断り、ただひとり助かったマリー・テレーズ王女を慕って、彼女が暮していた母マリー・アントワネットの故郷、オーストリアへと向ったのでした。

タンプル塔での王の最後のときは刻々と過ぎていきます。そしていよいよ、ルイ16世が最後の祈りを捧げる時が来ました。白いシャツの上に白いチョッキを着て、グレーの半ズボンをはいた王のために、クレリーは祭壇のかわりになる大きさのタンスの埃をていねいに払い、その前にひざまずくためのクッションを置きます。
フェルモン神父。

王にふさわしくないその簡素な祈りの場を見つめながら、クレリーは胸が張り裂ける思いでした。彼の目から涙がとめどなく流れていました。

6時。フェルモン神父が王の部屋に入ってきて、静かで、寂しい祈りが始まります。重い祈りの声は、部屋をさまよった後、厚く暗い壁の中に吸い込まれていきました。

神の元に行く準備が出来た、と言いながら、王は指輪をはずし、それを王妃に渡してほしいとクレリーに頼みます。
王は何度も涙を拭いていました。別れがつらいという悲痛な言葉もクレリーは耳にします。

と、突然、ドアが荒々しく開き、役人たちが足音を高くしながら入って来ました。処刑場に行く時間がきたのです。王は落ち着いた態度を崩さず、役人に囲まれながらドアの外に向って行きます。
これほど温厚な国王が、共和国設立のために、何故処刑されなければならないのか、クレリーは最後の最後まで理解できませんでした。
外に待たせてあった馬車にルイ16世が乗り、その隣りにフェルモン神父が座り、馬車は共和国広場(現コンコルド広場)へと向います。その周囲をおびただしい数の兵が囲んでいました。

2016年2月16日

パリの犬たち 65

寒い日もお洒落をしたい。
やっぱりピンクがスキ。
ハートまでホカホカ温まるの。

2016年2月15日

オリンピック開催地に立候補したパリ

オリンピックのロゴが描かれた旗が
シャンゼリゼで誇らしげに翻っています。
2020年の東京オリンピック開催の後は、ぜひパリでと市民が一致団結。
以前も立候補したけれど、惜しくもロンドンに敗れて意気消沈したパリ。

凱旋門に投影されたロゴ。
24とエッフェル塔が描かれています。
あの時はちょっと時代遅れのアピールだったようで、反省したパリが、2024年のロゴとして、2月9日に凱旋門に投影して発表したのは、
24の数字とパリのシンボル、エッフェル塔が描かれている斬新なデザイン。コンテンポラリーで、軽快で、若さが漲っていてスポーツの祭典にふさわしい。

そのロゴを描いた色とりどりの旗が、2キロメートルのシャンゼリゼの両サイドの街路樹に翻っていて、とてもキレイ。
国際オリンピック委員会の方々、頑張っているパリをぜひよろしくお願いいたします。
何しろパリでオリンピックが開催されたのは、100年前の1924年なのです。

2016年2月14日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 57

家族に死刑の判決を告げる国王。
裁判がおこなわれている間、王は家族に会うことを許されていませんでした。彼に家族に会う許可が出たのは1793年1月20日夜、最後の別れを告げるためでした。

王妃、子供たち、王妹が、揃って階下のルイ16世の部屋に入って行きます。王の口から判決が告げられると、一挙に叫び声が響きました。
一国の王ともあろう人が、国民によって裁かれ、処刑される。予想を絶するこの決定を、

どう受け止めればいいのだろうか。

誰の口からも言葉は発せられなかった。身の置き場がないほどの悲しみや怒りが、言葉を奪っていたのです。

声にならない嗚咽が長い間続いていました。
その嗚咽は厚い壁にぶつかり、行き場がないように彷徨っていました。それがあまりにも悲惨で、隣室にいた看守もいたたまれないほどでした。

あまりにも過酷な運命に
誰もが言葉を失っていました。
永遠の別れを前に、ときは無残に経っていきます。

王妃たちはいつまでも王から離れたくなかった。
出来ればこの最後の夜を、王と共に過ごしたいと切望したに違いない。誰にとっても一秒一秒が貴重だったのです。
一向に部屋から動こうとしない家族の顔を、国王は記憶に刻むかのようにしっかり目にし、明日の朝に再び会いましょうと言葉をかけます。

けれども、そのとき彼は決意していたのです。このつらい思いを繰り返したくないから、明日は誰にも会わず、最後の祈りを捧げて処刑場に向おう、と。

1月21日の朝、塔を出て行く王を見送ったのは、侍従のクレリーだけでした。
悲痛な永遠の別れ。

2016年2月13日

ミシュラン君

何にでも興味を持つけれど、お料理は大の苦手。
でも、パリに暮す多くの人と同じように、すごいグルメ。
あちこちのレストラン探検は一向に衰えない。
なので、食の祭典があると知って、寒さと雨にもかかわらず、
いそいそと出かけました。
ウロウロと珍しそうに見回っていると、
何と、急にミシュラン君が寄ってくるではないですか。
びっくりしていると、カメラマンが
「ハ~イ、にっこり笑って」
とパチリ。
それがこの写真。メールで送ってきたのです。
ミシュラン君ありがとう。またいつかお会いしましょうネ。
       

2016年2月12日

パリの犬たち 64

あっちにもこっちにも・・・・
どれもボクだよ。
知的な表情が自慢のボクだよ。
あちこちのショッピングに付き合っているから、
いろんな所で出会うのだワン。
うれしい?

2016年2月11日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 56

判決を聞いても威厳と穏やかさを保っていた国王。
1793年1月20日、死刑判決を受けたルイ16世は、
ルイ16世が
処刑前日に書いた手紙。
国民公会に宛てて手紙を書きます。

・・・神の元にいく準備のために3日間の猶予がほしいこと、家族との最後の別れの際には、誰も見張りに立たないでほしいこと、自分亡き後、家族の面倒をきちんとみてほしいこと・・・

タンプル塔に判決を伝えにきた代表団に、その手紙を託し、それに対する返事を携えて、彼らが再び戻ってきたのは夕刻でした。

国民公会は王が希望した3日間の猶予を拒否し、処刑を予定通り翌日に行なうと決定。それを無言で受けたルイ16世を後に残し、代表団が引き払ったのは18時でした。

家族との最後の別れのときは刻々と迫ります。
この日の夜を最後に、国王は翌日朝、刑場へと向うのです。

2016年2月10日

パリの犬たち 63

猫に負けていられない。
このところ世界的に、犬より猫を飼う人が増えているんだって。
負けたらダメ。
だからボクたちも、3倍になってがんばっているんだワン。

2016年2月9日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 55

タンプル塔で数回にわたり裁判の準備をしていた、
国王と弁護士マルゼルブ。
1793年1月、ルイ・カペーの運命を決める投票が行なわれました。
マルゼルブ弁護士
投票は3回行なわれ、その結果、死刑賛成361票、
反対360票で、国王の運命が決まったのです。
1月20日のことでした。

午後2時ころ、ガラ法務大臣、エベール代理官、マルゼルブ弁護士がタンプル塔の王に、判決の報告をするために急ぎます。
悲痛に打ちのめされたマルゼルブは、王の姿を見るや否や、床に崩れ落ち涙をとめどなく流します。

その姿からずべてを察した王は、これまで自分のために努力してくれた感謝の言葉をマルゼルブに告げます。
どこまでも温厚なルイ16世でした。

処刑判決を告げられても、国王は微々たる動揺も見せず、冷酷な男だと誰からも恐れられていたエベール代理官でさえも感動し、後年、そのときの思いを綴っています。
自分の弁護をかって出た
マルゼルブの身を案じていた
温厚なルイ16世。
・・・彼は稀にみる冷静を保ちながら判決を聞いていた。穏やかであり、威厳、気品、偉大さをもっていた。彼の視線にも態度にも、人を超えるものが感じられた・・・
感動の涙をやっとの思いでこらえたとさえ、エベールは書いたのです。

自ら国王の弁護をかって出て、出来る限りのことをしたマルゼルブでしたが、国王を救うことが出来なかったばかりか、1794年、亡命貴族と陰謀を企てたという嫌疑をかけられ、72 歳で処刑されます。悲劇は彼だけで終わらず、娘を含む家族多数が処刑されています。

マルゼルブがルイ16世の弁護をかって出たとき、
「貴殿は余の命を救えないばかりか、貴殿自身の命を危険にさらすことになるであろう」
と、王が語った通りになったのでした。

マルゼルブの名は、パリのマドレーヌ教会とサントーグスタン教会を結ぶ大通りに残っています。処刑後国王が葬られ、現在、贖罪礼拝堂があるルイ16世広場近くの、街路樹がきれいな通りです。王に忠実だった彼に相応しい配慮です。

2016年2月8日

お猿さんが大活躍

今年は申年。
なので、なぜかパリのショーウィンドーにもお猿さんの姿が。
バッグ専門店でも、
時計専門店でもひと目を捉えます。

2016年2月7日

ショーメ 回顧展

今宵のソワレのためにライトアップ。
華やぎがあたり一面に散りばめられていました。
ショーメが過去のご自慢作品を展示する回顧展の、オープニング・パーティーに出席。
さすが、ナポレオン皇帝のお気に入りだったジュエラー。パリのエスプリ満点の演出に、顔が思わずほころびます。
ショーメの外観は鮮やかな赤の照明で、それを目にしただけで心がウキウキ。
レッドカーペットの上を進んで行くと、黒ずくめの整った顔とスタイル抜群の女性と男性が満面の笑みを浮かべてお出迎え。

中国人、ロシア人、日本人(私)
と、国際色豊か。
複数のカメラマンのフラッシュを浴びて、
刹那的セレブになった感じ。
19世紀後半から20世紀上旬のショーメご自慢の作品をじっくり堪能した後、階上に向う。
春を告げるような色とりどりのきれいな花の出迎えがあり、極上にシャンパンを勧められる。それが、ヴーヴ・クリコですよ。でも、飲み過ぎないように2杯でガマン。

作曲家ショパンが
生涯を閉じた部屋だけに
感慨深いソワレ会場。
パーティー会場のあちらこちらで、友人の姿を見て受け歓声ををあげ、新しく親しくなった人とは再会を約束。その間、ルノートル特性のフォアグラ、帆立貝、サーモン、マグロなどを使用した絶品がトレイで運ばれ、雰囲気が盛り上がったこと。
なので、誘惑に負けて、またシャンパンをいただいてしまった。
ジュエリーといい、招待客といい、久しぶりにゴージャスなソワレでした。

2016年2月6日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 54

自分の運命を判決前に察した国王は、
心のこもった遺書を書きます。

裁判が行なわれていた1792年のクリスマスの日、国王は遺書を書きました。
彼はすでに、自分の運命を悟っていたのです。

何枚もにも及ぶ長い遺書の最後に
王のサインが見られます。
ルイ16世は暗く寒い部屋で、ひとり静かに机に向かいます。
敬虔なカトリック信者として、自分が犯した罪の許しを神に乞い、また、自分の敵となった人々の罪を心の底から許すと綴ります。

自分と共に過酷な日々を送ってきた、妻、子供たち、妹を、特に見守ってくださるようにと神に祈り、その人たちに与えたであろう苦痛の許しも乞います。

息子には、ある日、不幸にも王の座に就くことになったら、国民の幸せに全面的に貢献するようにと言葉を残します。
神に召される準備がすでに出来ていること、そして、自分に対して犯された、いかなる罪をも非難してないことを明確に記しました。

「1792年12月25日、タンプル塔にて作成、ルイ」
と書いたその遺書は、彼の最後の望みだったにもかかわらず、家族の誰も目にすることはありませんでした。
遺書を手にする国王と弁護士マルゼルブ。

2016年2月5日

ニコラ・ビュッフとピエール・エルメのコラボレーション

パリ生まれのアーティスト、ニコラ・ビュッフと
スイーツのキング、ピエール・エルメの
夢のコラボレーションが間もなく始まります。

それに先駆けて、ヴァレンタインデーのために、
こんなにステキで幸せムード満載の装飾を実現。
二人揃って大の日本好き。
今後の展開がすごく楽しみ。