2019年3月31日

ルーヴル美術館のピラミッド 30年記念

ルーヴル美術館にガラスと金属のピラミッドが誕生したのは1989年、フランソワ・ミッテランが大統領だった時代です。ミッテランはパリ大改造を計画していて、そのひとつが12世紀から徐々に拡大され美術館になったルーヴルに、新風を吹き込むことだったのです。

ルーヴル美術館のピラミッド建築家イオ・ミン・ペイ。
(1917-)
ミッテランが特に才能を評価していたのは中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイ。彼の設計によるガラス張りのピラミッド建築の案が発表されたときには、長い歴史を誇る重要な建造物にコンテンポラリーなピラミッドなど言語同断だと、非難が巻き上がり大変な騒ぎになりました。政治家も文芸人も反対の大合唱を続けます。

あまりの反対にチューブを使用して実物大のピラミッドを作り、国民を説得し、実現可能となったのです。それ以前はこのナポレオン広場は役人たちの車の駐車場だったり、殺風景で何の特徴もない広場でした。

ところが、視界を損ねることのない清々しく透明のピラミッドが姿を現すと、幾世紀もの長い間眠っていた建物も、中に展示している作品さえも新たな命を授けられたような輝きを放ち、今ではルーヴル美術館に欠かせない存在になっています。

1860年代の写真。
ルーヴル美術館のナポレオン広場が
公園のようになっていた時代もありました。
後年にこの両サイドが駐車場になったのです。

前方にはチュイルリー宮殿が見えますが、
1871年に焼かれ今は残っていません。
優雅な良き時代の光景。
30周年記念にフランス人カメラマンが、建物の上からだとピラミッドが地下から地上に出現するように見えると、ピラミッド周囲に400人で4日かけて巨大コラージュをしてトロンプルイユを実現しました。ところがまたたく間にはがれ、紙が散らばっているようになってしまったのです。

事情を知らない人は、
ジレ・ジョンヌがここでも、と思ったかも知れません。

不思議でたまらないと、じっと観察する人も多くいました。

この目で見ないと、と早速行って見ると、まあ、本当にわけがわからない状態。これはジレ・ジョンヌとまったく関係なし。彼らの名誉のためにきちんと報告します。


大人気のピラミッド。

この後始末は大変でしょうが、ピラミッドは何事もなかったように、いつものように輝いていました。ほんとうに何度見ても素晴らしい。

2019年3月30日

清々しい日に

春を告げる光景。

愛らしいパンジーとチューリップが咲き乱れ、
小枝の先で蕾が顔を出し、

カラスが高い木の上で自慢げに大きな声を出している。
心が和むひとときでした。

2019年3月26日

「イヴ・サンローランへの手紙」が重版されました。




自分でも大好きな翻訳本「イヴ・サンローランへの手紙」が重版されました。とてもとても嬉しいです。

この本を書いたピエール・べルジェもイヴ・サンローランも、すでに他界しましたが、私の心の中ではいつも生きているお二人です。パリコレがあるたびに思い出します。

重版された今、再び読もうと思っています。
引き続きよろしくお願いいたします。

2019年3月25日

パリの犬たち 194

ボク本物の犬だよ、黒ヒョウじゃないよ。

大きくて黒いからか、
みんなボクを見かけると遠ざかる。

パパが言うには黒いヒョウかと思うらしい。
姿は迫力があるけれど、心はとっても優しいワンちゃんだよ。

太陽が当たるとご覧の通り黒光り。
それというのもパパの手入れがいいから。
遠くからたくさんの熱い視線を受けて
スーパースターになった気分だワン。

2019年3月22日

石井リーサ明理さん、15周年記念パーティ-

照明デザイナーとして世界を舞台として活躍している石井リーサ明理さん。会社I.C.O.Nを創立して早くも15周年を迎え、それをお祝いするパーティーが開催されました。

招待状にはキラキラ輝く服装でとあったので、スパンコールいっぱいのトップとティアラ、かなり派手なジャケットで出席。さすが破格の照明デザイナー明理さんが選んだだけあって、会場は夢いっぱいで幻想的な「マジック・ミラー」。

一歩中に入るとそこは現実からかけ離れた、カラフルなマジック世界。招待客はそれぞれ意向を凝らした装い。それだからパリのソワレは楽しいのです。

キラキラ輝く石井リーサ明理さんと楽しい服装で記念撮影。


ソワレにふさわしい装いの人々とカラフルでゴージャスな会場が、
楽しさと喜びを隅々まで散りばめます。
年代物のゲームもあり、皆、大人気。
片隅ではヴィンテージのピアノが
自動的に演奏を続け雰囲気を盛り上げます。
輝きをどこかに付けてとの明理さんのご希望に合わせて、
ご覧の通り見事なヘア飾り。カラーが時々変わるのがスゴイ。
私も欲しい。
ソワレもたけなわになった頃、
明理さんから15年周年の思い、スタッフ紹介などがありました。
完璧なフランス語に感服。

2019年3月20日

賢いネコ


パパが迷子になった。どこにいったのかニャ~。


パパと車でこの近くまできて、その後お散歩していたら、
急にパパの姿が見えなくなって心配ニャの。
ン?
このナンバープレート見覚えがある。

そう、パパの車だ。
ということは、ここで待っていればパパが戻ってくるのだニャ。
ここから動かないと決心したワタシ。
それらしき人が見えたらひと声上げるの。

きりっとした顔で、何も見逃さないと頑張っているのだニャ~ン。

2019年3月18日

メトロの駅名は語る 119

Robespierre 
ロベスピエール(9号線)

フランス革命の旗頭だった革命家の名です。

マクシミリアン・ド・ロベスピエール
(1758-1794)

フランス北部にあるアルトワ州アラスで代々弁護士だった家に長男として生まれたマクシミリアン・ド・ロベスピエールは、わずか6歳のときに母を亡くします。父はさっさと子供たちを残して疾走し、子供たちは母方の祖父に引き取られて育ちました。

頭脳明晰なロベスピエールはアラスで学んだ後、フランスでもっとも優秀な高校と評判のパリのルイ・ル・グランに入学。その後は弁護士を目指して大学で法律を学びます。

故郷に戻った彼は弁護士として活躍し、1789年、革命が起きた年にアルトワ州から三部会の第三身分議員として立候補し、当選。30歳でした。


ジャコバン派の本拠が置かれていたジャコバン修道院。
現在、マルシェ・サン・トノレになっている場所にありましたが、
後年に取り壊されました。


マルシェ・サン・トノレの入り口に
その歴史を語るプレートがあります。


ジャコバンの3巨頭。
左からロベスピエール、ダントン、マラー。
ダントンはロベスピエールによって断頭台に送られ、
マラーはシャルロット・コルデーに暗殺されます。

公正な国を自分たちの手でつくろうと意気込む急進派の人々が集まって、ジャコバン修道院でジャコバン・クラブを結成したのは1789年11月。そのメンバーに当初からなっていたロベスピエールは、目立って頭角を現し、またたく間に代表的存在になります。

ジャコバン派に属していた中から、思想に違いが現れたジロンド県出身の人々が集まり、1791年10月にジロンド派を結成します。

1792年になるとジャコバン派を母体とする山岳派が生まれます。その中心となったのはロベスピエールで、もっとも急進的な派でした。国民公会で一番高いところに議席を持っていたことから山岳派と名付けられました。

穏健なジロンド派と過激な山岳派は日を追って対立します。革命が進み国王の運命を決定する際に、処刑を唱えたのは山岳派でジロンド派は反対します。

日に日に山岳派が首都で勢力を増し、それに押されてジロンド派は地方に分散していきました。けれども山岳派の内部でも、過激な思想を持つ人とある程度穏健な考えを持つ人の間で分裂が起き、昨日までの同士たちを次々に処刑場に追いやる恐怖時代が始まったのです。

パリ市長舎内で起きたテルミドールのクーデター。
反対派に激しく攻撃され、
もはやこれまでと思ったロベスピエールは自殺を試みます。
けれども顎を砕いただけで逮捕され、
傷ついたままコンコルド広場に連行され処刑されます。


傷を負ったまま処刑場に連行される
ロベスピエールと同士たち。

ロベスピエールと同士たちが処刑された日に、
ジャコバン派本部が置かれていた修道院が閉鎖されました。

実権を握っていたのはロベスピエールで、彼の指揮のもとに独裁政治が続き、それを倒すために、1794年7月27日、バラスとタリアンが率先してフランス革命歴テルミドール9日にクーデターを起こします。ロベスピエールとその腹心の仲間も捕らえられ、処刑され、1789年から続いたフランス革命は終焉を迎えたのです。

小ロベスピエールと呼ばれていた
オーギュスタン・ド・ロベスピエール。

革命後の混乱の中から突如現れたナポレオンによって、フランスはヨーロッパを脅かす大国になっていきます。一時期ロベスピエールの弟オーギュスタンと親しかったために、ナポレオンも逮捕されましたが、すぐに釈放されています。兄と運命を共にすることを望んでいたオーギュスタンは、自分から進んで捕らえられ31歳で処刑されています。ナポレオンの軍人としての才能を最初に見出した人物はオーギュスタンです。


ロベスピエールは結婚しなかったし、子供も持たなかったので直径子孫はいません。彼が処刑される日まで暮らしていたアパルトマンはサン・トノレ通り398番地にあり、現在1階は華やかなブティックになっていますが、外壁にプレートがはめ込まれています。

ロベスピエールが1791年7月17日から
1794年7月28日までここに暮らしていたと
サン・トノレ通り398番地のアパルトマンの外壁に書いてあります。

革命家モーリス・デュプレイはこの建物のオーナーで、
ロベスピエールの他数人に貸していました。

ロベスピエールの部屋は左に見える小さな噴水の真上で、
ベッドにはデュプレイ夫人の服から作った
花柄のベッドカバーがかけてありました。
素朴な机と麦わらの椅子が4脚あったとの記録があります。

このアパルトマンの中庭に面した2階の一室に、ロベスピエールはマリー・アントワネットが死刑寸前に書いた遺書を隠し持っていたのです。その部屋は彼が信頼を寄せていた革命家、モーリス・デュプレイから借りていました。


ロベスピエールが隠し持っていたマリー・アントワネットの遺書。
23 cm x 19 cmの紙で、遺書は二つに折られていました。

王妃は死刑判決を受けた後、陰惨な牢屋に戻り看守に紙とペンを要求し、2本のキャンドルの弱々しい灯りの中で、子供たちと共にタンプル塔に幽閉されていたルイ16世の妹に宛てて最期の言葉を綴ります。

けれども彼女の遺書は義理の妹の手に渡らず、ロベスピエールが没収し秘かに自分のアパルトマンに保管していたのです。それが発見されたのはロベスピエール処刑後で、政府が議員クルトワに命じて彼のサン・トノレ通りの家宅捜査をさせたときです。

おびただしい数の書類の他にクルトワは、マリー・アントワネットの遺書と髪の毛も見つけます。その髪の毛は王妃が遺書を書き終えた後、看守から借りたハサミで自ら切って子供たちに形見をとして渡してほしいと頼んだのでした。

クルトワはロベスピエール宅で見つけた書類を記録し政府に提出しましたが、マリー・アントワネットの遺書と髪の毛は、ロベスピエールと同じように自宅に隠していました。それから22年後、クルトワの妻が病に倒れ息を引き取る前に、夫に王妃の遺書を王家にお返しになってください、と嘆願します。当時は皇帝ナポレオンが失脚し、ルイ16の弟が王政復古で王座に就きルイ18世を名乗っていた時代です。

国王の側近に手紙を書き、長い間その存在すら知られていなかったマリー・アントワネットの遺書は、このときやっと明るみに出され世界が知ることになったのです。

2019年3月17日

花びらが散ってとてもキレイ

風が吹いて寒かったけれど、気持ち良さそうなので公園をお散歩。
モクレンのお花が風で芝生の上に舞い降りて、グリーンと相まってステキなモチーフを描いていました。木のお花もキレイだけれど、落ちた花びらもいい。

芸術色濃いパリでは何もかもアートに見えるのです。

風が吹くと浄化されて空気がおいしい。
お散歩に最適。

メトロの駅名は語る 118

Porte de Montreuil
ポルト・ド・モントルイユ(9号線)

19世紀半ばにパリを守るために建築された城壁には17の門がありました。そのひとつがモントルイユ門で、それが駅名の由来です。

メトロが開通する以前のポルト・ド・モントルイユ。
乗合馬車が活躍していました。

モントルイユは近くにあったヴァンセンヌ城砦に水の供給をしていたので、かなりの額の税金を免除されていました。そのために町は潤い繁栄をとげていました。けれども16世紀に国王が他の城に暮らすようになり、衰退していきます。

その後木材を使用した産業が発達。第二次世界大戦の際にドイツ・ナチに占領されましたが、レジスタンスのお陰で自由を取りもどしました。パリ近郊の町で最初に開放されたのがモントルイユです。

当初はこうした蚤の市で、
いらなくなった品を売って生活費にあてていたのです。
今では高価な骨董品もあり、そうした品を求めて多くの人が訪れています。

現在は蚤の市で有名ですが、モントルイユに蚤の市が生まれたの1860年。長い歴史があり、規模も大きく売られる品も豊富で、今では週末には20万人もの人出だそうです。

2019年3月15日

パリの犬たち 193

ママンの趣味がいいのか悪いのか

これってワタシの好みではないの。
すごいハデ好きで目立つのが生き甲斐のママンの趣味なの。
ジャラジャラしていて歩きにくいけれど、
じっとガマンしているワタシなの。
本当はシンプル主義だけど、ママンに逆らえない悩みを分かってほしいワン。

2019年3月13日

傘がいっぱい

ここ数日間雨の日が続いているパリ。
一日中降り続ているのでないけれど、外出をためらいたくなります。

そうした中をカラフルなドットの傘をさしながら歩いていると、たくさんの華麗な傘が空にひらめいているのが目に入りました。

何でも気になり確かめないではいられない私は、ロワイヤル通りを横切ってその傘の大軍があるロワイヤル・ヴィレッジに近づくと・・・

注目の的の傘たち。

楽しさがはじけています。

まあ、キレイ。傘が大集合して空を飾っているのです。
あるアーティストの発案で、800ものカラフルな傘をつないであるそう。メリー・ポピンズからこのアイディアが浮かんだとのこと。「人生にカラーを」がコンセプト。いい考えです、大賛成。

雨の日も夢のある楽しい日になりました。

2019年3月10日

メトロの楽しい排気口

ショッピングでいつも通る道路に、ん、何やら見かけないものが動いている。
いったいあれは・・・・と近づくと、メトロの排気口で象たちがフワフワと踊っているのです。そのかわいいこと、かわいいこと💟 
見とれてしまいます。


普段は気に留めることもない排気口。
いったい何事と近づくと・・・

3頭の象さんたちが何やら話し合っているかと思うと、
下から風が舞い上がって突然踊りだしたり。

右側には一人ぽっちの象さんもいるけれど、
彼(彼女?)もときどき体をクネクネさせて踊りを楽しんでいる。

顔もとてもかわいい。車にひかれないように気を付けて。
また来るからネ。

さすがアートの街パリ。
殺風景で味気ない排気口にも、時には人の視線を捉えるような工夫をという配慮なのでしょう。

2019年3月8日

メトロの駅名は語る 117

Buzenval
ビュゼンヴァル(9号線)

パリ郊外の戦地の名です。

プロセインとフランス間の普仏戦争の最中に、パリ西郊外のビュゼンヴァルで戦闘が繰り広げられたのは1870年10月21日、ナポレオン3世の第二帝政時代でした。プロセインによるドイツ統一を阻止するために、ナポレオン3世が挑んだ戦いですが、結果的にフランスは敗北し皇帝は捕虜になりますが、脱出しロンドンに亡命し第二帝政が崩れた戦いです。

1870年10月21日、ビュゼンヴァル城の門を守るために、
死闘を続けるフランス兵。
ビュゼンヴァル城。

第二帝政が終わり第三共和制になっても普仏戦争は続いていて、1871年1月19日、再びビュゼンヴァルが戦地になり、強力な敵の攻撃に耐えきれず敗北を認めます。1871年5月10日フランクフルトで講和条約に調印がなされ、フランスは正式にプロセインに降伏したのです。

ビュゼンヴァル城は9世紀にカロリング朝の国王シャルル2世によって造られ、その後貴族から貴族に売却され、その度に増築、改築がなされました。19世紀の城主キャドル公爵は子孫に恵まれず、自分たち亡きあとは人々の役に立つ施設にしてほしいと遺言を残し、現在は学生寮になっています。

2019年3月7日

カルティエ、ニューコレクション・プレゼンテーション

カルティエの新作発表には飛び切りの興味を抱いています、なぜなら、毎回プレゼンテーションの場所が異なるため。しかも、歴史的に意味があるところばかり。今回は7区の19世紀に建築されたとある邸宅。

ジュエリーとウオッチ、そしてレザーアイテムが二つの階に分けて展示してあり、ガラスケースに入っていないので、文字通り手に取るように見れます。そのためにセキュリティの人も多い。当然です。

カルティエのアイコン、パンテール。
しなやかで気品ある姿をモチーフとしたアイテムは、
1914年からあるそうで、1世紀以上もの長い間人気を保っているのは驚きです。

パンテールのブレスレット・ウオッチ。
寝そべっているようなパンテールの姿が愛らしい。


見つめ合うパンテールたち。
最高に贅沢なブレスレット・ウオッチ。
様々なカラーの宝石をセッティングしてあり、ため息が出るばかり。

スクリーンの女王たちが愛用していたベニョワールと呼ばれるウオッチ。
四角でもなく円形でもなく、何とエレガントなバスタブのフォルム。
カトリーヌ・ドヌーヴ、ロミ―・シュナイダー、ジャンヌ・モローのお気に入りだったそうで、
3女優の艶やかな写真が飾ってあり憧れを掻き立てます。


眩いばかりのダイヤモンドとゴールドのブレスレット・ウオッチ。
ソワレにぴったり。
この時計に合うドレスのことも考えなくては・・・
と夢は広がります。バッグもシュ―ズもね。



レザーアイテムは、今回はカルティエ・レッド一色。
その中でもっとも高価なバッグ。


ガーランドのモチーフのアイテムもあります。
最近赤いバッグやお財布に憧れているので、私にぴったり。
でも、やはりプライスが気になります。
長期作戦を練らなくては。