2018年8月18日

パリの犬たち 178

いつだってここで待たなければいけない。

スーパーにはいろいろあって楽しいから、行くのは大好きだけど、
ここから先のフード売り場に行けないのが、どうもネ。

今日もパパが「君たちはここで待っているんだよ」って言ったきり、
見えない所に行ってしまって、なかなか戻って来ない。

もう心配で心配で・・・・ずっとここで何日も待っているんじゃないだろうネ。
妹と一緒でも心細いんだワ~ン。

2018年8月17日

メトロの駅名は語る 96

Saint Sébastien-Froissart 
サン・セバスチャン=フロワサール(8号線)

3世紀のサン・セバスチャンと、14世紀の詩人フロワサールを称える駅名。

後年に聖人(フランス語でサン)になるセバスチャンは、当時ローマの植民地だった南仏プロヴァンス地方に生まれ、イタリアのミラノで教育を受けます。

秀でた才知が認められ、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの親衛隊長に選ばれましたが、当時のローマはキリスト教が厳禁されていた時代。それにもかかわらずセバスチャンは、秘かにキリスト教の布教をしたり、時には奇跡をおこしたこともありました。

ローマ皇帝ディオクレティアヌス。

それが皇帝に密告され、裏切りを知った皇帝の怒りにふれ逮捕され、木に縛り付けられ無数の弓矢を打たれ殉教します。

イタリアのロンバルディー地方でペストが流行り、多くの犠牲者がでたとき天使が現れ、セバスチャンに捧げる祭壇をパヴィアの教会内に造るよう指示。それが完成したときにはペストが消え去ったと言われています。そのためにセバスチャンは兵士とペストの守護聖人とされています。

ピエトロ・ペルジーノ「聖セバスチャン」
ルーヴル美術館。
グイド・レーニ作「聖サバスチャンの殉教」
パラッツォ・ロッソ美術館。

 三島由紀夫がこの絵になぞらえたポ―ズをとり、
篠山紀信氏が撮影しています。

美青年だったサン・セバスチャンは多数の画家が絵に描いています。
文学者では同性愛者のオスカー・ワイルドやマルセル・プルーストが夢中になり、作品の中で触れているし、三島由紀夫は「仮面の告白」で聖セバスチャンに関する描写をしています。それだけでなく、サン・セバスチャンの絵と同じポーズをして、写真家篠山紀信氏に撮影を依頼しています。

ジャン・フロワサール(1337年ころ-1410年ころ)

ジャン・フロワサールは中世の年代記作家であり詩人。イギリス国王エドワード3世と結婚し、イギリス王妃になったフィリッパの希望で宮廷に招かれ、当時の記録を綴っていました。

「農民たちの反乱」に関する、
挿絵入りのフロワサールの年代記。

英仏間の100年戦争を挟んだ重要な時期などの年代記は膨大で、その中の多くが後年に挿絵入りの本となり、史実が分かりやすく世に紹介されました。

2018年8月14日

トルコ アンタルヤ近郊のミニトラベル

長く貴重な歴史を刻んでいるトルコは見るところが多く、とても一度では回り切れない。
イスタンブールやエフェソスで訪問した歴史的名所・遺跡は、数年経った今でも思い出が鮮明に蘇るほどインパクトがあります。

アンタルヤの地中海には本物の青がある。
心が吸い取られそうなほど美しい。

地中海に面した南西部のアンタルヤには、また異なった魅力があります。
まず、真っ青な海の色。どこまでも続く限りないブルーの世界に心が晴れ晴れします。

アンタルヤは古い時代からリゾート地として有名ですが、それ以上に素晴らしいのが、そこから日帰りで行けるいくつもの名所。

特に迫力あるのがパムッカレ。
小高い丘の上に石灰棚が続き、所々にある窪みの温水に人々が浸かっている。水着姿の人もいれば、服を着たままの人もいる。ここの温水が健康にいいとされているのです。

「綿の宮殿」という意味のパムッカレ。
たくさんある窪みには温水が。

ツーリストが多すぎ、年々規制が厳しくなっています。

世界遺産に登録されているはパムッカレは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。その名の通り綿に見えたり、雲にも見える白亜の大規模な石灰棚は、類のない絶景。

パムッカレからアンタルヤのホテルにバスでもどるとき、夜空に煌めく無数の星が、手をのばしたらつかめそうなほど近くにあり、大感動。それだけ空気が澄んでいるということなのでしょうか。まるで宇宙の真っ只中にいるみたい。


トルコは地震も多い国なのに、
石を積み上げて建築したローマ時代の劇場が、
いまだに残っているのは不思議です。

古代の人は優秀だったのですね。
階段が多いし、暑いし、一休み。

アスペンドスの古代劇場はローマ時代のもので、ほぼ当時のまま残っているとのことで貴重です。今でもコンサートなどが開催されるそうですが、15000人も収容できる大規模な劇場を造ったローマ人の凄さに驚くばかり。

いろいろな国を旅するごとに、ローマ人が造った神殿や劇場に圧倒されます。ローマの支配がなかったら、文明はどうなっていたのかと、いつも思います。

きれいなカーヴを描くマナガット滝。
マナガット滝はとても優雅です。
横長のゆるやかなカーヴを描いていて、激しさがないのが気に入っています。涼しさを満喫できる気品ある姿に、緑の中で突然出会えるのが素晴らしい。

地中海のとっておきのブルー。

小舟は海と仲良しになれるから理想的。
アンタルヤ滞在中に、小舟に乗って海の様々なブルー巡りもいい。澄み切った水に手で触れると、心身が浄化されるようです。

2018年8月7日

パリの犬たち 177

ナンだか差があるみたいだけれど・・・

夏のモーレツに暑い日。
お池の近くで過ごすのはしあわせ。




ママンはおイスに座ってご機嫌。
でも、ワタシがすわるおイスがないワ~ン、ワン。

それで、催促したらバッグの中から布を出して
「ほ~ら、ここに座ったら?」
だって。


どう見ても座り心地がいいように思えない。
それに、薄汚れている感じ。
ちょっとご機嫌ななめなの。

2018年8月6日

メトロの駅名は語る 95

Filles du calvaire
フィーユ・デュ・カルヴェール(8号線)

かつてこの近くにあったフィーユ・デュ・カルヴェール修道院が駅名になっています。今はすっかり姿を消したこの修道院が建築されたのは17世紀で、ルイ13世の時世。

イエス・キリストが磔刑されたエルサレム近郊のゴルゴタの丘は、「苦難の丘」を意味する「カルヴェールの丘」と呼ばれていました。その名を冠したのがフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。フィーユは女子を表します。

「ゴルゴタの丘への行進」
1564年、ブリューゲル作。ウィーン美術史美術館。

絵の中央に荷車に乗せられたキリストの姿が、
そして手前に嘆き悲しむ聖母アリアの姿が見えます。

戒律が厳しいベネディクト派のこの修道院を設けたのは、貴族夫人アントワネット・ドルレアン=ロングヴィル。24歳で未亡人になり修道院で暮らしていた、信仰深い女性でした。

フィーユ・デュ・カルヴェール修道院を設けた、 
アントワネット・ドルレアン=ロングヴィル侯爵夫人。
 24歳で未亡人になり修道院に入ります。
彼女は尊敬していたヨセフ神父が購入したパリの邸宅を、フィーユ・デュ・カルヴェール修道院にします。ヨセフ神父はリシュリュー枢機卿の影の助言者と呼ばれていた才知に富んだ人物で、枢機卿亡き後国王ルイ13世の相談役になります。

大きな影響力を持っていたヨセフ神父。

1621年にローマ教王に認知されたこの宗派の修道院は、様々な地に建築され、そのひとつがこのフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。

フランス革命で修道会は消滅し、中にあった貴重な品々はすべて売り払われてしまいます。

ヴォジラール通りにあったフィーユ・デュ・カルヴェール修道院。
後のマリー・ド・メディシスの礼拝堂。

立派な建物から
フィーユ・デュ・カルヴェール修道院の重要性がわかります。

もうひとつのフィーユ・デュ・カルヴェール修道院は、リュクサンブール宮殿のヴォジラール通りに面した所にあり、ルイ13世の母マリー・ド・メディシスが礼拝堂として使用していました。

現在は上院議長官舎で、すっかり変わってしまいましたが、幸いなことにアーカイヴが残っているので、この修道会の一部をしのぶことができます。

2018年7月31日

メトロの駅名は語る 94

Bonne-Novelle
ボンヌ・ヌーヴェル(8,9号線)

近くにある教会ノートルダム・ドゥ・ボンヌ=ヌーヴェルにちなむ駅名。
受胎告知に捧げるこの教会が、最初に建築されたのは1551年でした。

けれども16世紀、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争の際に、焼かれてしまいます。その後再建されたのは1628年で、ルイ13世の妃アンヌ・ドートリッシュが建築用の石を置いています。

ルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュ。

スペイン国王の王女として生まれ、14歳でフランス国王ルイ13世に嫁ぎましたが、長年世継ぎに恵まれませんでした。

そのためにノートルダム・ドゥ・ボンヌ=ヌーヴェルに頻繁に通い、子供が授かるよう祈りを捧げていました。

アンヌ・ドートリッシュと未来の国王ルイ14世。

待望の王子が生まれたのは、結婚から23年後の1638年9月5日。
その王子が後に太陽王ルイ14世となり、絶対王政を築きます。

残念なことに教会はフランス革命で破壊され、その後再建されたのが現在のネオクラシックのシンプルな教会。

大天使ガブリエルが地上に降り立って、ヨセフの婚約者マリアに、神の恩恵によって男児が授けられると告げる受胎告知は、多くの画家が手掛けています。
ちなみにボンヌ=ヌーヴェルは、良き知らせという意味です。

フラ・アンジェリコによる受胎告知。
フィレンツェのサン・マルコ美術館の壁画で、1440年ころの作品。

数ある同じテーマの中で、私がもっとも好きな絵です。

2018年7月28日

メトロの駅名は語る 93

Richelieu-Drouot
リシュリュー・ドルオー(8、9号線)

リシュリュー枢機卿とドルオー将軍、ふたりの名を冠している駅。

リシュリュー枢機卿(1585ー1642)

リシュリューの偉業は数多くありますが、その中でもっとも重要なのは国王ルイ13世に及ぼした影響です。

小貴族の家に生まれ、聖職者の道を進んでいたリシュリューですが、説得力がある話術と政治的手腕を買われ、次々に要職に就き、ついにはルイ13世の宰相になります。

重要な貿易港、ラ・ロシェルを視察するルイ13世とリシュリュー枢機卿。

国を安全に治めるためには、王権を強力なものにする必要があるとし、中央集権化、絶対王政化の基礎を築いたリシュリューの努力は、後年、ルイ14世によって実現されます。

リシュリューはまた、アカデミー・フランセーズを創設し、正しいフランス語普及に多大な努力をし、その意思は今も引き継がれています。

現在パレ・ロワイヤルと呼ばれている地に、大邸宅を建築させたリシュリューでしたが、国王ルイ13世がルーヴル宮殿に住んでいたので、いつでも駆け付けられるようにと、直ぐ近くに暮らすことにしたのです。

ルイ13世に寄贈されたリシュリューの豪勢な館は、
国王の息子ルイ14世が子供時代を送っていました。

けれども数回激しい政変が起き、パリが嫌いになったルイ14世は、
弟オルレアン公に譲り、それ以後、代々のオルレアン公が暮らします。

オルレアン公が住むようになった、1760年代のパレ・ロワイヤルと庭園。

リシュリューが世を去ったときには、彼の遺言に従い館はルイ13世に寄贈され、その息子ルイ14世が幼少時代に暮したためにパレ・ロワイヤル(王宮)となったのです。リシュリュー存命中はパレ・カルディナル(枢機卿の城館)と呼ばれていました。

アントワーヌ・ドルオー将軍(1774ー1847)

一方、ドルオー将軍はナポレオンの時代に活躍した軍人で、稀に見る有能な砲兵とナポレオンが手放しで称えた人物。

小さい頃から数学に秀でた才能を発揮し、軍人の道を歩むようになったアントワーヌ・ドルオーは多くの戦いを経験。ナポレオンに軍人としての煌めきを認められたのは、1809年、ウィーンを占拠した皇帝がシェーンブルン城で観兵式をしたときでした。
 
フランス軍に大勝利をもたらした
ワグラムの戦いで破格の戦力を示したドルオー将軍。
左ナポレオン、右ドルオー将軍。

その年の7月6日、ウィーン郊外のワグラムの戦いでオーストリア軍を破格の戦力で打ち破り、皇帝の全面的信頼を受けます。その後ロシア遠征にも参加。

ナポレオンが戦いを失いエルバ島に流刑されたとき、皇帝はドルオーに同行を求め、エルバ島総督に任命します。

皇帝が島を脱出した際にもドルオーは追従。そして、連合軍相手のナポレオン最後の戦闘となった、ワーテルローの戦いでも活躍。

再び失脚したナポレオンは、大西洋の孤島セントヘレナ島に送られます。王政復古で国王になったルイ18世から、重要な役職を提案されましたが、すべて断り、生まれ故郷ナンシーに引退し余生を過ごします。

最期までナポレオン皇帝のみに忠実だった偉大な軍人です。