2025年7月10日

マリー・アントワネットヘのオマージュのジュエリー


創意あふれる唯一無二のジュエリーは
メレリオカラーのグリーンのケースの中。

世界最古を誇るジュエリーメゾン、メレリオが画期的な作品をクリエイト。そのお披露目はヴェルサイユ宮殿敷地内にあるホテル・レストラン「ル・グラン・コントロール」で行われました。1681年にルイ14世お気に入りの建築家マンサールにより建築され、18世紀には財務長官の邸宅だったこの瀟洒な建物内のレストランは、アラン・デゥカスがプロデュースする洗練された美味を堪能できるだけでなく、18世紀風の衣装に身を包むスタッフが行き交い、華やかな宮廷生活の時代へといざないます。

そうした由緒ある場でメレリオが披露したのは、王妃マリー・アントワネットへのオマージュのネックレス。最高級のさまざまなカラフルな貴石、熟練のアルチザンによる綿密なカット、セッティングが織り成すネックレスのトップを飾るのは、パイナップル。王冠を被っているようなパイナップルは、「果物の王」と呼ばれ、宮廷でもてはやされていました。

審美眼の持ち主マリー・アントワネット。
服装、ヘアスタイル、インテリアに繊細な感性を生かした王妃は、
高貴な輝きを放つジュエリーを格別愛していました。

「ル・グラン・コントロール」での王妃へのオマージュのジュエリー紹介とディナーの前に、ヴェルサイユ宮殿内のマリー・アントワネットの私室を訪問。

王妃は内庭に面した目立たない場所に、プライベートタイムを過ごせる数部屋を設け、子供たちとお気に入りの女官、髪結い師、デザイナー、画家など、ごく限られた人のみが訪れることが出来たのです。その各部屋のインテリアは、すべて王妃のアイディア。その中で、特に興味深いのは、パイナップルの絵が施された壁布に飾られたふたつの部屋。

1493年、コロンブスが西インド諸島で発見し、スペインに持ち帰ったパイナップルは、今まで見たこともないエキゾチックな形と味で、またたく間に王侯貴族を魅了。スペインと深い関係にあるフランス王家にもほぼ同時にもたらされ、大きな関心を呼んだのです。温室栽培のパイナップルは高額なので、それを味わえるのは富と権力がある限られた人のみ。宮廷の食卓でデザートとした出されたり、絵に描かれたり、ヘアスタイルにまで影響を与えたこともあるのです。

そうしたパイナップルをマリー・アントワネットは、インテリアに取り入れたのです。審美眼を持つ王妃ならではのアイディア。このようにして、ルイ14世時代のバロック様式、ルイ15世のロココ様式で飾られたヴェルサイユ宮殿の一角に、新風が吹き込まれたのでした。

メレリオとマリー・アントワネットの絆が生まれたのは1780年のこと。散歩を終え宮殿に戻る際に、ジャン=バティスト・メレリオが制作したブレスレットに目を止め、魅了され、購入したのです。ローマ皇帝のプロフィールを彫った7つのカメオを、7つのガーネットの花が囲むそのブレスレットは、王妃の透き通るような肌に良く似合ったことでしょう。

マリー・アントワネットとメレリオの架け橋になったこのブレスレットは、現在もメレリオにとってかけがえのない宝物。そうしたメゾンだからこそ、王妃に捧げるジュエリー制作は意義があります。

王妃の研ぎ澄まされた感性が実現させた、パイナップルの壁布にインスピレーションを得たネックレスは、メレリオのアーティスティック・ディレクター、ロール=イザベル・メレリオさんの創案。マリー・アントワネットへのオマージュのこのジュエリーは、気品、輝き、華やぎ、優しさ、現代性があふれ、際立ったオーラを放ちます。

ヴェルサイユ宮殿で王妃のプライベートルーム訪問後、
同じ敷地内の「ル・グラン・コントロール」に向かい、
テラスでシャンパーニュで乾杯。
その後サロンに入り、
いよいよマリー・アントワネットに捧げるネックレスの紹介。


陽光を浴びるネックレスのキラメキは、
この世のものとは思えないほど華麗で気品が満ちている。
その場にいた誰もがあまりの美しさに声を失い、
ただ、ただ、見つめるばかり。
感動に心身が震えたほど。
燦然と輝くジュエリーを目の前にし、
周囲の光景は瞬時になりをひそめ、
幻想世界に誘われたよう。


パイナップルからインスピレーションを得て、
鮮やかな色とりどりの貴石で世にも稀なネックレスをクリエイトした
ロール=イザベル・メレリオさんの才知に感嘆しないではられない。


興奮を抱えたままディナールームに向かうと、そこもまたまた夢の世界。フランスが世界に誇るアール・ドゥ・ヴィーヴルが目の前に・・・華やかな花飾り、炎が揺れる無数のキャンドル、天井からシャンデリアが柔らかなあかりを届け、その中で18世紀風の衣装のサーヴィス係りが優雅な微笑みを浮かべながら、次々と運ぶお料理は、どれも美味ばかり。すべてが終ったのは真夜中近く。
何てステキなテーブルセッティング。
ああ、これが誰もがあこがれるフランスのアートなのです。

テーブル上にさり気なく飾られているパイナップル。


パイナップルのフォルムのデザート。
こだわりのメゾンならではのアイディア。

ドレスコードはカクテル。

18世紀風コスチュームのスタッフの
行き届いたサーヴィスを受け、
王朝時代にタイムスリップしたよう。

刺しゅう入りのブローチ。
プレゼントまでいただいて、
この日の思い出は、
記憶に深く刻まれます。

1613年の創立以来、現在も同じ家族が経営している、唯一の歴史を刻んでいるメレリオならではの、稀に見る上質なイヴェント。キラメキ輝く宝石のようなひとときでした。

メレリオのジュエリーは、日本では高島屋、大丸などで取り扱っています。

2025年7月6日

セーヌ川で泳げる!!!

 猛暑が続いてるパリで、今、話題の涼しいお話。

去年のオリンピックで、セーヌ川で泳ぐ競技が行われ、大成功。それでは夏の間、一般の人も泳げるようにしよう、と決定され、7月5日から8月31日まで、パリのど真ん中のセーヌ川で泳げるのです。

泳げる範囲は決まっているとはいえ、
100年ぶりにセーヌ川で泳げるなんて、現実とは思えない。

ただし、泳げる場所は限定されていて、15区のグルネル河岸の自由の女神像がある界隈。4区のシュリー橋の付近、そこからはサン・ルイ島が見える。12区のベルシーで国立図書館が見える場所。泳げる時間は限られているので、事前に時間を調べることが大事。

一番心配されるのは水質。これに関しては毎日、厳密な検査をするとのこと。大雨で水が汚れた場合には、即、閉鎖。健康管理もしっかりしているし、シャワーやトイレの設備もある。複数の監視員もいる。無料というのも魅力。

汚染がひどかったセーヌ川で泳げるなんて、夢のよう。ルイ14世の時世の17世紀にはシュリ―河岸で水浴を楽しんでいて、男性だけでなく女性も布で体を包んでセーヌ川に入っていたと記録がある。1913年6月22日には飛び込み選手権が開催されたほど、セーヌ川での水泳は盛んだったし、人気があったのです。それが禁止されたのは1923年で、汚染がひどすぎ人体に危険と判断されたため。1世紀ぶりの出来事だから興奮するのも無理ない。

1921年、セーヌ川で水浴を楽しむ人々。
この2年後から禁止。

パリの2000年以上の歴史を見つめてきたセーヌ川は、パリ市民の心のふるさと。そこで再び泳げるのは、最大の喜び。連日おおにぎわいが続くでしょうし、外国からわざわざ来る人も多い。今、再び世界の脚光をあびているセーヌ川。

2025年7月2日

猛暑に襲われるフランス

 6月末から7月上旬にかけて、フランスのほぼ全土で猛暑が続き、幼稚園や小学校が閉鎖される地域もあり、親が仕事に出かける場合、子供をどうするかと悲鳴をあげる人もいる。

早朝は空気がさわやか。
でも、それも7時ころまで。

それ以降は雲一つない空で、
空を見上げていることも出来ないほど太陽が強い。

7月1日は南仏は41度、パリは39度。1300をこえる公立学校が臨時休校。扇風機やクーラーがとぶように売れている。こんな異常気象の中、行きつけのスーパーが、電気回線の問題があるからか、冷房なしに加えてエスカレーターも動かない。レジの人は水で濡らしたタオルを首に巻いて仕事。
食料品売り場にはワンちゃんは入れない。
だから、アツイ、アツ~イ外で待つほかない。
ぐったりしていてかわいそう。
幸い、この直ぐ後に飼い主が戻ってきました。
よかったネ。

この異常な暑さはパリの場合3日ほどで終わるらしいけれど、その先に、また、ということがあるかも。ヴァカンスを早める人も多く、例年より早くパリ脱出。7月14日の軍事行進はどうなるのかしら。準備が進められているけれど・・・

2025年7月1日

マリー・アントワネット自叙伝 53

チュイルリー宮殿と永遠の別れ

 

チュイルリー宮殿を離れた私たちは、議会へと歩いて向いました。議会はルイ15世の時代の厩舎であり調馬場に置かれていました。51メートルもの長さがあり、幅は14メートル、高さ9メートルの立派な建物。幼少時代にチュイルリー宮殿に暮らしていらしたルイ15世は、そこで乗馬の練習をなさっていたそうです。

ところが国王がヴェルサイユ宮殿に宮廷を移し、そこに厩舎も造られたので、チュイルリーの厩舎には、乗馬学校が置かれました。

1789年10月6日に、私たちがヴェルサイユ宮殿から無理やりパリに連れて来られ、チュイルリー宮殿に暮らすようになった時、議会もパリに移され、その議場としてかつて厩舎だった建物が選ばれたのです。

ルイ15世がチュイルリー宮殿に暮らしていたころ、
乗馬の練習をしていたこの建物に、
革命後、議会が置かれました。

当時の議会は、このような状態だったのです。
その後、徐々に本格的になり、
夫も何度も議会に臨みました。

議会に着いた私たちは、議員たちの無遠慮な視線を一斉に浴びました。何の前触れもなく国王一家が到着したので、かなり驚いたようです。議員たちは声を発することもなく、興味津々の視線を投げ続けていました。その中を、夫は顔をこわばらせながらヴェルニオ議長に向かって歩みより、議長の隣に立ち、議員たちに向かって言いました。

「余は大きな罪を犯さないためにここに来たのである。諸君に囲まれているのが最も安全だと余は思っている」

それに応えたヴェルニオ議長の言葉は

「陛下、議会の強さを頼りにしてください」

でした。

それが私たちを守ることを意味したのか、あるいは、国民代表の議会は、何よりも強いのだと言いたかったのかわかりませんでした。


チュイルリー宮殿前では激しい戦いが始まり、大砲が打ち鳴らされる音は議会にまで届いていました。議長席の裏にある部屋が一番安全とのことで、私たちはそこで事の成り行きを見ることにしました。

刻々と入ってくる知らせは、悪いものばかりでした。

行進曲「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら、マルセイユからパリに到着した連盟兵が一番気が荒く、率先して宮殿入り口の柵を破壊し、スイス兵を殺し、次から次へと大声をあげながら部屋を駆けずり回り、カーテンをずたずたに切り、高価な家具や絵を壊し窓の外に投げつけたのです。

暴徒たちは宮殿内を奇声をあげながら走り回り、
家具や縁、彫刻を破壊したのです。
フランスが誇る文化芸術、伝統の尊さは、
彼らには何の意味もなかったようです。

同国人同士の戦いに嫌気がさし、群衆側につく国民衛兵が後を絶たず、宮殿防御は不可能になったとの怖ろしい情報も入りました。自分たちに忠実なスイス兵の犠牲者をこれ以上出したくないと思った夫は、発砲を中止し、兵舎に戻るようメモを送らせました。団結した連盟兵と群衆は約2万人にものぼっていたのです。


勝利に酔った連盟兵たちの大騒ぎは終わりを知らず、クラヴサンで「ラ・マルセイエーズ」を奏で、大合唱になったことも知りました。そのクラヴサンは私愛用のもので、それで民主主義を求めて蜂起した人々が、武器を取って暴君を倒せなどと歌ったのは皮肉です。私の心は徹底的に傷つきましたが、それを隠して、いつもの通り王妃の威厳を保つ努力をしていました。

チュイルリー宮殿が荒らされたからには、そこに戻ることはできません。議会は王一家がその日から暮らす住まいを探さなけれなければなりませんでした。

議会には泊まる部屋がないので、取り合えず、そこから歩いて行ける旧フイヤン修道院に行く決定がなされました。もはや私たちは議会が決めることに従うのみで、発言権さえもありませんでした。


赤い矢印が議会が置かれていた旧厩舎。
青い矢印が旧フイヤン修道院。
このように、徒歩で行かれる距離でした。
議会の右にチュイルリー宮殿と庭園が見えます。

私たちが不安な一夜を過ごしたフイヤン修道院は
16世紀に建築されました。

一日の間にあまりにもいろいろなことがあったので、娘と息子はすぐに眠りにおちいりましたが、大人たちは、今後、何が起きるかと心配で一睡もできませんでした。夜11時ころに役人が来て、私たちがそれぞれ部屋に留まっているか確認していました。

その間に、議会では国王一家を今後どこに暮らさせるか討論していたのです。リュクサンブルク宮殿やヴァンドーム広場の司法省という案が有力だったのですが、警備がしにくく、ヴァレンヌ逃亡の二の舞になる可能性が大きいとされ、タンプル塔が選ばれたのでした。


2025年6月24日

パリの犬たち 263

たくさんの感動と大きな希望を与えてくれたワンちゃん

スーパーに行った帰りに見かけたワンちゃん。
後ろ足に問題があるようで車椅子をつけている。
パパに遅れないように、
一生懸命速足で走っている姿が愛らしく、
しばらく見つめていました。

こんなに小さくて体が不自由なのに、頑張っている。
しかも、車椅子をつけていて不便なのに、
走るのがうれしくてたまらないかのように、楽し気。
感動せずにはいられない光景でした。

2025年6月22日

音楽の祭典

 フランス各地で開催される「音楽の祭典」の6月21日は、クラシック、ジャズ、ロック、ラップなどあらゆる音楽を無料で楽しめる日。1982年、当時のフランス文化大臣ジャック・ラングによって創設された「音楽の祭典」は、今では世界中に広がり、重要な文化イヴェントのひとつになっています。プロもアマチュアも参加できるのが、この祭典の大きな特徴。

今年はチュイルリー公園で大規模なコンサートが行われたほか、セーヌ左岸・右岸の複数の教会や大小の広場、博物館などでも音楽祭を楽しめ、35度の異常な暑さの中で、熱気に包まれたパリ。

例年と異なるのは、昨年のパリ・オリンピックで世界中の人を驚嘆させた気球の聖火台が、この日の夜空を飾り、再び歓喜の声を響かせたこと。この気球は今ではパリのモニュメントとさえ言われていて、9月14日までチュイルリー公園で見られる。特に、夜空に浮かぶ気球の美しさは、体が震えるほど感動的。

チュイルリー公園内に設置された舞台の前に集まった人は35000人。
参加したアーティストは50人。
夕方9時に始まり、真夜仲の12時30分まで続いたコンサート。
音楽に合わせて歌う人も多かったし、踊る人も多かった。

あたりが多少暗くなった10時ころ、それまで舞台の後ろの地上に置かれていたあの気球が、ゆっくりと空に向かって舞い上がる。一斉に大歓声が起き、一団となって気球と共にパリの空高くのぼり、音楽祭はますます華やぎを増し、記憶に深く刻まれたのです。
いつ見ても感動せずにはいられない、品格ある気球。
夢幻の境地に誘われたよう。

2025年6月17日

リッツパリの中庭で、パリならではのランチ

このところ 晴天続きのパリ。こうした心地よい気候のときには、テラスでのランチが最高。屋外の空気に全身を包まれながら、美味と美酒を親しい友人と味わうのは、この上ない幸せ。

快適な日々が続くある日、日本からグルメの友人がパリに来るとのメールを受け取り、ランチのために選んだのは、リッツパリのテラス。なにしろ、ここはお料理もワインも上等だけでなく、美女、美男の行き届いたサーヴィスが魅力。自分たちが高尚な人であるように思わせるほど、それはそれは柔和な微笑みを称えながら、丁寧に接客してくれる。

予約が大変だったのも、よくわかる。何しろ世界中のこだわりの人が集まるのだから、当然。居心地がよく話題も豊富で、2時間半ほどの長いランチになりました。

リッツパリの中庭の大きなパラソルの下でランチ。
美味に加え、行き届いたサーヴィス。
忘れがたい思い出になる貴重なひととき。

お花のすぐお隣のいいお席。
まずはシャンパーニュで乾杯。

選んだシャンパーニュは創立1812年のローラン・ペリエ。
こだわる女性ばかりだから、ロゼ。
一口飲んで全員が同時に「ああ、美味しい!!! 」

テーブル上のバラの花と
ステキなハーモニーを奏で、極上気分。
フレッシュでデリケートな味は、さすが老舗ならでは。

満開のバラの花のような演出が素晴らしい、
メロンと生ハムのアントレ。



メインに選んだ海老入りスパゲッティ。
ちょうどいい量は、経験豊富なベテランシェフならでは。

オリジナルのパンは4種類もあって、
しかも焼き立て。抵抗しがたく2種類いただきました。

チョコレートやコーヒ―の後、外に出ると、ナポレオンが誇らしげに立つ円柱があり、周囲は名だたる宝飾店がずらり。ヴァンドーム広場に面したホテル・リッツパリでのランチには、心を輝かせるマジックがある。
エレガントで幸せなベル・エポックの
リッツパリの中庭でのディナー。1904年。
当時の華やかさと格式は、変わることなく引き継がれている。