2025年7月1日

マリー・アントワネット自叙伝 53

チュイルリー宮殿と永遠の別れ

 

チュイルリー宮殿を離れた私たちは、議会へと歩いて向いました。議会はルイ15世の時代の厩舎であり調馬場に置かれていました。51メートルもの長さがあり、幅は14メートル、高さ9メートルの立派な建物。幼少時代にチュイルリー宮殿に暮らしていらしたルイ15世は、そこで乗馬の練習をなさっていたそうです。

ところが国王がヴェルサイユ宮殿に宮廷を移し、そこに厩舎も造られたので、チュイルリーの厩舎には、乗馬学校が置かれました。

1789年10月6日に、私たちがヴェルサイユ宮殿から無理やりパリに連れて来られ、チュイルリー宮殿に暮らすようになった時、議会もパリに移され、その議場としてかつて厩舎だった建物が選ばれたのです。

ルイ15世がチュイルリー宮殿に暮らしていたころ、
乗馬の練習をしていたこの建物に、
革命後、議会が置かれました。

当時の議会は、このような状態だったのです。
その後、徐々に本格的になり、
夫も何度も議会に臨みました。

議会に着いた私たちは、議員たちの無遠慮な視線を一斉に浴びました。何の前触れもなく国王一家が到着したので、かなり驚いたようです。議員たちは声を発することもなく、興味津々の視線を投げ続けていました。その中を、夫は顔をこわばらせながらヴェルニオ議長に向かって歩みより、議長の隣に立ち、議員たちに向かって言いました。

「余は大きな罪を犯さないためにここに来たのである。諸君に囲まれているのが最も安全だと余は思っている」

それに応えたヴェルニオ議長の言葉は

「陛下、議会の強さを頼りにしてください」

でした。

それが私たちを守ることを意味したのか、あるいは、国民代表の議会は、何よりも強いのだと言いたかったのかわかりませんでした。


チュイルリー宮殿前では激しい戦いが始まり、大砲が打ち鳴らされる音は議会にまで届いていました。議長席の裏にある部屋が一番安全とのことで、私たちはそこで事の成り行きを見ることにしました。

刻々と入ってくる知らせは、悪いものばかりでした。

行進曲「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら、マルセイユからパリに到着した連盟兵が一番気が荒く、率先して宮殿入り口の柵を破壊し、スイス兵を殺し、次から次へと大声をあげながら部屋を駆けずり回り、カーテンをずたずたに切り、高価な家具や絵を壊し窓の外に投げつけたのです。

暴徒たちは宮殿内を奇声をあげながら走り回り、
家具や縁、彫刻を破壊したのです。
フランスが誇る文化芸術、伝統の尊さは、
彼らには何の意味もなかったようです。

同国人同士の戦いに嫌気がさし、群衆側につく国民衛兵が後を絶たず、宮殿防御は不可能になったとの怖ろしい情報も入りました。自分たちに忠実なスイス兵の犠牲者をこれ以上出したくないと思った夫は、発砲を中止し、兵舎に戻るようメモを送らせました。団結した連盟兵と群衆は約2万人にものぼっていたのです。


勝利に酔った連盟兵たちの大騒ぎは終わりを知らず、クラヴサンで「ラ・マルセイエーズ」を奏で、大合唱になったことも知りました。そのクラヴサンは私愛用のもので、それで民主主義を求めて蜂起した人々が、武器を取って暴君を倒せなどと歌ったのは皮肉です。私の心は徹底的に傷つきましたが、それを隠して、いつもの通り王妃の威厳を保つ努力をしていました。

チュイルリー宮殿が荒らされたからには、そこに戻ることはできません。議会は王一家がその日から暮らす住まいを探さなけれなければなりませんでした。

議会には泊まる部屋がないので、取り合えず、そこから歩いて行ける旧フイヤン修道院に行く決定がなされました。もはや私たちは議会が決めることに従うのみで、発言権さえもありませんでした。


赤い矢印が議会が置かれていた旧厩舎。
青い矢印が旧フイヤン修道院。
このように、徒歩で行かれる距離でした。
議会の右にチュイルリー宮殿と庭園が見えます。

私たちが不安な一夜を過ごしたフイヤン修道院は
16世紀に建築されました。

一日の間にあまりにもいろいろなことがあったので、娘と息子はすぐに眠りにおちいりましたが、大人たちは、今後、何が起きるかと心配で一睡もできませんでした。夜11時ころに役人が来て、私たちがそれぞれ部屋に留まっているか確認していました。

その間に、議会では国王一家を今後どこに暮らさせるか討論していたのです。リュクサンブルク宮殿やヴァンドーム広場の司法省という案が有力だったのですが、警備がしにくく、ヴァレンヌ逃亡の二の舞になる可能性が大きいとされ、タンプル塔が選ばれたのでした。