2020年9月3日

メトロの駅名は語る 156

Mairie d'Issy
メリー・ディッシー(12号線)

パリの南西郊外にあるイッシー・レ・ムリノーが駅名の起源。当初この町はイッシーと呼ばれていましたが、1893年に近くにあったムリノー村と合わせて新しい町の名になったのです。

湿地にすぎなかったイッシーが栄えたのは、ブルボン家支流にあたるブルボン=コンデ家の分家、ブルボン=コンティがこの地にシャトーを建築した17世紀。3代目のコンティ公フランソワは国王ルイ14世の時世に軍人として輝かしい活躍をし、大コンティ公と呼ばれていました。

大コンティ公と呼ばれていた
フランソワ・ルイ・ド・ブルボン=コンティ。
(1664-1709)

大コンティ公がイッシーに土地を購入し、シャトー建築を命じたのは1699年。均整が取れたルネサンス様式のシャトーは美しく、1778年まで代々のコンティ公の住まいとなっていました。この年にシャトーは売却され、その後数人の貴族が城主となります。革命の際の城主は11世紀からの歴史あるシメイ家のプリンセスでしたが、捕らえられ処刑されイッシー城は国に没収されました。

歴代のコンティ公の住まいとなっていたイッシー城。
ルネサンス様式のエレガントな建物でした。
庭園はチュイルリー公園やヴェルサイユ宮殿庭園を手がけた
著名な造園家ル・ノートルが担当。

革命後ナポレオンが皇帝になりエルバ島に流刑されますが脱出し、1815年6月18日、ナポレオン率いるフランス軍と連合軍の間でベルギーのワーテルローで激しい戦いが展開し、フランス軍は連合軍に大敗。その後も戦いはフランス国内でも続き、1815年7月3日、連合軍側のプロシア軍がイッシーでフランス軍相手に戦い、勝利を得たのでした。その時フランス軍指令部はイッシー城に置かれていました。

1870年-71年には普仏戦争があり、1871年5月4日、パリコミューンによってシャト―は焼かれ姿を消してしまいます。その近くの町ムードンに暮らしていた彫刻家ロダンが、焼け残ったシャトーの断片を買ったおかげで、わずかながらイッシー城を偲ぶことができます。現在ムードンのロダン美術館の正面を飾っている、円柱とペディメント(建物の正面上部の三角形の壁面)です。

火災前のシャトー。
1871年、火災直後のシャトー。
この一部をロダンが買い、
現在ムードンのロダン美術館入り口で見られます。

一方ムリノーはムードンの地区のひとつで、神父ジャン・ド・ムードンがそこに畑を持っていました。ムードン家はパリの南西4キロメートルにある緑に恵まれた小高い地にある森ムードンを本拠地としていました。詳しい歴史はわかっていませんが、14世紀のロベール・ド・ムーランが国王フィリップ4世に仕え、貴族となったとされています。

メトロ名メリー・ディッシーはイッシーの市役所という意味で、国王ルイ5世の相談役二コラ・ボージョンの別邸だった建物が1895年から市役所になっています。ボージョンは複数の邸宅をパリや近郊に持っていました。そのひとつに現在のフランス大統領官邸エリゼー宮があります。美術品愛好家としても知られていて、コレクションの素晴らしさは、歴史に残るほどでした。イッシーの別邸は市役所にするために大々的に改造され、残念なことに当時の面影は消えてしまいました。