2024年5月5日

マリー・アントワネット自叙伝 27

フェルセンさま

 

娘を身ごもっていた1778年8月25日でした。駐仏スウェーデン大使が若い殿方をご紹介してくださいました。その方にお会いするのは初めてではないので、

「ああ、古くから存じ上げています」

と、思わす言ってしまいました。


実はその方には、皇太子妃だった時代にパリのオペラ座でお会いしたのです。仮面舞踏会に身分を隠して行った1774年1月30日でした。

長身で身のこなしがエレガントで、多くの女性たちの憧れのまなざしを受けていた青年に、私から声をかけたのです。育ちの良さが全身からほとばしっているその青年と、どのくらいの間おしゃべりしていたでしょうか。周囲の目を気にし始めた女官たちに、

「お時間でございます。参りましょう」

と催促されるまで、何と幸福な時を過ごしたことでしょう。

アクセル・フォン・フェルセンさま


お互いに名を告げることもなく別れたその青年に、それ以降お目にかかるチャンスはまったくありませんでした。それが今、さらに魅惑的な男性になって、目の前に姿を現したのす。思いがけない再会で私の胸はときめき、周囲の人にも聞こえるのではないかと思うほど、鼓動が大きかったのです。その方のお名はハンス・アクセル・フォン・フェルセンさま。偶然にも私と同じ1755年に生まれたスウェーデン人。きっと私たちは最初から運命でつながれていたのでしょう。


由緒ある貴族の家に生まれたフェルセンさまのお父さま、フレデリック・アクセル・フォン・フェルセン伯爵は、陸軍元帥であり政治家。王家に継いで重要な貴族だったそうです。お母さまのカトリーヌさまも貴族出身で、おふたりの間に4人の子供が生まれました。お姉さまエレオノラさま、お妹さまソフィさま、弟君ファビアンさまに囲まれたアクセル・フォン・フェルセンさまは長男なので、家族の期待も信頼も大きかったそうです。


お父さま、フレデリック・フォン・フェルセン伯爵

お母さま、カトリーヌ伯爵夫人

フェルセン家所有のシャトーのひとつ。

フェルセン家は高位の貴族にふさわしく、立派なシャトーを5つも持っていて、アクセル・フォン・フェルセンさまが生まれたのは、ストックホルムの王宮が見える豪奢な建物だったそうです。


オペラ座での出会いの後、フェルセンさまはいったん故郷に戻り、父君の希望で外国を訪れ、フランスにも立ち寄ったのです。4年の間に何て立派な殿方になったことでしょう。その凛々しいお姿を拝見した時の喜びは、おさえきれないほど大きく、今でもはっきりと覚えています。人生が急にバラ色に染まったようでした。

 

アメリカがイギリスからの独立を望んでいることは私も知っていました。ベンジャミ・フランクリン駐仏アメリカ大使がヴェルサイユ宮殿にいらして、夫に援助を頼んだからです。1778年3月20日でした。当初、あまり乗り気でなかった夫でしたが、お人よしの定評通り、最終的に経済援助と軍を送ることも約束してしまったのです。フランスの国庫は苦しい状態だったのに、です。これで経済困難は何倍にも膨れてしまいました。とはいえ、当時の私はそうした事情を知らずに、好き勝手なことをしていましたが・・・

1778年3月20日、
ベンジャミン・フランクリン駐仏アメリカ大使が、
ヴェルサイユ宮殿で夫に謁見しました。

フランスが参戦することを知ったフェルセンさまは、志願したのでした。つまり私から離れて遠い海の向こうの国に行ってしまうのです。これを悲劇と呼ばないではいられないほど、私の悲しみは大きかったのです。


再会したとき、私もフェルセンさまも23歳でした。その年の12月にマリー・テレーズを出産した私は、自信に満ちていました。この後も何人か子供を産んで、王妃としての役割をきちんと果たそう。でも、人生を最大に楽しみたいとも思っていました。


以前の体型を取り戻した私は、ベルタンを迎えて頻繁にドレスをオーダーしました。もっと美しくなりたい、もっとも魅力ある女性になりたいと、毎日そのことばかり願っていました。それはあの方に気に入られたいからだったのです。あの方、そう、フェルセンさま。あの方にお会いしてから、女性としての意識が高まりました。生まれて初めて本当の愛を知ったのだと思います。


壮麗なベルサイユ宮殿の庭園には、ロマンティックな場所がたくさんあり、愛が育つのにふさわしい雰囲気が漂っています。フェルセンさまと片時も離れたくなかった私は、ゲームに誘ったり、ダンスのお相手に選んだり、お散歩に誘ったり。夢中になっていた私は周囲の目を気にすることもなく、ひたすらフェルセンさまの吐息を直ぐ近くで感じたいと、それしか考えていませんでした。


メランコリックな眼差し、スリムな体型、豊かな教養、軍人にふさわしいキリっとしたふるまい、舞踏会で見せる芸術的で優雅な踊り・・・私が好きなすべてを備えているフェルセンさま。彼のために、もっともっと美しくなりたいと、そればかり願っていました。正直で自分に誠実な私は、フェルセンさまへの好意を隠すこともなかったので、当然、噂が立ちました。それを危険なことだと思ったのか、フェルセンさまは、突然、意を決したのです、フランスから遠ざかることを。

アメリカに行く決心をしたころのフェルセンさま。

冷静に考えてみると、フェルセンさまがアメリカの独立戦争に参加しようと決意なさったのは、不思議なことではありません。何しろ彼は尊い騎士道精神の持ち主。しかも若い年齢。イギリスの勢力などに屈していたくない、自分たちの手で新しい国を造りたいというアメリカ人の情熱が、きっとフェルセンさまを感激させ、心を動かしたのでしょう。スウェーデン大使のクルツ伯爵や多くの宮廷人は、私の危険な働きかけから身を守るためにアメリカに行くのだ、などと、ずいぶん失礼なことを考えていたのです。


それにしても、何て辛いこと。せっかく幸せな日々を送っていたというのに・・・・彼の出発の日が近づくに従って涙で目がかすむばかり。私の打ちひしがれた姿を見て、側近が心配したほどでした。

 

フェルセンさまがフランスの軍港ブレストから、アメリカに向かって出航したのは1780年5月2日でした。6000人の軍人のひとりとして軍艦に乗ったフェルセンさまは、きっと心を弾ませていたことでしょう。何しろ総司令官は、多くの軍人が憧れていた伯爵ロシャンボー将軍。様々な戦いで目立った活躍をした人です。


ブレストを後にした軍艦が、アメリカのロードアイランドにあるニューポートに到着したのは7月11日。その間、フェルセンさまは手紙で航海の様子を頻繁に父君に知らせていたのです。このような息子を持った父君は、さぞかし誇りに思っていたことでしょう。アメリカ側の指揮官はジョージ・ワシントン将軍で、後に大統領になった方。ロシャンボー将軍とワシントン将軍の鋭敏な指揮のもとに、アメリカ兵とフランス兵は勇気を持って戦い、ついに1781年10月、重要な拠点、ヴァージニア州のヨークタウンを占拠して、イギリス軍に徹底的な打撃を与えたのです。

ヨークタウンで決定的勝利を得る前に会見した
フランスのロシャンボー将軍(右)と
アメリカのワシントン将軍。

この戦いの間フェルセンさまは、格別な貢献をしました。フランス語を話さないワシントン将軍と、英語を話さないロシャンボー将軍の間の重要なやり取りの通訳をしていたのです。父君へのお手紙の中でそのように書いたのだそうです。何て素晴らしい活躍でしょう。勇敢な兵士として戦っただけでなく、知的活躍もしたのです。このようにフェルセンさまがアメリカ独立戦争に参加している間に、大きな悲劇が私に襲いかかりました。