2025年8月23日

パリの真っ只中の田舎

すべての建造物が石造りに加えて、道路や広場も 石畳とかコンクリートの街パリ。整然とした美しさはあるけれど、やはり、自然らしい自然が欲しい。パリ市庁舎前広場に「都市の森」が誕生したけれど、あれほど大掛かりでなく、小規模でいいから、もっと多くの場所に自然があるといい。

それにこたえるかのように、最近は、ちょっとした空き地に緑が見られる。以前は数台の車が止められていた場所に、ある日、木や草、小さな花を目にとめると、ほっとする。やはり人の心には、自然が必要。素晴らしいと思うのは、幾何学的なフランス式庭園でなく、まるで、そこに、自然に育っているかのような、雑然とした植え方。そのために草木の香りがより清涼に感じられる。私はこうした場所を「パリの田舎」と呼んでいる。私に取って貴重な清涼剤。

緑豊かなバス停。
昼間は20分近く待つバスも、こうした環境だと苦にならない。
イライラしないし、健康上もいい。
以前はオートバイが無造作に置かれていた場に、
木や草が植えられ、
石造りの毅然としたモニュメントに、風情を添えている。

目抜き通りの信号機の足元に、
雑草が好き勝手にはえていて、ホッとする。
雑草にも、そこに生える権利があるとばかりに
自由にしているのが、いかにもパリらしい。
自然は賢いな、と、感心してしまう。
どこに生息できるか、ちゃんと見極めているのだから。

古く、手入れをしていないドア。
無造作に置かれた形も大きさもまちまちの石。
その間で育つ名もない草。
パリにいることを忘れさせる、私の大好きな詩情漂う「パリの田舎」。

2025年8月20日

パリの犬たち 264

 最近のワンちゃんは歩くのがイヤなのかバギーに乗っているのが目立つ。

レストランの入り口で待っているんだワン。
このバギーの中でおとなしくしているから、
中に入れてくれるか交渉してもらうの。
緊張で、こんな真剣な顔。

夏のヴァカンスでパパとママと一緒にパリ見物。
そう、みんなで、オランダから来たの。
何もかもオレンジ色。
なぜって、
オレンジはオランダのナショナルカラーだから。
初代君主オラニエ公の名前が由来。
オラニエはオレンジのこと。知っていた?

2025年8月16日

マリー・アントワネット自叙伝 55

 私たちの住まいになったタンプル塔

 

タンプル騎士団本拠が置かれていた12世紀半ばに、要塞として建築されたタンプル塔は、中央に高さ50メートル、壁の厚4メートルの4階建ての大塔があり、その4つ角に寄り添うように小塔がありました。騎士団が廃止された後、監獄になっていたこともあったそうです。


タンプル塔は高い塀で囲まれた敷地のはずれにありました。

捕らわれの身の私たちの監視がしやすいように、
塔の周囲にあった立派に成長していた木は
すべて無残に切り倒されました。

私たちが住むのは大塔と決められていたのですが、何しろ厳重な監視のもとに重要な人物が暮らすので、それなりの設備が必要だと、大々的な工事を行うことになったのです。その準備が整う間、私たちは狭い小塔で過ごさなければなりませんでした。この塔にいる間に恐ろしい出来事があったのです。思い出しただけでぞっとします。

 

タンプルの小塔に暮らすようになって間もない1792年8月19日でした。コミューンの役人が塔に突然入ってきて、女官長ランバル公妃、子供たちの養育係りトゥルゼル夫人、その娘さんのポリーヌを連れ出したのです。 

3人はパリ市長舎で、いろいろな質問を受けたようです。ヴァレンヌ逃亡や、革命に関して尋問されたようですが、どこまでも王家、というより私に忠実なランバル公妃は、危険であることを知っていながら、勇気をもって革命には賛成できないと答えたのです。トゥルゼル夫人もポリーヌもそれぞれ別々に尋問された後、3人揃ってラ・フォルス監獄に連れて行かれたのでした。


ラ・フォルス監獄。

悲劇が起きたのは9月2日でした。革命をつぶすために戦っていたオーストリア軍が、その日、フランス東北部のヴェルダンで勝利を得たのです。

その知らせがパリに届くと、革命家たちは動揺します。このままでは革命軍は他の地域での戦いも失うに違いない。革命は失敗に終わる可能性もある。殺気立った彼らは、革命に反対する人を次々に捕らえ、監獄に押し込みます。その内、囚人たちが事を起こそうとしているなどという噂がたち、群衆が武器を手に監獄を襲い、多くの囚人が無差別に殺されたのです。

ヴェルダンの戦いの勝利の後、
多くの人が捕らえられたり殺されたりしました。

翌9月3日朝、2人の兵がランバル公妃の部屋に入り、急遽設けた臨時革命裁判所に連行しました。そこでいくつかの質問を受けた後、ランバル公妃が内庭に出た途端、「ランバルを殺せ」の声があちらこちらから上がりました。その恐ろしい声におののいて気を失った公妃の体に無数の槍や剣が刺され、彼女は息絶えたのでした。42歳でした。

臨時革命裁判所で尋問を受けたランバル公妃。

デリケートな精神の持ち主のランバル公妃は、
多くの人の死体を目にして、卒倒したのでした。

革命が起き、危険が迫っていたにもかかわらず、忠実だったランバル公妃に、私はヴァレンヌ方面に逃亡する計画をそっと知らせ、貴女もフランスから逃れた方がいいとすすめ、彼女はロンドンに向かったのです。けれども逃亡が失敗に終わったことを知った公妃は、再び役に立ちたいとパリに戻り、チュイルリー宮殿に暮らすようになったのです。あのときあのままロンドンにいれば、悲劇は起きなかったのに。


容姿も心も美しい人でした。

ランバル公妃の身に恐ろしいことが起きていたとき、私たちはタンプルの小塔のダイニングルームで家族そろってお食事をとり、その後、私のお部屋でゲームをしていました。テーブルの上で夫と私がゲームをし、娘と息子は椅子に腰かけてその様子を見ていました。どの家庭でも見られるシンプルで平和なひと時でした。

突然、叫び声が上がりました。恐ろしいほどの叫び声は、途切れることなく続いていたし、太鼓の音も聞こえてきました。


一体何事が起きたのかと胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなりました。その内、夫の侍従クレリーが部屋に入ってきたのですが、血の気を失った顔で私たちを見るだけで、声を上げることもできないようでした。体を震わせているので、よほど恐ろし事が起きたに違いないと、不安と恐怖で体が冷えるのが自分ではっきりわかりました。外の狂ったような騒ぎはまだ続いていて、コミューンの役人が姿を見せたので問い詰めると、一瞬躊躇した後で世にも恐ろしい言葉を放ったのです。

「槍の先につけているランバルの頭をオーストリア女に見せたいと、群衆たちが騒いでいるのです。衣類をはぎ取られた裸のランバル公妃は路上を引きまわされた後、タンプルに連れてこられ・・・」

想像を絶する残虐極まりない言葉の途中で気を失った私は、最後まで聞いていませんでした。私は声を上げることもなく気絶したと後で知らされました。

2025年8月12日

「都市の森」になったパリ市庁舎前広場

 昨年10月から改造が行われていたパリ市庁舎前広場。地球温暖化から市民を守るために、パリ市が決定した「都市の森」が実現し、大変貌。今までの石の広い広場に、約50本もの大木が植えられ、その足元には種々様々な背が低い木やシダ、ツタなどが植えられている。その数は2万を超える。散歩道もあるし、雑木林に入ったかと思える手つかずの自然もある。

パリ市庁舎前広場に生まれた「都市の森」

パリの真っ只中にいることを忘れそうな、
緑豊かな広場。済んだ空気で体も心も大喜び。

6~10mの高さの木々は、ドイツやオランダで育てられた中から選ばれ、都会の空気に耐えられるか何度か移植しながら観察。20年以上の樹齢のもある。気候の変動に耐えられる木であることが重要とされ、カエデ、エノキ、オークなどが多い。

こうして誕生したパリ市庁舎前広場の「都市の森」。豊かな木々の向こうに見える市庁舎は、離れた場所からだと、まるで、森の中にあるシャトーのよう。市庁舎はルネサンス様式の建物なので、この文化が発達したロワール河畔の名城かと思えるほど情緒がある。

まるでロワール河畔のシャトー。
市庁舎前広場では、毎年、音楽祭などイヴェントがあるので、
その実現を妨げないスペースは確保している。

同じ計画はコンコルド広場、ルーブル美術館の北側でも実現される。小さい空き地にも背が低い植物が植えられ、加速度的に緑が増えているパリ。予定では2030年には「都市の森」のおかげで気温が4度も下がるとのこと。

車追い出し作戦も続いているし、市民生活を優先する姿勢がはっきり伝わる、素晴らしい計画。

2025年8月10日

創業160周年を迎えたプランタン

 パリの老舗デパート「プランタン」がオープンしたのは1865年11月3日で、今年は160周年の記念すべき年。そのお祝いにショーウインドーはパリのモニュメントのイラストで飾られ、とてもポエティック。記念品も豊富だし、今年ならではのイヴェントも多い。

160周年のよろこびがあふれる
老舗デパート「プランタン」。

スタイリッシュで上品なショーウインドー。
パリのモニュメントのイラストがさわやか。

プランタンの創立者はジュール・ジャルゾーで、「ボン・マルシェ」デパートの店員だった。そこに頻繁に来ていた女優オーギュスティーヌ・フィジャックと結婚後、セーヌ川右岸にデパート創業を決意する。1836年に誕生した、郊外とパリをつなぐサン・ラザール駅から近い場所が選ばれる。

ジュール・ジャルゾー
1834-1916
オーギュスティーヌ・フィジャック
1821-1883
1889年のプランタン

普仏戦争や火災で、一時、経営困難になるが、それを何とか乗り越え、その後は周囲の建物や土地を購入し拡大。鉄橋が建物をつなぎ、エレベーターも2基設置。前代未聞の新しい試みは、多くの人を驚かせ、魅了。その後もアールヌーヴォー、アールデコなど、新しい芸術を取り入れ、1921年にはエスカレーターをいち早く設置。

歴史を刻んでいるエントランスのモザイク。



随所にある彫刻は、まるで美術館のよう。

最上階のクーポールは、息を呑むほど美しい。
アールヌーヴォーとアールデコの過渡期の作品で、
第二次世界大戦の際には、
すべてのステンドグラスをはずし保管していた
貴重な芸術作品。

過去の重要なアートを守りつつ、進取の精神が息づいているプランタン。160周年おめでとうございます!!!

部分的に歴史的建造物に認定されている、
もっとも古いファサード。
1889年の建物と比べると、
最上部が近代的になっているだけで、
それ以外は当時と変わっていないことに感嘆にしないではいられない。