2018年7月9日

メトロの駅名は語る 91

Invalides 
アンヴァリッド(8号線)

廃兵院を意味する駅名で、廃兵院はフランス語でオテル・デ・ザンヴァリッドとなります。

1706年、廃兵院を訪れたルイ14世。

アンヴァリッドは外国との戦いが多かったルイ14世の時代に、傷痍軍人の面倒をみるために、国王の命令で建築された療養施設。医師や看護婦が常時いる恵まれた環境でした。

その一部が現在は軍事博物館になっているし、アンヴァリッドのドームの地下にナポレオンの遺骸が葬られてからは、ナポレオンのお墓として多くの観光客が訪れています。

1789年7月14日、群衆たちは武器を求めてアンヴァリッドに向かい、
32,000の銃と27の大砲を略奪し、バスティーユを襲撃し陥落させたのです。
この日から革命は過激化します。

1789年7月14日、バスティーユが群衆によって陥落し、革命が始まりますが、その襲撃に必要な武器の多くはアンヴァリッドから略奪したもの。

革命で旧体制が崩壊。共和国になったフランスでしたが、ナポレオンが登場しまたたく間に皇帝を宣言、第一帝政時代を迎えます。

皇帝ナポレオンは1818年2月11日、傷痍軍人をお見舞いするために
アンヴァリッドに向かいました。


わずか10年ほどの帝政時代が終わりを告げ、ナポレオン失脚のために一致団結した連合軍の決定で、大西洋の孤島セント・ヘレナ島に流刑された皇帝は、1821年5月5日5時45分、その地で生涯を閉じます。


セント・ヘレナ島のナポレオンのお墓。

セント・ヘレナ島の総督、イギリス人のハドソン・ローの非人情な仕打ちで、かつてのフランス皇帝ナポレオンは、墓標すらない墓に葬られました。

部下ベルトランと散策しているときに訪れたゼラニュームの谷が気に入り、
「この島で世を去ることになったら、ここに葬って欲しい」と語った地に葬られたことは幸いなことでした。

けれども、彼の母レティシアが「息子の亡骸を、この腕の中に抱きたいのです」と、イギリス政府に再三願ったにもかかわらず、フランスに戻ることも許されず年月が経ちました。

「余がかくも愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりに憩うことを願う」という、かの有名な遺言が実施されたのは1840年12月15日。

1840年10月15日、
セント・ヘレナ島に到着したフランスの代表によって
ナポレオンの棺が開けられました。

偉大な皇帝を目の前にし誰もが感動の渦に巻かれた瞬間です。
夜更けにフランス船に移されたナポレオンは、
一路フランスへと向います。
自ら建築を命じた凱旋門でしたが、
その完成を見ずに流刑されたナポレオンは、
今、無言でその下をくぐります。
皇帝にふさわしい盛大な葬儀がアンヴァリッドで催され、
ナポレオンは遺言通りに
セーヌ川のほとり、フランス国民が見守る中に安住の地を見出しました。

それから100年後の同じ日の早朝、アンヴァリッドで低い太鼓の音が響きました。ナポレオンが最期まで思いを馳せていた息子ローマ王の遺骸が、ウィーンからパリに戻り、敬愛していた父と同じアンヴァリッドのドームの下に葬られたのです。

父が待つアンヴァリッドに葬られたローマ王。
21歳の若さで、
オーストリアの人質になったまま世を去りました。

ローマ王はナポレオンとオーストリア大皇女マリー・ルイーズの間に生まれ、ナポレオン失脚に伴い故郷に戻った母に育てられ、そこで21歳の若い生涯を閉じ、ハプスブルク家の墓地に埋葬されていました。

このようにアンヴァリッドは、ナポレオン崇拝者にとって欠かせないモニュメントです。