2021年4月17日

ナポレオン没後200年 ① セント・ヘレナ島での埋葬

 ヨーロッパの歴史に、計り知れないほどの影響を与えたナポレオンが没して、2021年は200年周年の記念すべき年。それにちなんで、パリ北東のラ・ヴィレットで大規模な展覧会が開催されます。予定では4月14日から9月19日まででしたが、コロナの影響で変更され、今の所はっきりした開催予定日は発表されていません。

ナポレオンが流刑地セント・ヘレナ島で世を去ったのは、1821年5月5日。毎年、皇帝の命日の5月5日には、棺が安置されているアンヴァリッドで、私も会員になっているナポレオン史学会主催のセレモニーがあり、その後ディナ―で「皇帝バンザイ」と乾杯するのですが、今年はそれも実現できなく、残念だし、さみしい限りです。

セント・ヘレナのナポレオン。

ナポレオンが暮らし、息を引き取った
セント・ヘレナのロングウッドの館。

ナポレオンが自ら言っていたように「小説のごとき人生」をセント・ヘレナで閉じたのは51歳のときでした。病に侵され、日に日に衰弱していることを意識していたナポレオンは、時間をかけて遺書を準備し、それが終るまで持ちこたえていました。遠征に行くときには、兵士たちの靴下の数まで決めていた人物にふさわしく、細部にわたる遺書でした。

セント・ヘレナでナポレオンが気に入っていたのは、緑豊かで、おいしい水をたたえる澄んだ泉がある「ゼラニウムの谷」でした。たくさんのゼラニウムがあたりに咲いていたので、そう呼ばれていたのです。ナポレオンはその泉の水を毎日飲んでいたし、万が一セント・ヘレナで葬られることになったら、ここに葬ってほしいと、もっとも忠実だった部下、アンリ・ガティアン・ベルトラン(1772-1844))に伝えていました。

ナポレオンが望んでいたのは、セーヌ川のほとりの、フランス国民が見守る中に眠ることでした。けれども宿敵イギリスが、自分の遺体を手放さないことを充分に察していたために、「万が一」とベルトランに伝えたのです。

1821年5月5日、忠実な部下に見守られながら、
ナポレオンは波乱万丈の生涯を閉じました。


1821年5月5日5時49分、長年の病の末、ナポレオンは部下たちに見守られながら息を引き取りました。デスマスクを取り、解剖し、心臓と胃を取り出しそれぞれ別の銀の容器に入れ、エタノールを注ぎ封鎖し、遺体と一緒に棺に納めらるのです。

棺の製作にあたった責任者の記録によると、最初の棺はブリキで綿が入ったサテンで裏打ちされ、同じ素材のマットレスと枕がありました。2番目のは木製で、3番目は鉛の棺。最後のはムラサキのビロードで覆われたマホガニーだったとなっています。つまり4重の棺でした。これは納棺に立ち会ったナポレオンの部下たちも全員記録に残しています。

ヴィニャリー神父が皇帝の体を清め、護衛隊猟歩兵のユニフォームを着せ、白いカシミアの半ズボン、ブーツをはかせたナポレオンを最初の棺に安置しましたが、狭すぎたので、頭に帽子をかぶせることができず、皇帝の膝の上に置くことにした、と忠実な部下ベルトランは綴っています。胸には、栄えあるレジオンドヌール大勲章が飾られ、銀の容器に入った心臓と胃は両脚の間に置かれました。その後、しっかりとハンダ付けし、次々に棺に入れたのです。

墓の準備は7 日から始まりました。深く掘った穴をセメントで固め、その上に3つの重い敷石をのせ、周囲を鉄柵で囲み、棺を待つばかりとなりました。

ヴィニャリー神父が先頭を歩き、
その後ろに4人の部下が守るナポレオンの棺が続き、
さらにその後ろで皇帝が愛していた馬が歩を進めていました。


9日、ナポレオンが最後の日々を過ごしていたロングウッドの館を離れ、イギリスの駐屯部隊が凛々しい制服で立ち並ぶ中を、ヴィニャリー神父を先頭に、厳粛な葬列は「ゼラニウムの谷」へと向かっていきました。ナポレオンは四頭の馬にひかれる馬車に乗り、その四隅を部下たちが守っていました。ナポレオンから遺言執行人に指名されていたベルトラン、モントロン、マルシャンと、ベルトランの息子です。その後ろにはナポレオンの愛馬が続いていました。イギリス総督のハドソン・ローは、さらにその後ろを歩いていました。

神父がミサをあげ、棺がおろされ、再び祈りが捧げられ、花崗岩の墓石が置かれ、フランス皇帝ナポレオンは異国の土の中に姿を消したのです。ゼラニュウムと柳がそのすぐ傍で見守っていました。墓石には何も書かれませんでした。フランス側とイギリス側の折り合いがつかなかったからです。

「ゼラニュウムの谷」のナポレオンのお墓。

無名の人となったナポレオンは、フランスから遠いその地に、長い間ひっそりと眠っていたのでした。年老いたナポレオンの母の、血を吐くような嘆願にもかかわらず、イギリスはナポレオンの遺骸をフランスに戻すことを頑固に拒み続けていたのです。長年の交渉の結果、皇帝がフランスに戻ったのは、19年後でした。

つづく・・・