2024年4月14日

マリー・アントワネット自叙伝 25

 お兄さまがヴェルサイユ宮殿に

お母さまと共同でオーストリアを治めているヨーゼフ2世お兄さまが、ヴェルサイユ宮殿にいらしたはこの上もない喜びでした。何しろ結婚してから家族に会うのは初めてのこと。うれしくてうれしくて、子供のようにはしゃいでしまいました。

ヴェルサイユの森を切り開いて建築した宮殿なので、
周囲は深い緑で囲まれていました。


長い歴史を刻んだ家に生まれ、大公女として育てられ、14歳で見も知らない外国人と結婚させられ、いじわるな女官長や婚期を逃した叔母たちに悪知恵を叩き込まれ、ひとりも味方のいないまま、わけのわからない義務を果たしていたのですから、疲れきっていました。


そうしたときに頼りがいがあるお兄さまがいらしたのです。血を分けた家族に会えるのは最高です。気を使う必要はないし、いろいろな不満を打ち明けても、告げ口される心配もないのだから。もう、思いっきり甘えようと歓喜した私でした。

大好きな頼りがいがあるヨーゼフ2世お兄さま。

驚いたことにお兄さまは、偽名を使っていたのです。ファルケンシュタイン伯爵。それがお兄さまがフランス滞在中の、1777年4月18日から5月30日まで使っていたお名前。もちろんヴェルサイユ宮殿内にお兄さまのお部屋を準備していたのですが、それを断って、安いホテルをわざわざ選んでいました。なぜかというと、身分がわかると儀式に時間を取られたり、行動範囲も狭くなる。国の本当の事情を知るためには、無名でいるのが賢明と判断したからなのです。何て素晴しい考えの持ち主でしょう。自分の兄ながら尊敬します。


4月18日にパリ入りしたお兄さまは、駐仏オーストリア大使公邸に行きご挨拶。翌日、メルシー大使と一緒にヴェルサイユ宮殿に向かう予定だったのですが、大使は病気で動けなく、代わりにヴェルモン神父さまが同行しました。ヴェルモン神父さまは、まず、私のお部屋にお兄さまをお通しして、久しぶりの再会を水入らずで楽しめるように席を外してくださいました。私の監視役として、お母さまに告げ口ばかりしているメルシー大使に比べて、何て理解がある人でしょう。その後、夫のお部屋には私がご案内しました。それからあまり気が進みませんでしたが、義理の弟たちにもお兄さまをご紹介。敏感なお兄さまは即座に、プロヴァンス伯とアルトワ伯のいじわるで貪欲な性格を見抜いたようです。

お兄さまのヴェルサイユ宮殿訪問は、
この上ない喜びでした。

お兄さまはかなり精力的に動き回って、パリではアンヴァリッドやゴブラン織り工場、オテル・デュ病院などを訪問。その他地方も視察。ブレスト軍港の視察、リヨンやマルセイユ、ボルドーにも足を運んだそう。フランスの様々な面を見て回ったのですが、それは君主として必要だったから。


でも、一番大事な目的は、後で知ったことですが、国王にお会いしてアドバイスをすることだったのです。とういうのは、結婚して7年もたつのに、ルイ16世に世継ぎが生まれていなかったからなのです。お母さまはそのことをずっと心配していて、もっと国王に優しくしなさいとか、甘えた態度を示しなさいとか、手紙でうるさく言っていたのですが、夫は私にまったく無関心で、結婚して7年もの長い間、私に指一本触れることがありませんでした。


優しいのは優しいけれど、それだけではやはり不満。何でも好きなようにさせてくだったことは感謝するけれど、あまりにも無関心なので、私に女性としての魅力がないのかと悩んだこともありました。宮廷の殿方たちは、皆、私が魅惑的だとおっしゃるのに、夫がいかにド近眼だとはいえ、あんまりです。


王妃の役目は国に世継ぎを授けることだと、お母さまはすごくしつこかったけれど、こればかりは・・・・だから私はうさ晴らしのために、パリに頻繁に行ってオペラや劇、舞踏会、ときには賭け事に夢中になっていたのです。ドレスやヘアスタイルが日に日に派手になった理由も、今考えると気晴らしだったのかもしれない。


お兄さまは男同士だからと夫を気楽にし、心置きなく話し合って、どうやら夫の体に欠陥があるとわかったので、手術をすすめました。私の人生に大きな変化が起きたのは、その翌年でした。

 

フランスにいらしたとき、35歳のお兄さまは独身でした。美しく優しいパルマ公女マリア・イザベラさまと結婚し、相思相愛だったのですが、お妃が結婚からわずか3年後に病死したのです。お兄さまの嘆きはとても大きく、もう2度と結婚しないのではないかと思ったほどでした。でも皇帝にお妃がいないのは、国民にとっても諸外国の手前も許されないことです。「気が進まない」などと贅沢を言っている場合ではないので、バイエルン選帝侯の王女マリア・ヨーゼファさまを新たなお妃として迎えました。ところが彼女も結婚2年後に病死し、それ以後お兄さまは再婚しなかったのです。子供もいませんでした。

お兄さまの最初のお妃マリア・イザベラさま。

2番目のお妃マリア・ヨーゼファさま。


ウィーンで国務に専念していたお兄さまの耳にも、デュ・バリー夫人の噂は届いていたようです。ルイ15世亡き後、ヴェルサイユ宮殿から追い出されたことも、ポント・ダム修道院で、しばらくの間つつましい日々を送っていたことも知っていました。それだけでなく、1776年、つまりお兄さまがフランスに極秘でいらした前年に、ルイ15世逝去で取り上げられたルーヴシエンヌの館を、デュ・バリー夫人が取り戻したことも知っていて、彼女に会いにその館に意気揚々と行ったのです、ルーヴシエンヌの館に再び暮らしたいと願ったデュ・バリー夫人は、自ら国王に、つまり私の夫に頼み、気が弱い夫はすぐに同意したのです。

デュ・バリー夫人が暮らしていた
ルーヴシエンヌのシャトーの一部。


お兄さまは私やお母さまには、短時間しかいなかったと報告したけれど、とんでもない。実際には2時間もの長い間ルーヴシエンヌにいたのです。でも、こう見えても私は寛大で、やさしい心も持っている人。本当は前国王の前愛妾のことは、大して気にならなかったのです。それよりも一刻も早く母親にならなければという思いで一杯でした。