2024年8月29日

パラリンピックが始まりました

 8月28日、パラリンピックのオープニングセレモニーが行われました。軽快な音楽に体を動かしながら、選手たちが元気いっぱいにシャンゼリゼからコンコルド広場までパレード。全員がそろうと、様々に変化するレーザー光線の中でダンス、歌、演奏などのパーフォマンスが、オベリスクの周りで続く。特に印象に残ったのは、ハンディキャップがある歌手やダンサーも多数それに参加していたこと。オリンピックに比べて競技が少なく人々の関心も大きくないので、他の国では全競技を報道しないことが多かったそう。でもパリの場合は全て平等にということで、全種目をテレビで報道することに。

セレモニーの華やぎを伝える「ル・フィガロ」
凱旋門にもパラリンピックのロゴが飾られ、
選手たちを応援します。
競技場の周りはもちろん、
近くの道路にも明るく楽しいオリンピックカラーが。

オリンピックで世界中を魅了した気球形の聖火台も、期間中、毎日夕方に明かりを灯してパリの空に舞い上がります。パラリンピック最終日は9月8日。クロージングセレモニーも華やかに行うとのことで大いに期待。

パラリンピックの選手たちの活躍を見ると、そのパワーに圧倒される。だから出来るだけ多くの競技をテレビで観るつもり。不自由な体であるにもかかわらず、それに屈することなく精いっぱい頑張っている姿がとても美しいし、勇気や希望が湧いて来る。よくここまで、と長い間の厳しい訓練と強い精神力を思うと胸が熱くなる。皆さん頑張ってね。

すべてのアスリートにメダルをあげたい💓💕💖

パラリンピックのマスコット
フリージュちゃんも応援しています。

2024年8月25日

アラン・ドロン、フランスの誇り

 8月18日朝3時に88歳の生涯を閉じたアラン・ドロンへのオマージュは、一週間たった今でも続いていて、彼がいかにフランス映画界の破格のレジェンドだったか伝わってくる。とくに、長年暮らし世を去った屋敷の門の前に捧げられた花束の山をテレビで見るだけで、彼の死を惜しむ人がいかに多いかわかる。アラン・ドロンの3人の子供たちも、捧げられた花束や記帳に訪れる人々が後を絶たず、非常に感激しているとコメントを発表。末っ子のアラン=ファビアンは何度も涙をぬぐいながら、今は亡き父に捧げられた花の山の前に立ちつくしていたという。

キオスクではアラン・ドロンが表紙を飾る雑誌を
一番目立つところに置いている。

多くの雑誌が特集を組んでいる。

病院はイヤだ、自宅でこの世に別れを告げたい、葬儀は近親者だけによる静かなのものであって欲しい。それがアラン・ドロンの最後の望みだった。彼は家族に見守られながら、緑豊かな小さな村ドゥシーで、多くの人を魅了したブルーの瞳を閉じた。

8月24日夕方4時に始まった葬儀に参列したのは約40人。その人数は彼が自ら決めていたし、自宅の庭に建築させた小さな礼拝堂でミサを行うことも、司祭も決めていた。生前に依頼していたのはディ・ファルコ元教区司祭で現在82歳。この日、早朝から屋敷周辺の道路は閉鎖され、上空飛行も禁止。約100人の警官が周囲を固め、ミサに参列する人の携帯も礼拝堂には持ってはいれないという。もちろん、すべての報道機関も禁止。葬儀が始まる前に息子2人が屋敷の前に集まっている人々の前に姿をあらわし「皆さんありがとう。父はここにいます。私たちを見ています」とお礼を伝え、捧げられた花束の山をじっと見つめていました。

愛犬家のアラン・ドロンはこれまでに約50匹の犬を飼っていて、世を去るたびに庭に葬り名前を書いていた。20年ほど前に礼拝堂をそのすぐ近くに造らせたのも、忠実だった犬たちに、いつまでも囲まれていたかったからだろうか。

1971年に購入したドゥシーの120ヘクタールの敷地内にあった古いシャトーを取り壊し、自分好みの館を建築させ暮らしていたフランス映画界の寵児は、ときにはスイスに滞在することもあったが、彼にとってドゥシーの高い塀に守られた家はパラダイスだった。広いサロンには大きな暖炉があり、室内プ-ル、ゲーム室があり、庭に大きな湖を掘った。

晩年のアラン・ドロンはバッハを聴き、歴史書を読み、数多くの絵画とブロンズの彫刻に囲まれ犬と共に暮らしていた。孤独だと語ることも度々あったという。彼が亡くなったのは聖母マリア昇天日の3日後だった。小さい頃から聖母マリアを尊愛し祈りを捧げていたと知って、聖母マリアに導かれる幸せそうな顔のレジェンドの姿が、絵を見るように目に浮かぶ。4歳のときに両親が離婚し、それぞれ再婚したために、きちんとした居所を長い間見つけられなかったアラン・ドロン。母は再婚し子供が生まれると、アランがいることも忘れほったらかしで、母親の愛に浸ることもなく成長。庭に礼拝堂を建築させたのは、誰にも邪魔されることなく、一人静かに聖母マリアに祈りを捧げたかったからだろうか。「信じられるのは聖母マリアだけだ。だから祈りを捧げることが多い」とインタヴューに答えたこともあった。彼は友人が少ないとも語っていた。

ド・ゴールを英雄と称え、尊敬し、いつまでも心の中に生き続ける人と語っていたアラン・ドロンもまた、フランス映画界に旋風を巻き起こし、その価値を世界に広めた歴史に残る人。激動の人生を生きた彼は去っていった。けれども、数々の名作映画は私たちにその唯一無二の存在を語り続ける、いつまでも・・・

2024年8月19日

アラン・ドロンの思い出

偉大な俳優アラン・ドロンが8月18日早朝に、パリから約100キロのロワレ県ドゥシーにある自宅で、家族に見守られながら88歳の生涯を閉じました。ここ数年間、病と闘っていたことは報道で知られていたけれど、フランス映画界を長年照らしていた華やかな輝きが消えたような寂しさはぬぐい切れない。当然、大統領をはじめとし各界の人のオマージュは後を絶たない。亡くなった当日の夜のニュースは、30分のすべてを彼に捧げていて、いかに稀有な人であったか改めて感じさせた。

24歳の美しいアラン・ドロン。

アラン・ドロンの名を世界中に知らしめた
不朽の名作「太陽がいっぱい」1960年。
共演はマリー・ラフォレ。

大先輩の俳優ジャン・ギャバン、リノ・ヴァンチュラと。

幸運にも数回お会いする機会に恵まれた際の一番深く印象に残っているのは、高田賢三さんと一緒にレストランでディナーをいただいたときのこと。賢三さんと私は日本人らしく、時間より早めに到着し、アラン・ドロンを待っていると、突然、私の携帯が鳴りボティーガードが約5分遅れると言う。わずか5分遅れるだけのことなのに、と、その律儀さに驚くばかり。ドアが開き、アラン・ドロンは華やかさをまといながら、風を切るように颯爽と歩いて席に向かう。眩しいほどのオーラが全身からほとばしっていたのが、今でもくっきりと目に浮かぶ。

「ボク、夢見ているみたいだ。《太陽がいっぱい》を観た時から憧れていたんだからね」
アラン・ドロンの隣に座っていた賢三さんは、嬉しさで顔をほころばせながら言う。
食事の途中でアラン・ドロンは、
「ケンゾー、わかるだろう?」
と言いながら、急に賢三さんに体を擦りよせる。何のことかわからないでいると
「香水ケンゾーを付けているのさ」
今日のためにケンゾーの香水を買って付けたことは、あきらかだ。世界中にその名を知られているほどの著名人が、このような心遣いをするのか、何と繊細な人か、と感激しないではいられなかった。シンプルで話題が豊富で、宝石のようなひとときでした。

アラン・ドロンとの貴重な一枚。
レストランとは別の機会のときの写真。

映画界の伝説の人アラン・ドロンは、亡き後、自宅の庭の愛犬たちの近く葬って欲しいと望み、その許可もすでに取っていたし、自分のためのチャペルも建築させていたという。生前、絶え間なく騒がれていたので、今後は静かに休みたいのでしょう。どうぞ安らかに・・・・

2024年8月17日

オリンピックが終わり、パラリンピックが始まる前の再会

 熱狂に包まれた2週間のオリンピックが終わり、パリから離れていた友人たちも戻り、待望の再会。夏のヴァカンスシーズンだから、「何していたの?」「どこに行っていたの?」が挨拶の言葉。パリを離れていて一番恋しいのは、おいしい和食。ということで、サンジェルマンデプレのなつかしい和食レストランへ。

オーダーをフランス人の友人に任せると、あれもこれもと食べきれないほど注文。よっぽど和食に飢えていたに違いない。ほうれん草のお浸しに始まり、ナスの田楽、お刺身盛り合わせ、てんぷら盛り合わせ、数種類の手巻きと握り寿司、鴨南蛮ソバ、飲み物は冷日本酒。

お気に入りの和食レストランで久々の再開をお祝い。

食べきれないほどオーダーしたけれど、
結局、どれもこれもおいしくて全部いただきました。

冷房はなく、外の爽やかな空気に触れながらのディナーは夏の最高のごちそう。時々サントロペにいるかと思うような大胆な服装の女性が通ったり、レストランから流れて来る音楽に合わせて路上で踊る若者もいる。新聞売りが「フランスの首相が決まった、レオン・マルシャン(オリンピックで金メダルを4つもとった水泳のヒーロー)だ」と声をあげながら通り、赤いバラを抱えて歩く花売りおじさんもいる。

いつものパリに戻った感じ。とはいえ、28日からパラリンピックが始まるから、警官が至る所にいて見守ってるので、とても安心。この後またヴァカンスの続きのために、パリを離れるから次の再開は9月かしら。8月中旬にトリオが揃ってパリにいたのは奇跡的。

2024年8月15日

マリー・アントワネット自叙伝 33

かわいそうな二番目の王女


後味が悪い事件に巻き込まれ、その上、国民から嫌われ始めていることを知ってかなり落ちこんでいましたが、救われるような出来事もありました。思いがけずに4人目の子供に恵まれたのです。


1786年7月9日に生まれたのは王女でした。ちょっと小さめでしたが、元気な産声をあげ、他の子供たちと同じように、その日のうちに宮殿の礼拝堂で洗礼を受けました。名前はソフィー=エレーヌ・ベトリクスと決まりました。世間でどのように悪口を言われようとも、子供たちに囲まれる幸せがそれを吹き飛ばしてくれました。母親になるのは本当に素晴らしいことです。日々の些細なことのひとつ一つが、宝物のように大切でした。

二番目の王女
ソフィー=エレーヌ・ベアトリス

順調に育っていたかのように思っていたのですが、ソフィー=エレーヌ・ベアトリスの容態が急に悪くなり、その原因もはっきりわからないので、心配が日に日に大きくなっていきました。結核かも知れないし、生まれつき虚弱体質だったのかも知れない、脳に異常がある可能性もあるとも言われました複数の医者が診察してもきちんとした原因がわからないまま、1歳のお誕生日を迎えることもなく、私たちに永遠別れを告げたのです。1787年6月19日でした。


その日、養育係のトゥルーゼル侯爵夫人が乳母車に娘を乗せてお散歩に出かけたのですが、宮殿に帰ってときにはすでに世を去っていたのです。トゥルーゼル夫人はぐったりした娘を腕に抱き、ベットに横たえると、あまりにも短い命を終えた小さな王女が哀れで、女官たちは泣き崩れたそうです。誰もどのように私にこの悲劇を伝えようかと途方に暮れていたのでした。胸騒ぎを覚えた私が娘の部屋に入り、血の気を失った娘と泣き続ける女官たちを目にしただけで、私は全てを理解し気を失ってしまいました。

トゥルーゼル侯爵夫人

旅だった娘は小さな棺に寝かされて、翌日、パリの北にある王家のお墓サン・ドニ大聖堂に葬られました。宮廷の習慣によって私は埋葬に伴うことはできまんでした。母親に最期まで傍にいて欲しかったのではないかと思うと、王女があまりにも哀れで、私は数日間、食事ものどを通りませんでした。

小さい命を終えた娘。

幸い、長女と2人の王子がいたからこそ、この過酷な悲劇を乗り越えられたのだと思っています。子供たちはいつも私に最大の慰みを与えていました。養育係のトゥルーゼル侯爵夫人に、お手紙で当時の気持ちを伝えた覚えがあります。

・・・愛する他の子供たちがいなかったら、死にたかったほどです・・


赤い服は母親の子供たちへの愛を表現する、
古典的な構図のヴィジェ=ルヴランの代表作。


首飾り事件で国民から非難を受けた王妃の信用を取り戻すために、お抱えの女流画家ヴィジェ=ルブランに肖像画を描いてもらうことにしたのは、ソフィー=エレーヌ・ベアトリスを身ごもっていたときでした。子供たちに囲まれた良き母親としてのイメージをという意図があったのです。けれどもその絵が完成する前に娘は神に召されてしまったのです。そのために、彼女は空の揺り籠で表されています。この絵を見るたびに胸がさかれる思いだったので、絵は壁には飾らないことにしたほど、私の悲しみは大きかったのです。

2024年8月12日

オリンピックの革命

 セーヌ川でのオープニングセレモニーで世界を驚愕させ、マンネリ化したオリンピックに強烈な刺激を与え、新たな息吹を吹き込んだパリオリンピック。コンコルド広場、エッフェル塔、アンヴァリッド、ヴェルサイユ宮殿などモニュメントが見える特設会場で競技が行われたのも、街中を流れるセーヌ川で競泳が行われたのも前代未聞。そして、あの、夕刻からパリの空高く舞い上がる気球形の聖火台。

多くの人を感動させたパリオリンピック。
心の奥深くに刻まれた忘れがたい美しい光景。

こうした全てがフランス人ならではの独創的な発案。これだけでもオリンピックの革命と呼ぶのにふさわしい。それなのに、最後を飾るマラソンがまたすごい。

男性マラソンで締めくくるのが従来のオリンピック。それが今回は男性マラソンが8月10日で、女性マラソンはクロージングセレモニーが行われる晴れの11日。出発点はパリ市庁舎前広場で、ヴェルサイユに向かい、そこで折り返しパリのアンヴァリッドがゴール。走行距離は42,195km

パリ市庁舎前広場からヴェルサイユに向かうマラソンは、革命が悪化を辿る1789年10月5-6日の女性たちを中心とする行進を彷彿させる。10月5日、パンも食べられない悲惨な生活を国王ルイ16世に訴えるために、ヴェルサイユ宮殿まで行進しようと、パリ市庁舎前広場に集まったのは7000人の女性と100人の男性だった。市庁舎の兵器庫から大砲を持ち出し、槍を振りかざし空腹と寒さと戦いながらヴェルサイユに向かう群衆たちは、途中から雨が降り出したにもかかわらず、宮殿への行進を止めることはなかった。翌朝、暴徒と化した彼らは宮殿内に入り込み、国王一家は捕らわれパリへ連行され、二度とヴェルサイユに戻ることなく王政が廃止され、共和国が樹立された。

マラソンの出発点にしても、ヴェルサイユに向かうのも、ゴールがアンヴァリッドなのも、すべて、革命を意識しているように思えてならない。歴史的に名高いバスティーユ襲撃に必要な武器を、革命家たちが奪ったのはアンヴァリッドの武器庫だった。

パリオリンピックの金、銀、銅メダル。
中央のフランスの国の形を表す六角形に、
修理の際に取りはずし保存しておいた
1889年のオリジナルのエッフェル塔の柱の一部を使用。
その周りに施した太陽は凹凸があり、ひときわの輝きを放っている。
ギュスタヴ・エッフェエルお気に入りの宝飾店ショーメがデザインし、
造幣局が製造。


オリンピックの最後を飾るマラソンも型破りで、選ばれたアスリートだけでなく、一般の人のマラソンもあり「市民マラソン」と呼ばれ、正式のマラソンと同じ日の夜に開催。コースはふたつ。アスリートと同じコース同じ距離を走るのと、パリ市内だけの10kmの短いマラソン。

競技場スタッド・ドゥ・フランスでのクロージングセレモニーは、世界的に有名なフランスの軽快な歌を選手と観客が一体となって歌い、クラシックやポップのライブが響き渡った。ギリシャのサモトラケのニケが姿を現し、空中に浮かぶピアノが奏でられ、アメリカの俳優トム・クルーズがスタジアムの屋上からワイアー付きで舞い降り、オリンピック旗を舞台で受け取り、振りかざし、次の開催地ロサンゼルスに向かうためにバイクに乗り、その後、勢いよくパリを滑走し、飛行機でロサンゼルスを目指す映像が流れる演出。まるでアクション映画をみる思い。

夜9時に始まったセレモニーは真夜中まで続き、聖火が消され、熱狂に包まれたパリオリンピックは終わった。28日からはパラリンピックが始まり、新たな感動を世界に届けるでしょう。


アートの国フランスならではの
コンテンポラリーで品格あるオリンピックのロゴ。


すべてが新しく生まれ変わっようなパリオリンピック。近代オリンピックの生みの親クーベルタン男爵の祖国フランスは、今年、過去から勢いよく脱出し、独創的かつ斬新なオリンピックを世界中に高らかに示した。それは、新時代到来の歓喜が満ち溢れているスポーツの祭典だった。

カルーセルの凱旋門と聖火台が相まって生む幻想的な世界。
あまりの美しさに声も出ない。胸が高まり熱い涙が浮かぶのみ。

絶賛の嵐を受けたこの聖火台は
パリの新しいモニュメントとして残すことに決定。
場所は今のところ未定。

どの競技場でもフランス人観客は愛国心の固まりとなり、国歌を力強く歌い、選手たちの活躍も期待を大きくうわまわり、過去最多の64ものメダルを獲得。フランス中を熱狂の渦に巻き込み、全国民の団結を示した忘れがたい歴史的オリンピック。

パリオリンピック2024
たくさんの感動をありがとう!!!

2024年8月6日

オリンピックのマスコット

オリンピックのマスコットはフリージュと呼ばれ、フリジア帽がアイディアの元。自由の象徴の赤いフリジア帽は、フランス革命の際に革命に同調する人が被っていて、捕らわれ、王位を失ったルイ16世も被せられた共和国の象徴。

パリ・オリンピックのマスコット、フリージュ
赤い三角帽フリジアがアイデイアの元で、
自由の象徴。

パラリンピックのフリージュは片足が義足。
革命で王位を失ったルイ16世も
自由の象徴であり共和国を具象化した
フリージュ帽を被さられる運命に。

ドラクロワの名作「民衆を導く自由の女神」の
フランスを代表するマリアンヌもフリジア帽を被っている。
1830年