2024年8月15日

マリー・アントワネット自叙伝 33

かわいそうな二番目の王女


後味が悪い事件に巻き込まれ、その上、国民から嫌われ始めていることを知ってかなり落ちこんでいましたが、救われるような出来事もありました。思いがけずに4人目の子供に恵まれたのです。


1786年7月9日に生まれたのは王女でした。ちょっと小さめでしたが、元気な産声をあげ、他の子供たちと同じように、その日のうちに宮殿の礼拝堂で洗礼を受けました。名前はソフィー=エレーヌ・ベトリクスと決まりました。世間でどのように悪口を言われようとも、子供たちに囲まれる幸せがそれを吹き飛ばしてくれました。母親になるのは本当に素晴らしいことです。日々の些細なことのひとつ一つが、宝物のように大切でした。

二番目の王女
ソフィー=エレーヌ・ベアトリス

順調に育っていたかのように思っていたのですが、ソフィー=エレーヌ・ベアトリスの容態が急に悪くなり、その原因もはっきりわからないので、心配が日に日に大きくなっていきました。結核かも知れないし、生まれつき虚弱体質だったのかも知れない、脳に異常がある可能性もあるとも言われました複数の医者が診察してもきちんとした原因がわからないまま、1歳のお誕生日を迎えることもなく、私たちに永遠別れを告げたのです。1787年6月19日でした。


その日、養育係のトゥルーゼル侯爵夫人が乳母車に娘を乗せてお散歩に出かけたのですが、宮殿に帰ってときにはすでに世を去っていたのです。トゥルーゼル夫人はぐったりした娘を腕に抱き、ベットに横たえると、あまりにも短い命を終えた小さな王女が哀れで、女官たちは泣き崩れたそうです。誰もどのように私にこの悲劇を伝えようかと途方に暮れていたのでした。胸騒ぎを覚えた私が娘の部屋に入り、血の気を失った娘と泣き続ける女官たちを目にしただけで、私は全てを理解し気を失ってしまいました。

トゥルーゼル侯爵夫人

旅だった娘は小さな棺に寝かされて、翌日、パリの北にある王家のお墓サン・ドニ大聖堂に葬られました。宮廷の習慣によって私は埋葬に伴うことはできまんでした。母親に最期まで傍にいて欲しかったのではないかと思うと、王女があまりにも哀れで、私は数日間、食事ものどを通りませんでした。

小さい命を終えた娘。

幸い、長女と2人の王子がいたからこそ、この過酷な悲劇を乗り越えられたのだと思っています。子供たちはいつも私に最大の慰みを与えていました。養育係のトゥルーゼル侯爵夫人に、お手紙で当時の気持ちを伝えた覚えがあります。

・・・愛する他の子供たちがいなかったら、死にたかったほどです・・


赤い服は母親の子供たちへの愛を表現する、
古典的な構図のヴィジェ=ルヴランの代表作。


首飾り事件で国民から非難を受けた王妃の信用を取り戻すために、お抱えの女流画家ヴィジェ=ルブランに肖像画を描いてもらうことにしたのは、ソフィー=エレーヌ・ベアトリスを身ごもっていたときでした。子供たちに囲まれた良き母親としてのイメージをという意図があったのです。けれどもその絵が完成する前に娘は神に召されてしまったのです。そのために、彼女は空の揺り籠で表されています。この絵を見るたびに胸がさかれる思いだったので、絵は壁には飾らないことにしたほど、私の悲しみは大きかったのです。