2024年12月26日

マリー・アントワネット自叙伝 43

 逃亡の準備を始めました

夫が逃亡に賛成したので、本格的に準備にかかりました。けれども極秘のうちに事を運ばなければならないので、容易ではありませんでした。行き先は夫の希望で、モンメディに決まりました。

ベルギーとの国境の町モンメディの要塞。

この町はベルギーとの国境にあり、要塞があり防御に適した町でしたし、王党派のブイエ侯爵が優秀な軍人と駐屯していたのです。そこに到着したら、ブイエ侯爵率いる軍にオーストリア軍が加わり、強力な軍隊となって革命を一気に押しつぶす計画だったのです。モンメディの郊外にトネルというシャトーがあり、そこに私たちが滞在することも決まっていました。当時はベルギーという独立国はなく、オランダ、ルクセンブルクと合わせてネーデルランドと呼ばれ、ハプスブルク家の支配下にありました。ですから、万が一、革命軍相手の戦いが上手くいかない場合には、安全地帯のベルギーに簡単に逃れられるのです。私を含めた誰もが、この計画を素晴らしいと思ったのは当然です。まるですでに逃亡が成功したように心が躍りました。


ブイエ侯爵
名門貴族で勇敢な将軍。


常に国王として国民に心を配る夫は、ブイエ侯爵の軍隊に属している軍人は、ドイツ人やハンガリー人、クロアチア人のなど外国人が多かったので、フランス人同士の戦いにならないからといいとも思ったようです。このような非常事態に陥っているときでさえも、国民のことを思うなんて、夫は気立てが良すぎます。私のようにもっと利己主義な人だったら、私たちの運命も変わっていたでしょうに。


逃亡に必要な馬車は、実はフェルセンさまが、前年の暮れにすでに注文して下さっていたのです。あの方と私はずっと以前から、パリを後にするときのことを考えていました。ミラボー伯爵がいなくなって頼れるのはあの方だけ。それをよくわかっていたフェルセンさまは、私たちをいかにして安全に逃亡させられるか、そればかり考えていらしたのです。


夫がいつかパリから脱出するのに同意する日がくると信じていたので、馬車も昨年末に発注して準備を整えていたフェルセンさま。何て機敏で実行力のある方。このような方が守って下さっている限り、不幸になるはずがないと心から思っていました。私のフェルセンさまに対する想いは、高まる一方でした。そしてフェルセンさまも私のためであれば、たとえ命が危険にさらされようと、何でもする覚悟があったのです。

 

逃亡に必要な莫大な資金も、フェルセンさまが奔走して集めて下さったのです。スペインやナポリ、イギリスなどに頼んでも協力を得られなかったばかりか、私の実家オーストリアにさえ断られたのです。メルシー大使を通して兄レオポルト2世に、兵と資金援助を私から頼んだこともありました。それに対するお返事は、「無事にパリから脱出しモンメディに到着したことを確認したら考える」でした。信じられない事です。妹一家の命がかかっているというのに、何て冷たいのでしょう。もっとも当時オーストリアはロシアの威勢におびえていたし、フランス革命の火が自国に飛び散ってくる危険もあったので大変だったのでしょう。それに兄は質素な人なので、国民の税金を使いたくなかったのかも知れません。


幸いなことにフェルセンさまには財産があったし、彼の友人の富豪の貴族も、調達してくださったのです。その一人がドイツ出身の偉大なロシア貴族、ドゥ・コルフ男爵夫人でした。実は馬車の手配でも、フェルセンさまはドゥ・コルフ男爵夫人にお世話になったのです。フェルセンさまより15歳年長の男爵夫人は、ロシアの将軍と結婚し、ロシア宮廷でもてはやされていたようです。未亡人になった後、サンクトペテルブルクを離れ、パリでお母さまと暮らしていたのです。お母さまはスウェーデンの銀行家と結婚していたのですが、夫に先立たれ未亡人になっていました。


コルフ家の紋章

母と娘は揃って莫大な財産があり、セーヌ河畔の豪邸に暮らし、社交界で有名でした。1778年のある日、フェルセンさまはその館で催されたサロンに招待され、親しくなったのです。 男爵夫人を心から信頼していたフェルセンさまは、逃亡に必要な馬車の発注を彼女に依頼し、彼女はセーヌ左岸の確かな腕の職人ジャン・ルイに任せました。


ブイエ伯爵は、私たちが全員が同じ馬車に乗るのは危険がありすぎるので、小型馬車二台に分乗することをすすめていました。その方が速度が速いし、目立たなくていいということなのです。でも、夫と離ればなれになりたくなかった私は反対し、夫、私、夫の妹、2人の子供、養育係り、つまり6人が乗れる大型馬車の発注になったのです。長時間乗っているからには、居心地がよくきれいな方がいいので、馬車の装飾に関しても、フェルセンさまに私の希望を伝えました。馬車の内部には白いキルティングを張り、カーペットは赤で、クッションはグリーンと白。ドゥ・コルフ男爵夫人は、はっきりと希望を伝え、何度も早く仕上げるようにと、催促して下さったそうです。


彼女はロシアまでの長旅に必要なのだと職人に語っていたのです。そのために、頑丈で、しかも乗り心地がいい馬車が必要なのだと。頭がいい女性です。彼女が馬車を発注したのは1790年12月22日で、完成したのは1791年3月12日でした。でも、急がせたのに、すぐに引き取りに行かなかったので、馬車職人はいぶかしがっていたようです。男爵夫人にはパスポートのことでもお世話になりました。彼女は逃亡が発覚したときに自分の身も危ないと考え、ご自分のパスポートも頼んでいらしたのです。

  

フェルセンさまの愛人とささやかれていたイタリア人、エレオノール・シュリヴァンさまも、かなりの額を貸してくださったようです。もっとも当時は、エレオノールさまがあの方の愛人だったとは知りませんでした。もし知っていたら、私はどれほど苦しんだことでしょう。でも、彼女には感謝しています。完成した馬車をフェルセンさまが引き取った時に、あの方の館に置くのは危険なので、隠し場所が他にないか探していたのです。そのときエレオノールさまは、クロフォード卿と住んでいた、クリシー通り25番地の館の厩舎を提供して下さったのですから。


エレオノール・シュリヴァンさま

このように様々な方々の協力なしでは、逃亡の準備はできませんでした。お借りしたお金はすべて、無事に脱出したときにお返しするつもりでいましたから、借用書にサインもしました。逃亡が成功することを信じていましから、たくさんのドレスも、ある程度の宝飾品も、前もってシンプルな馬車でモンメディに送らせました。

義理の弟アルトワ伯
革命が起きるとすぐに亡命し、ロンドンやトリノ、コブレンツで
亡命貴族たちと反革命運動を派手にしていました。

極秘のうちに準備をしていたのに、ドイツのコブレンツに亡命していた義弟のアルトワ伯を筆頭に、有力な貴族たちが、革命派と一線を交える態度を派手に示していたのです。それに大きな危険を感じた私は、お兄さまレオポルト2世にそれを控えるように頼みました。派兵や資金援助にいいお返事をしなかったお兄さまでしたが、この要求はすんなりかなえて下さり、アルトワ伯たちを説得して下さったのです。

2024年12月25日

メリークリスマス

 世界中のみなさま、楽しく幸せなクリスマスを💕

モミの木とトナカイさん。やはりクリスマスの主役。

こんなかわいいクリスマスケーキもあるのです。
あまりにもかわいいので、3つ買って、
3つとも一気に食べてしまいました。

2024年12月20日

「芸術家の教会」と呼ばれるサンロック教会、ぜひ一度訪れて

 サントノレ通りに面し、オペラ通りからも近い場所にあるサンロック教会は、パリの中心地にあるのに、意外と知られていない。でも、デザイナーのイヴ・サンローラン、バレリーナのパトリック・デュポン、女優のアニー・ジラルド、歌手のジェーン・バーキンなど著名人の葬儀が行われ、最近は注目を浴びました。

バロックと古典様式のサンロック教会。

サンロック教会でアーティストのミサが行われるのは、教会を飾る絵や彫刻を多才な芸術家が手掛けた、宗教美術館とも言える宝庫だから。ここでは宗教音楽のコンサートも頻繁に開催されています。

この教会は、以前からフランスを代表する重要人物が葬られている、歴史的にも貴重な教会。ルイ14世のお気に入りの造園家で、チュイルリー宮殿やヴェルサイユ宮殿の庭園を手がけた造園家ル・ノートル、古典主義の劇作家コルネイユ、哲学者であり作家で「百科全書」で名を成したディドロなど、蒼々たる人がここに眠っているのです。

造園家アンドレ・ル・ノートル
1613-1700
劇作家ピエール・コルネイユ
1606-1684
哲学者、作家ドゥニ・ディドロ
1713ー1784
サンロック教会の建築が開始されたのは1653年で、3月23日に国王ルイ14世が自ら建築用の石を置き注目をあびます。ルイ14世の首席建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールが手がけたバロック様式で、彼亡きあとは他の建築家の指揮のもとに建築が続き1719年に完成。17、18世紀の教会で、歴史的建造物に認定されています。

聖歌隊席の天井画は圧倒されるほど美しく、迫力がある。
クーポルにはキリストの勝利が描かれています。

奥まった場所にある聖母マリア礼拝堂。
ジュール・アルドゥアン=マンサールの傑作で、
バロックの華やかさがあふれています。

身廊の印象的な説教台。

革命時に他の教会と同じように荒らされ、コンシエルジュリーから処刑場のコンコルド広場に向かう死刑囚は、この教会の前を通っていたのです。
その後この教会が注目を集めたのは、当時ほぼ無名だったナポレオン・ボナパルトの王党派相手の戦い。パリの中央にあるサンロック教会の真ん前で続けざまに大砲を打ち、想像もしていなかった無謀な攻撃におののいた王党派をまたたく間に鎮圧。1795年10月5日の出来事で、革命歴でヴァンデミエール4年13日にあたるので、ナポレオン・ボナパルトは、それ以降ヴァンデミエール将軍と呼ばれるようになり、これを境に歴史に華々しく登場。

サンロック教会の前で激戦が繰り広げられたのは1795年10月5日。
ナポレオン・ボナパルトの名声を一挙に高めました。
この界隈の街並みは、現在もほとんど変わっていない。

明るく美しい身廊。
卓越した宗教画、彫刻は見逃せない。

2024年12月14日

今年最後の首相決定

 2024年は、何と4人もの首相交代があり、政治的、経済的混乱が続いていた年。マクロン大統領は外国企業のフランスへの投資が非常に多いと自慢していたけれど、それが、この不安な状況を懸念して、どんどん減っている。まあ、当然でしょう。

今年4人目の首相に選ばれた
フランソワ・バイル、73歳。
経験豊富で落ち着きがある政治家。

マクロンは大統領任期を全うすると、政府が変わるたびに宣言しているけれど、政治家も国民も不満だらけ。人気はがた落ちで、顔も見たくないし、声もききたくない、などとさえ言われている。今回選ばれた中道派のフランソワ・バイルの組閣と実行力に、誰もが期待を抱いている。

「目の前に立ちはだかるヒラマヤ、多種多様な困難を十分に承知している」
と、首相交代の際に語っているが、前途多難なフランスをどのように救うか。今の状況では、誰が首相になっても成功する可能性は低いと、つぶやく人が多いのも事実。

かつての栄光はいずこに・・・・

2024年12月13日

マリー・アントワネット自叙伝 42

ますます悪化する状態に

 

おば様たちが亡命の旅を続けている最中の1791年2月28日のことでした。

パリの東にあるヴァンセンヌ城砦の修復を行っていたのですが、それが第2のバスティーユ監獄になるのを恐れた民衆たちが、武器を持って壊しかかったのです。それを阻止するために、ラ・ファイエット将軍が国民衛兵と共にヴァンセンヌに行き、激しくもみ合います。


ヴァンセヌ城塞でもめ事がありました。

その間に、短刀を手にした熱烈な王党派が、チュイルリー宮殿に入り込み、国王一家の救出を図ったのでした。彼らは短剣を秘かに持っていたので「懐剣騎士」とか、君主に忠実なので「勤王派貴族」と呼ばれていました。チュイルリー宮殿に入った懐剣騎士は300人以上だったそうです。夫の部屋で彼らは、

「パリは大変危険な街になっています。今後、身の安全を保障しかねる状態になることは目に見えております」 

と、夫に家族とパリを離れるよう真剣に説得したようです。


懐剣騎士のユニフォーム

彼らの考えは、メッスまで逃げ、そこでパリの様子を見ながら革命を押しつぶす案を練るのがいいとのことでした。メッスはフランスの東北部にある神聖ローマ帝国領内の街で、私の兄ヨーゼフ2世が亡くなった後をついだ、直ぐ上の兄レオポルト2世が、神聖ローマ帝国ローマ皇帝の地位にあったので、私たちを迎え入れ守るのに理想的だと、懐剣騎士たちは解釈したのです。当然、宮殿の衛兵と懐剣騎士の間でもめ事が起き、そうしている間に、ラ・ファイエット将軍が国民衛兵と一緒にヴァンセンヌからチュイルリー宮殿に到着しました。


思いもよらない出来事に驚いた将軍は、王党派の貴族たちに武器を捨てるようにと鋭い声で言い、国民を捨てて逃げようという気を持っていない夫も、武器を手放す命令を出し、その場はおさまりました。騎士たちが宮殿に入れるように誘導したのは、夫の側近のデュ・デュラス公爵と、ヴィルキエ公爵だったようで、2人とも国外に行く命令を受けました。


宮殿の衛兵と懐剣騎士の間でもめ事が起き、
夫は王党派の騎士たちに武器を捨てる命令を出しました。

このように、王の権利を取り戻す計画を立て実行する人がいたのです。しかも、国内だけでなく亡命していた多くの貴族も、時をうかがって行動に移ろうとしていたのです。

 

革命が起きた時にいち早く国外に逃亡した夫の末弟アルトワ伯は、ベルギーにしばらく滞在した後、1789年9月からイタリアのトリノに落ち着いていました。私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移され、監視の元に暮らすようになったことも、ヴェルサイユ宮殿が暴徒たちに荒らされ、壁の金箔がはがされ、家具や服、宝飾品が略奪され、聖職者民事基本法が成立し、教会の財産は国のものになり売りはらわれ、聖職者は国から俸給を受けることになったことも、アルトワ伯に伝えられていました。国内にいた王党派が、詳しく報告していたのです。

当時栄えていたトリノには、
立派なシャトーがいくつもありました。
トリノはサルデーニャ王国の首都だったのです。


亡命していた貴族たちは、もうこれ以上祖国が革命家の言いなりになっていることは我慢できない、結束して軍を組織し、国内の反革命家と結束して革命をおしつぶすべきだと義弟を説得していたようです。義弟と一緒にトリノに亡命していた高位の貴族コンデ公が、その筆頭でした。フランス国内でも動きが活発になっていました。ヴァランスではヴォアザン子爵が、エクス・アン・プロヴァンスではヴェルネッグ伯爵が、ノルマンディーではドアリアムソン伯爵が、ブルターニュではラ・ルエリー侯爵が、トリノからの指示を待っていたのです。


このように、フランス全土で決起する準備にかかっていましたが、それを危険と感じた夫が、サルデーニャ王国のヴィットリオ・アメデーオ3世に、亡命貴族たちが万が一武力に訴える動き示した場合には、阻止してほしいと手紙を送ったのです。それを知った義弟とコンデ公の落胆は大きく、そういうことであれば、これ以上トリノにいるわけにはいかないと、兵士たちを従えながら南ドイツのコブレンツへと向かったのでした。当時コブレンツは神聖ローマ帝国領で、亡命貴族が一番多く暮らしていました。革命派相手の戦いの準備はそこで行わなわれるようになりました。場所はどこであろうと、とにかく一刻も早く団結して、侮辱的な立場から解放してほしいと思うばかりでした。


サルデーニャ王国国王、ヴィットリオ・アメデーオ3世。
彼の王女がルイ16世の末弟アルトワ伯と結婚していたので、
亡命貴族たちを全面的に援助していました。
 

王家と革命家の間をとりもっていたミラボー伯爵は欲深く、その上、あばただらけの顔で好きにはなれませんでしたが、説得力に長けていたので、頼りになる人物だったのは確かです。国民議会の重要人物でありながら立憲君主制を唱えていた伯爵は、王家と革命家を見事に操っていたのです。今考えると、すごい才能の持ち主だったのです。


そのミラボー伯爵が、1791年4月2日、42歳で亡くなってしまいました。それを知った時には夫も私も、いきなり真っ暗闇の中に落とされたかのような大きな不安にかられました。今後、誰が仲介役を務めてくれるのか、それにふさわしいと思われる人がいなかったのです。

伯爵に好感は持てなかったものの、実力はわかっていたので、死の床からすぐにでも起き上がってほしいと、切実に思ったほどです。


ミラボー伯爵の葬儀は1791年4月4日に、
サントゥスタッシュ教会で行われました。
  

ミラボー伯爵が亡くなり、一体誰に頼ったらいいのかわからず、毎日が不安で仕方がありませんでした。もう一刻も早くこのような国から逃げ出したいと、それしか考えていませんでした。それまでは国外脱出に反対していた夫も気のせいか、何か考えているようでした。夫の考えが変わった出来事がそれから間もなくして起きました。

 

パリの西郊外のサン・クルーにあるお城に行こうとした1791年4月18日、予想もしていないことが起きたのです。サン・クルー城でイースターをお祝いしたいと馬車で出発しようとしたとき、群衆がいきなり取り囲み、動けなくしたのです。お昼ころでした。チュイルリー宮殿の内庭で、夫、私、夫の妹、娘、息子が馬車に乗り、そこを離れようとした瞬間、大勢の人が荒々しく馬車に近づき、御者を捕らえたのです。

パリ西郊外にあるサン・クルー城は、
チュイルリー宮殿から近く、広い庭園には滝もあるし、
セーヌ川も目の前で、空気もよく、気に入っていたシャトーでした。

当然、国民衛兵が私たちのために何とかすると思ったのですが、躊躇するばかりでした。一体何のための衛兵なのでしょう。そのときの恐怖といったら、言葉で表せないほどでした。頼りにしていたミラボー伯爵がお亡くなりなって間もない日のことでしたので、それもあって心配が増したのでしょう。幸いなことに、ラ・ファイエット将軍とバイイパリ市長が駆けつけて、道をあけるよう説得してくださいました。すると、群衆の中から声があがりました。

「国王に行かないでほしいのだ」

 それを耳にした夫は、馬車の窓から顔を出して、彼らに向かって言ったのです。

「国民に自由を与えたというのに、余が自由でないとは驚きではないか」

 そうした様子をまじかで見ていたラ・ファイエット将軍は、夫に武力に訴えるよう進言します。でも、気立てのよい夫はきっぱりと断りました。

「余のために血を流すことなどしてほしくないのだ」

 何と立派な態度でしょう。

 ルイ16世は国民を思う理想的国王なのです。その姿に私は感動し、夫を尊敬の目で見つめたほどでした。約2時間ほど馬車の中に閉じこもっていたでしょうか。意を決した夫がひとりで馬車をおり、群衆に近づき言いました。

「それほど余が出ていくことを望まないのか」

 夫の言葉に答える人は誰もいませんでした。重い沈黙を体全体で感じたのか、夫は大きくため息をついて続けました。

「余が出ていけないのであれば、よろしい、ここに残るとしよう」

 サン・クルー行きをあきらめ、馬車を降り、チュイルリー宮殿に向かうとき夫は私に小さな声で囁きました

「我々はもはや自由ではないのだ」

 その言葉に私の心は凍り付きました。


サン・クルー城に向かおうとした私たちの馬車が、
群集に取り囲まれ、恐怖に震え上がりました。

ラ・ファイエット将軍とパリ市長が駆け付け難を逃れましたが、
もはや、私たちには自由がないことを悟った出来事でした。

翌日、議会の会場に行った夫は、自分が望んでいるのは国民の幸せだけだと述べ、すべての法に従うことを誓いました。国民が決定する法の前に屈した夫は耐えられないほど大きな屈辱を感じ、このとき逃亡を決意したのです。外国に亡命していたメルシー大使に、私たちの逃亡の決意をお伝えしたのは、それから間もない日でした。

 

・・・私たちは大変ひどい立場におります。

   あの計画を是が非にも実行しなくてはなりません。

   来月にはこの状況から逃げ出さなければと思っています。

   夫は私以上にそれを望んでいるようです・・・


メルシー大使は革命が起きた1789年にブリュッセルに逃れ、そこでハプスブルク家のために外交のお仕事を続けていました。さすがお母さまが見込んだ人だけあって世渡りがお上手。革命で自分の身の危険を感じたメルシー伯爵は、私のお兄さまヨーゼフ2世に頼んで、フランス以外の国で大使の役割を果たしたいと頼み込んだのです。


それに反して私たちの日々は、時を刻むごとに不自由で危険なものになっていました。そうした中で、夫がやっと亡命に賛成してくれたことに、大きな望みを抱く他ありませんでした。

2024年12月8日

蘇ったノートルダム大聖堂

 5年前の4月15日、ノートルダム大聖堂が火災に見舞われ、世界中を驚愕させた。大聖堂が火に包まれ、尖塔が崩れ落ちるのをテレビで見た時の心の動揺は、今でもはっきり覚えています。

翌日、早朝に大聖堂に向かうと、当然ながら警備は今まで見たことがないほど厳重で、誰もが神経をとがらせているのが伝わってくる。緊張感が走る。寒気が勢いよく走る。何台もの消防車が大聖堂の周りで作業を続け、黒焦げになったバラ窓を自分の目で見たとき、火災が実際に起きたのだと、これは現実の出来事なのだと、実感が湧いた。それでも信じられない、信じられないと心が騒いでいた。

ノートルダム大聖堂の周囲は立ち入り禁止。
消防車やはしご車が作業を続けていて、
緊張感がみなぎっている。
火災翌朝のノートルダム大聖堂。

12世紀、カペー朝のルイ7世の時代に建築が開始された、ゴシック建築の壮麗なノートルダム大聖堂は、フランス人の心のふるさとであり、誇りだった。火災後の再建は全フランス人の念願だった。それだけでなく、多くの国から送られた寄付金から、世界中が心をいため、その再建を願っていたことがわかった。

再建は直ちに実行され、それに携わったのは約2000人。それぞれの分野のエキスパートたちの願望は、建築当時と同じ石材、木材、道具、技法で、元の姿を再びパリの空に下に蘇らせることだった。

ノートルダム大聖堂を建築させた
ルイ7世(1120-1180)

15世紀半ばの
ゴシック建築の美しいノートルダム大聖堂

あれから5年経った2024年12月7日、世界の要人を招いて、盛大なセレモニーが夜行われた。その後はクラシック、ポップのコンサートとイルミネーションで盛り上がり、大聖堂再建の喜びを放っていた。異なる国々の代表がノートルダム大聖堂に集まり、例え、それが、つかの間であっても、人々が求める平和が感じられるセレモニーであり、同時に、歓喜の祭典だった。

数10ページの大特集の雑誌がキオスクに並んでいます。
蘇ったノートルダム大聖堂は、本当に美しい。
火災から奇跡的に被害を逃れたピエタ像と、
8000本ものパイプを誇るオルガンを一日も早く見たい。
そして、あの、高揚を呼ぶブルーのステンドグラスのバラ窓も。

2024年12月3日

ナポレオン一色の日

 12月2日は、パリのノートルダム大聖堂で、ナポレオンが皇帝になる戴冠式を執り行った記念すべき日。1804年のことで、彼の生涯でもっとも晴れやかな日だった。

この日は、毎年、ナポレオン史学会主催の食事会があり、今年は140人が出席。ナポレオンの部下であり、皇帝の妹カロリーヌと結婚し、ナポリ王国の国王になったミュラの直系子孫、プリンス・ミュラもお出でになり、一段と華やか。

ひときわのオーラを放つプリンス・ミュラ。

今年は140人が集まりました。
この日のためにフランスの地方から来た人もいたし、
ベルギーの、しかも、ワーテルロー在住の人もいたほど、皆、熱心。
日本人ひとりなので、いつも質問攻め。
「ナポレオンは日本で有名?」
「どのように思われているの?」
「どうしてナポレオンに興味があるの?」
・・・・

パリ中心のレストランで「皇帝バンザイ!!」の乾杯に続き、2時間の伝統的フレンチと会話の後、劇場に向かい、ナポレオンとフーシェの特別公演を鑑賞。その後は凱旋門で無名戦士の墓の炎を再燃するセレモニー。一日中、ナポレオンずくめの日でした。

トリュフ入りエッグ・マヨネーズ

ビーフブルギニヨン


チョコレートムース

どれも伝統的なフランス料理。味がこってりしているし、ヴォリュームがある。たっぷりいただいた実感がうれしい。

毎年のことながら、感動しないではいられない12月2日の出来事。

2024年12月1日

マリー・アントワネット自叙伝 41

 いろいろな出来事が続けて起きました

バスティーユが1789年年7月14日に襲撃されて、早くも1年経ち、それを記念する全国連盟祭がシャン・ド・マルスで開催されました。今まで見たこともないほど派手で、大げさな規模でした。


革命1周年記念のこの祭典をオーガナイズしたのは、国民衛兵軍司令官ラ・ファイエット将軍でした。彼の指揮のもとに、7月1日から、祭典の会場になるシャン・ド・マルスの大掛かりな準備にかかったそうです。何しろ、フランス各地から大勢の人が集まり、40万人にもなる予定だったのだから、何もかも前代未聞。職業や年齢、男女の差もなく、みんなが一体となって準備に携わったのです。いざとなるとフランス人の団結力はすごいのです。ヴェルサイユ宮殿への行進のときもそう感じました。

1790年7月14日、革命1年記念の全国連明祭が
シャン・ド・マルスで開催されました。
この日のために、凱旋門まで建てた派手な式典でした。

何もないシャン・ド・マルスに、全国連盟祭のために、祭典の会場の入り口には立派な凱旋門が造られ、中央には「祖国の祭壇」などと呼ばれる奇妙な式典台が設けられ、観客席が会場の周囲を取り巻いていました。私たちが着くと、お天気が悪い日でしたが、明るい雰囲気が流れたように思えました。国民を刺激するといけないので、その日私はシンプルなドレスに身を包み、ヘアには3色のリボンをつけ、息子を胸に抱いていました。

国民を刺激するといけないので、
白いドレスを着て夫と子供と会場に着きました。


祭典は国民衛兵部隊の華麗な行進で始まりました。整然と進む軍服姿の男性たちの行進は、気持ちが引き締まるようでした。やがて白い愛馬に乗ってラ・ファイエット将軍が到着し、誇らしげに「祖国の祭壇」にのぼり、誓いの言葉を高らかに述べました。

「国に、法に、国王に、永遠に忠実でいようと誓おうではないか。憲法によって認められた我々の全ての権利を保ちながら」

その後300人もの司祭に囲まれて、オータンの司教タレイランがミサをあげました。国民議会議長の誓いがそれに続き、いよいよ夫が言葉を述べる時が来たのです。

「フランス人の王である余は、国会で承認された憲法に従い・・・」

夫は法を守り、国民のために尽くすことを誓うと宣言し、私が国民によく見えるように息子を高々とあげると

「国王バンザイ!  王妃バンザイ!  王太子バンザイ!

と、大合唱がなり響いたのです。その思いもよらない反応に感激して、夫も私も思わず涙を浮かべたほどでした。そのとき、王室と国民の間に強い絆があると感じ、国の美しい統一を見たようでした。


「祖国の祭壇」で近いの言葉を述べる
ラ・ファイエット将軍。

遠くにいる人にもよく見えるように、
皇太子を高くあげると、割れるような大歓声が響き渡りました。

取り壊されたバスティーユ監獄跡だけでなく、そのほかの広場でも、地方でも、民衆は歌い、ワインを飲み、朝方まで踊ったのです。全国連盟祭に出席した私たちは明らかに歓迎されていたし、国民は喜びに湧いていたので、革命は終わったように思えたのでした。


この日、国民は至る所で革命1年記念を祝いました。


 私たちはチュイルリー宮殿に暮していましたが、週末や夏の暑いときなどは、パリ近郊のサン・クルー城で数日間過ごしていました。セーヌ川を見下ろせる高台にあるサン・クルー城は、緑が多く、そのために空気も澄んでいて、気持ちがいいシャトーでした。


このシャトーの歴史はとても長く、16世紀に、イタリアの銀行家が建築させたのが始まりだそうです。夫がサン・クルー城を買ったのは1784年で、私を喜ばせるためでした。うれしかった私は、シャトーの改築を、お気に入りの建築家リシャール・ミックに頼みました。外観は一切変えませんでしたが、インテリアを私好みにしていたので居心地がよく、革命前には舞踏会などでパリに行くとき、このシャトーに泊まったりしていました。

パリの西郊外にあるサン・クルー城。

このお城の庭園には深い自然がたくさんあったので、隠れて人に会うのに最適でした。それを利用して、ミラボー伯爵にお会いしたのは1790年7月3日朝で、あのバスティーユ襲撃1年記念にシャン・ド・マルスで行われた全国連盟祭の直前です。


幼い頃に天然痘にかかったミラボー伯爵のお顔は、あばただらけで、気持ち悪かったし、貪欲で、その上で乱れた私生活をしていたので、いつも避けていました。そのようなミラボー伯爵に意を決してお会いしたのは、メルシー大使から何度も言われていたからです。

「伯爵は国民議会の重要な議員で、大きな影響力がございます。由緒ある貴族なので国民議会議員といえども王家の味方で、両者の間を取り持つのに最適な人物なのです。以前から王妃さまにお目にかかって、ぜひお役に立ちたいと申しております」

嫌で嫌で仕方ないミラボー伯爵に、サン・クルー城の木陰で早朝にお会いすることにしたのは、誰にも知られないためでした。いつ誰が告げ口するかわかりませんから、最大の注意が必要だったのです。

ミラボー伯爵。
容姿も性格も私は嫌っていましたが、
才知ある有能な伯爵で、私たちの味方だったことは確か。

雄弁で説得力があり、王政維持を主張しながら国民の圧倒的支持を受けていたのは、たしかにミラボー伯爵だけでした。つまり彼は、王家と革命家に忠誠を誓っていたずるい人だったのです。伯爵はすでに、王政を救うために最大の努力をすると夫に約束して、莫大なお金を受け取っていました。でも、夫には決断力もなければ勇気もないと見て、私と話す必要性を感じたそうです。彼が理想とするのは立憲君主制。いつまでも国王が、チュイルリー宮殿でびくびくしながら暮らしているのは我慢ならないと、根っからの王党派のミラボー伯爵は思っていたのです。


彼は逃亡を盛んにすすめていました。白昼に正々堂々と狩猟に行くふりをして、パリから西側の郊外に行き、そこに待機している有能な護衛兵に囲まれながら、王党派が多い街に行き、パリで暴動が起きるようにし、国王に首都に戻ってきてほしい状態を故意に作るのがいい、というのが伯爵の計画でした。国に混乱を起こさせ、国王が実権を握っていた時代の方が安泰でいい、と思わせるためです。結局それは、夫の反対で実現しませんでしたが、私の逃亡したい願いに火がついたのは確かです。

サン・クルー城の庭園は緑が豊かで広く、
人の目にさらされることもないので、
フェルセン様にお会いするのに最適でした。

サン・クルー城での警備は、パリのチュイルリー宮殿に比べてかなりゆるやかだったので、フェルセンさまも気兼ねなくいらしてくださって、庭園のお散歩を楽しんだりしていました。2人とも少しでも長く一緒にいたかったので、フェルセンさまがお帰りになるのは朝3時ころのこともありました。夏が終わり秋にパリに戻るまでの間、私たちは何度会ったことでしょう。

 

ベルヴュ城に暮らしていた2人のおば様が逃亡したのは、1791年2月16日の夜10時でした。ローマでイースターをお祝いしたいという口実で、数10人の護衛を連れてイタリアに向かっていたのですが、ブルゴーニュ地方にある小さな村アルネイ・ル・デュックで、村人たちに行方をさえぎら、捕まってしまったのです。


恐れていたことが現実になり、あわてたおば様たちは国民議会に手紙を届けさせます。自分たちは一般の国民としてローマ行くだけで、決して亡命ではない、といった内容が書かれていたようです。けれども議員たちは、王家の人であるからにはそうはいかない、重大な出来事だから、すぐにパリに連れ戻すべきだ、と騒ぎ始めたのです。


そのとき活躍したのがミラボー伯爵でした。雄弁な伯爵は、人民の自由を尊ぶフランスでは、誰にでも旅をする権利があると主張し、無事にイタリアへ行けたのです。さすがです。それでもすぐには解放されず、イタリアに向けて馬車をふたたび動かせたのは、2月28日とされています。結構長い間捕らわれていたのですが、気が強い2人のこと、自分たちに危害を加えるはずはない、必ず希望は通ると信じていたことでしょう。人のいい夫も、おば様たちが旅を続けられるよう手助けしていました。

アデライード王女さま

ヴィクトワール王女さま

その後、おば様たちはトリノの親戚の家にしばらく暮らしたり、ローマに滞在たりし、ナポリでは私と一番仲が良かったマリー・カロリーナお姉さまにも会っています。マリー・カロリーナお姉さまは、ナポリのフェルディナンド国王と結婚していたのでナポリ王妃でした。本当は私が会いたかったのに、あの大嫌いなおば様たちがお姉さまに会えて、どうしてこの私が会えないのかと、どれほど残念で悔しかったことか。


このおば様たちの逃亡後、国王一家もいつか亡命するのに違いないと、革命家たちは一層厳しい目を私たちに向けるようになったのです。