2024年12月13日

マリー・アントワネット自叙伝 42

ますます悪化する状態に

 

おば様たちが亡命の旅を続けている最中の1791年2月28日のことでした。

パリの東にあるヴァンセンヌ城砦の修復を行っていたのですが、それが第2のバスティーユ監獄になるのを恐れた民衆たちが、武器を持って壊しかかったのです。それを阻止するために、ラ・ファイエット将軍が国民衛兵と共にヴァンセンヌに行き、激しくもみ合います。


ヴァンセヌ城塞でもめ事がありました。

その間に、短刀を手にした熱烈な王党派が、チュイルリー宮殿に入り込み、国王一家の救出を図ったのでした。彼らは短剣を秘かに持っていたので「懐剣騎士」とか、君主に忠実なので「勤王派貴族」と呼ばれていました。チュイルリー宮殿に入った懐剣騎士は300人以上だったそうです。夫の部屋で彼らは、

「パリは大変危険な街になっています。今後、身の安全を保障しかねる状態になることは目に見えております」 

と、夫に家族とパリを離れるよう真剣に説得したようです。


懐剣騎士のユニフォーム

彼らの考えは、メッスまで逃げ、そこでパリの様子を見ながら革命を押しつぶす案を練るのがいいとのことでした。メッスはフランスの東北部にある神聖ローマ帝国領内の街で、私の兄ヨーゼフ2世が亡くなった後をついだ、直ぐ上の兄レオポルト2世が、神聖ローマ帝国ローマ皇帝の地位にあったので、私たちを迎え入れ守るのに理想的だと、懐剣騎士たちは解釈したのです。当然、宮殿の衛兵と懐剣騎士の間でもめ事が起き、そうしている間に、ラ・ファイエット将軍が国民衛兵と一緒にヴァンセンヌからチュイルリー宮殿に到着しました。


思いもよらない出来事に驚いた将軍は、王党派の貴族たちに武器を捨てるようにと鋭い声で言い、国民を捨てて逃げようという気を持っていない夫も、武器を手放す命令を出し、その場はおさまりました。騎士たちが宮殿に入れるように誘導したのは、夫の側近のデュ・デュラス公爵と、ヴィルキエ公爵だったようで、2人とも国外に行く命令を受けました。


宮殿の衛兵と懐剣騎士の間でもめ事が起き、
夫は王党派の騎士たちに武器を捨てる命令を出しました。

このように、王の権利を取り戻す計画を立て実行する人がいたのです。しかも、国内だけでなく亡命していた多くの貴族も、時をうかがって行動に移ろうとしていたのです。

 

革命が起きた時にいち早く国外に逃亡した夫の末弟アルトワ伯は、ベルギーにしばらく滞在した後、1789年9月からイタリアのトリノに落ち着いていました。私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移され、監視の元に暮らすようになったことも、ヴェルサイユ宮殿が暴徒たちに荒らされ、壁の金箔がはがされ、家具や服、宝飾品が略奪され、聖職者民事基本法が成立し、教会の財産は国のものになり売りはらわれ、聖職者は国から俸給を受けることになったことも、アルトワ伯に伝えられていました。国内にいた王党派が、詳しく報告していたのです。

当時栄えていたトリノには、
立派なシャトーがいくつもありました。
トリノはサルデーニャ王国の首都だったのです。


亡命していた貴族たちは、もうこれ以上祖国が革命家の言いなりになっていることは我慢できない、結束して軍を組織し、国内の反革命家と結束して革命をおしつぶすべきだと義弟を説得していたようです。義弟と一緒にトリノに亡命していた高位の貴族コンデ公が、その筆頭でした。フランス国内でも動きが活発になっていました。ヴァランスではヴォアザン子爵が、エクス・アン・プロヴァンスではヴェルネッグ伯爵が、ノルマンディーではドアリアムソン伯爵が、ブルターニュではラ・ルエリー侯爵が、トリノからの指示を待っていたのです。


このように、フランス全土で決起する準備にかかっていましたが、それを危険と感じた夫が、サルデーニャ王国のヴィットリオ・アメデーオ3世に、亡命貴族たちが万が一武力に訴える動き示した場合には、阻止してほしいと手紙を送ったのです。それを知った義弟とコンデ公の落胆は大きく、そういうことであれば、これ以上トリノにいるわけにはいかないと、兵士たちを従えながら南ドイツのコブレンツへと向かったのでした。当時コブレンツは神聖ローマ帝国領で、亡命貴族が一番多く暮らしていました。革命派相手の戦いの準備はそこで行わなわれるようになりました。場所はどこであろうと、とにかく一刻も早く団結して、侮辱的な立場から解放してほしいと思うばかりでした。


サルデーニャ王国国王、ヴィットリオ・アメデーオ3世。
彼の王女がルイ16世の末弟アルトワ伯と結婚していたので、
亡命貴族たちを全面的に援助していました。
 

王家と革命家の間をとりもっていたミラボー伯爵は欲深く、その上、あばただらけの顔で好きにはなれませんでしたが、説得力に長けていたので、頼りになる人物だったのは確かです。国民議会の重要人物でありながら立憲君主制を唱えていた伯爵は、王家と革命家を見事に操っていたのです。今考えると、すごい才能の持ち主だったのです。


そのミラボー伯爵が、1791年4月2日、42歳で亡くなってしまいました。それを知った時には夫も私も、いきなり真っ暗闇の中に落とされたかのような大きな不安にかられました。今後、誰が仲介役を務めてくれるのか、それにふさわしいと思われる人がいなかったのです。

伯爵に好感は持てなかったものの、実力はわかっていたので、死の床からすぐにでも起き上がってほしいと、切実に思ったほどです。


ミラボー伯爵の葬儀は1791年4月4日に、
サントゥスタッシュ教会で行われました。
  

ミラボー伯爵が亡くなり、一体誰に頼ったらいいのかわからず、毎日が不安で仕方がありませんでした。もう一刻も早くこのような国から逃げ出したいと、それしか考えていませんでした。それまでは国外脱出に反対していた夫も気のせいか、何か考えているようでした。夫の考えが変わった出来事がそれから間もなくして起きました。

 

パリの西郊外のサン・クルーにあるお城に行こうとした1791年4月18日、予想もしていないことが起きたのです。サン・クルー城でイースターをお祝いしたいと馬車で出発しようとしたとき、群衆がいきなり取り囲み、動けなくしたのです。お昼ころでした。チュイルリー宮殿の内庭で、夫、私、夫の妹、娘、息子が馬車に乗り、そこを離れようとした瞬間、大勢の人が荒々しく馬車に近づき、御者を捕らえたのです。

パリ西郊外にあるサン・クルー城は、
チュイルリー宮殿から近く、広い庭園には滝もあるし、
セーヌ川も目の前で、空気もよく、気に入っていたシャトーでした。

当然、国民衛兵が私たちのために何とかすると思ったのですが、躊躇するばかりでした。一体何のための衛兵なのでしょう。そのときの恐怖といったら、言葉で表せないほどでした。頼りにしていたミラボー伯爵がお亡くなりなって間もない日のことでしたので、それもあって心配が増したのでしょう。幸いなことに、ラ・ファイエット将軍とバイイパリ市長が駆けつけて、道をあけるよう説得してくださいました。すると、群衆の中から声があがりました。

「国王に行かないでほしいのだ」

 それを耳にした夫は、馬車の窓から顔を出して、彼らに向かって言ったのです。

「国民に自由を与えたというのに、余が自由でないとは驚きではないか」

 そうした様子をまじかで見ていたラ・ファイエット将軍は、夫に武力に訴えるよう進言します。でも、気立てのよい夫はきっぱりと断りました。

「余のために血を流すことなどしてほしくないのだ」

 何と立派な態度でしょう。

 ルイ16世は国民を思う理想的国王なのです。その姿に私は感動し、夫を尊敬の目で見つめたほどでした。約2時間ほど馬車の中に閉じこもっていたでしょうか。意を決した夫がひとりで馬車をおり、群衆に近づき言いました。

「それほど余が出ていくことを望まないのか」

 夫の言葉に答える人は誰もいませんでした。重い沈黙を体全体で感じたのか、夫は大きくため息をついて続けました。

「余が出ていけないのであれば、よろしい、ここに残るとしよう」

 サン・クルー行きをあきらめ、馬車を降り、チュイルリー宮殿に向かうとき夫は私に小さな声で囁きました

「我々はもはや自由ではないのだ」

 その言葉に私の心は凍り付きました。


サン・クルー城に向かおうとした私たちの馬車が、
群集に取り囲まれ、恐怖に震え上がりました。

ラ・ファイエット将軍とパリ市長が駆け付け難を逃れましたが、
もはや、私たちには自由がないことを悟った出来事でした。

翌日、議会の会場に行った夫は、自分が望んでいるのは国民の幸せだけだと述べ、すべての法に従うことを誓いました。国民が決定する法の前に屈した夫は耐えられないほど大きな屈辱を感じ、このとき逃亡を決意したのです。外国に亡命していたメルシー大使に、私たちの逃亡の決意をお伝えしたのは、それから間もない日でした。

 

・・・私たちは大変ひどい立場におります。

   あの計画を是が非にも実行しなくてはなりません。

   来月にはこの状況から逃げ出さなければと思っています。

   夫は私以上にそれを望んでいるようです・・・


メルシー大使は革命が起きた1789年にブリュッセルに逃れ、そこでハプスブルク家のために外交のお仕事を続けていました。さすがお母さまが見込んだ人だけあって世渡りがお上手。革命で自分の身の危険を感じたメルシー伯爵は、私のお兄さまヨーゼフ2世に頼んで、フランス以外の国で大使の役割を果たしたいと頼み込んだのです。


それに反して私たちの日々は、時を刻むごとに不自由で危険なものになっていました。そうした中で、夫がやっと亡命に賛成してくれたことに、大きな望みを抱く他ありませんでした。