2017年8月26日

メトロの駅名は語る 51

Campo-Formio
カンポ・フォルミオ(5号線)

ナポレオンの名声を一挙に高めた、カンポ・フォルミオ条約にちなんで名が付けられました。

フランス軍とオーストリア軍の間で結ばれた
カンポ・フォルミオ条約。
右上に「ボナパルト」のサインがあります。
イタリア遠征隊総司令官ナポレオン・ボナパルトと、敵国オーストリア指揮官ルートヴィッヒ・フォン・コベンツルの間で講和条約が結ばれたのは、1797年10月18日で、イタリア北東にあるカンポ・フォルミオ村が調印の場に選ばれたために、「カンポ・フォルミオ条約」と呼ばれています。

無敵のナポレオン・ボナパルトにひれ伏すオーストリア軍。
調印後オーストリア司令官と握手を交わす若いナポレオン。
1796年、ジョゼフィーヌと結婚したばかりのナポレオンは、若干27歳でイタリア方面軍の総司令官に任命されました。

イタリア方面軍総司令官に選ばれたナポレオンと
その妻ジョゼフィーヌ。
3月に着任したナポレオンは稀にみる勇気と破格の優れた戦略で、4月にトリノを、5月にミラノを手中におさめます。

北イタリアのほとんどを支配していたオーストリアは、度重なる敗戦で大きな打撃を受け首都ウィーンまで脅かされます。 

オーストリア支配下にあった、
イタリアのヴェローナ近くのアルコレ橋を、
旗を振りかざしながら軍の先頭にたって渡るナポレオン。

兵士たちはその勇敢な姿に戦闘心をかきたてられ、
力の限り戦い、勝利をものとします。
危機を察したオーストリアはフランスとの戦いに終止部を打つために、カンポ・フォルミオ条約に調印。
これによって、フランスを攻撃するために結ばれていたオーストリア、スペイン、イギリスなどを中心とした第一次対仏同盟は崩れます。

快勝したフランスはオーストリア支配下にあった南ネーデルランド(現在のベルギー、ルクセンブルク)や、北イタリアのロンバルディア、イオニア諸島を手にします。

戦勝国フランスは領地が増えただけでなく、占領地から多額の賠償金や貴重な美術品が次々本国に送られ、その度に国中が喜びにわきます。

総司令官ナポレオン・ボナパルトは英雄として称えられ、帰国したときには熱狂的に迎えられました。
フランスの皇帝の座に就いたナポレオン。
35歳の若い皇帝でした。

それ以降、戦勝に戦勝を続けたナポレオンは、7年後に栄えあるフランス皇帝 の座に就いたのです。