2024年9月17日

ギャラリー・ラファイエット、創立130年周年を華やかに祝う

ギャラリー・ラファイエットの象徴の美しいドーム。
130年を記念してドームの色が
赤、ブルー、グリーン、黄色などに頻繁に変わり
華やぎを散りばめます。

老舗デパート、ギャラリー・ラファイエットがオープンして今年は130年。このデパートのもっとも華やかな象徴は、1912年10月8日に設置したアールヌーヴォ―のカラフルなクーポル。そこに見られる鮮やかなカラーをいかした数多くの特別アイテムが、記念すべき年をきらびやかに祝っています。

エドヴァルド・ムンクがパリに留学中に描いた
ラ・ファイエット通り。1891年作。
この3年後にデパート、ギャラリー・ラファイエットが誕生。

1900年代初期のギャラリー・ラファイエット。

オペラ座の階段にインスピレーションを得た
ギャラリー・ラファイエットのモニュメント的階段。
アールヌーヴォーの著名な家具デザイナー、ルイ・マジョレル作。
この階段でエディット・ピアフが
「愛の賛歌」「バラ色の人生」を歌ったこともある。1974年に解体
     

ギャラリー・ラファイエットはヨーロッパで最も大きなデパートで、面積は約5万m²。1894年に衣料品店としてオープンした時には、わずか70m²だったから驚異的な飛躍。130年周年記念をお祝いする色鮮やかな楽しい装飾が至る所にあるし、記念グッズも豊富。広い屋上から一望できるパリも、今年はひときわ美しく見える。

エントランスホールでの楽しいお出迎え。

カラフルな映像が心を浮き立たせます。

祭典ムードを盛り上げる意表をついた大きなオブジェ。

ソックス、ノート、マグカップ、ライターなど
記念グッズも豊富。

Tシャツ、帽子、スカーフもあります。

ステキなショーウインドウも見逃せない。

2024年9月12日

オリンピックの余韻

予想をはるかに越えるほど人々を熱狂させ、感動させたオリンピック・パラリンピックが終っても、その余韻がいまだに残っているパリ。特に、数々の熱戦を繰り広げたり、オープニング・セレモニーで世界の熱い視線を集めたコンコルド広場は、今でも注目の的。競技会場の撤去作業が進められているのを、じっと見つめたり、カメラのシャッターを何度も押す人もいる。10月まで解体作業が続くそうだが、その後、従来の姿に戻っても、ああ、ここでオリンピックの時に・・・と話題になるだろうし、ノスタルジーに駆られる人も多いかも。

3000年前のオベリスクや、19世紀のエッフェル塔が見えるコンコルド広場。
広場もルイ15世の時世の17世紀からの歴史を誇っている。
こうした場所でオリンピックを行う発想は画期的だし、
その実現には感嘆するほかない。
観客席がまだ残っていて、それを目にするだけで、
熱戦や声援の声が聞こえてくるよう。

そのすぐ近くにあるヴィラージュ・ロワイヤルには、「オリンピック・スピリットを祝いましょう」と、無数のメダルが飾られている。風になびきながら爽やかな音を立て、キラキラと煌めきをまき散らすゴールドメダルは、オリンピックの勝利そのもの。ヴィラージュ・ロワイヤル誕生30年記念の特別装飾だそうだけれど、この上なくオシャレ。

ヴィラージュ・ロワイヤルは小さい村のようなパサージュ。でも、他のパサージュのように屋根がない。その代わりに色とりどりの傘を飾ったり、今回のようにゴールドメダルを飾ったり。青空彫刻展も開催するし、クリスマスの飾りも凝っている。小規模なシャネルやディオールのブティックの他、ジュエリー店もあるし、ヘアサロンもある。ほぼ中央にはレストランがあり、美味しくインテリアもシックで大人気。パリの真っ只中で、喧騒から離れた小さい村でのランチはとてもパリらしくて、私も大ファン。

コンコルド広場近くにある
ヴィラージュ・ロワイヤル。
「オリンピック・スピリッツを祝いましょう」
と無数のゴールド・メダルが煌めいています。

体中の細胞が躍りそうなほど、
たのしい空間。

2024年9月11日

マリー・アントワネット自叙伝 35

迫ってきた危険と太子の死

 国の経済が加速度的に悪化し、それを解決するために財務総監をチュルゴー、ネケール、ブリエンヌと何度も変えましたが、一向に解決しませんでした。国民たちの生活は日に日に悪くなり、パンも買えないと騒いでいたようです。ブリエンヌが、それでは貴族たちにも税金を払わせたらどうかと、とんでもない提案をしたのです。当然、それは強い反発を受け、ブリエンヌは辞任させられ、ネケールが再度財務を手がけることになりました。


彼は夫に三部会を開くことを進言します。三部会というのは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成された身分制議会で、ルイ13世の時代の1614年から開催されていませんでした。なぜかというと絶対王政が続いていたので、王の一存ですべて決定されていたからです。

1614年、ルイ13世の時代の三部会

ネケールの提案を受けた夫は、それではと175年ぶりに三部会を召集したのです。1789年5月4日、ヴェルサイユで三部会が開会される前日に、ヴェルサイユのノートルダム大聖堂でミサを受け、サン・ルイ教会まで1200人もの人が行進しました。夫も私も、もちろん参加しました。誰もが華麗に着飾っていたので、まるで祭典のような華やかさでした。この様子を見たいとパリから大勢の人がヴェルサイユまで来たそうです。175年ぶりなので見逃したくないと思ったのでしょう。その行進の間、気になることがありました。多くの人々が私に冷たい視線を投げていたことです。中には冷たいを通り越して、憎しみがこもった恐ろしい目つきの人もいました。

三部会前日、1789年5月4日の行進。

三部会が開会された5月5日朝8時ころ、まず、第三身分の平民が会議の会場に入りましたが、横手の入り口を使用するようにと命令されたのです。その後、第一身分の聖職者、第二身分の貴族が立派な服装で正面入り口から堂々と入場。全員が揃ったころ、国王、つまり夫が会議場に入ったのでした。


開会を告げる国王の言葉は大変立派で、多くの人が感動したとのことです。

「余が待ち望んでいた日がついに到来した。国民に新たな幸福をもたらせることになればと思い、この度三部会開催を決意したのである」

という内容でした。それに続いて財務総監ネケールによる、経済状態の悪さをあげる数字ばかりの報告がありましたが、解決策には一切触れず、第三身分が期待していた、不公平な投票方法の改善も皆無。


1789年5月5日の三部会。
これがその後も悲劇を生むとは誰も思ってもいませんでした。

それまでの投票は、三つの身分の違う階級がそれぞれ1票ずつとなっていました。議決するときに第一身分が一票、第二身分が一票、第三身分も一票です。第一身分と第二身分は特権階級なので同意することがほとんど。つまり二票になります。それに対する第三身分は一票のみだから、二対一で負けてしまう。これは時代に即していないと、平民が反発したのです。議決は身分ごとではなく、それぞれの議員の個別投票で決めるべきだと主張。第一身分は291人、第二身分は270人、第三身分は578人で、平民の議員数の方が多いので、勝つ見込みが多かったのです。


聖職者の中に、第三身分の議員たちの意見に賛成する人が出てきて、日に日にその人数が増えていきました。平民側についた司祭たちは、貴族たちに働きかけ、自分たちと同じように、第三身分の味方になるようにと説得していました。政治にまったく関心がなかった私ですが、世の中に不安な空気が流れていたことを感じていました。こうした最中に、再び悲劇が私たち家族を襲ったのです。

  

未来の国王の座が確約されていた皇太子ルイ=ジョゼフは、とても賢い子で、将来立派な王になると誰もが期待を寄せていました。性格が穏やかで従順な子供で、夫も私も溺愛していました。夫も王子が自慢で、自ら教育をほどこすことがあったほどでした。それまでのフランス国王夫妻は、子供の養育も教育も側近任せが多かったのですが、私たちは別でした。二人とも子煩悩で、できるだけ多くの時間を、子供たちと過ごすよう心がけていました。

美しい顔の皇太子ルイ=ジョゼフ

国王になる皇太子には、それなりのお妃を、と早い時期からあれこれ考えていました。私が長男にふさわしいと思っていたのは、ナポリ王国フェルディナンド四世に嫁いだ姉、マリー・カロリーヌの王女マリー・アメリーです。皇太子より1歳年下で、おだやかな性格で、頭もいいし、未来の王妃にぴったり。何よりも私が一番好きで仲が良かった姉の子供なので安心なのです。


1784年のことでした。3歳の息子が急に高熱を出したのです。大あわてでパリ近郊にあるラ・ミュエット城に連れて行き、そこで静養させたところ、幸いなことに回復しました。でも、その翌年から健康状態が悪くなる一方でした。1786年に再び高熱が続き、背骨が曲がったようでした。複数の医師の診断を受けたのですが、高熱の原因は判明しなかったのです。

大好きな姉と一緒のルイ=ジョゼフ
ふたりはとても仲良しで、一緒の遊んでいる姿を見るのは
私にとって大きな喜びでした。

トリアノンの庭園を子供たちと連れ立ってお散歩。

皇太子が7歳になると、宮廷の習慣に従って、それまで仕えていた女性たちの代わりに、男性の手に委ねられることになりました。威厳ある殿方たちに囲まれ、幼いながらも自分が将来国王になることを知っていた息子は、体がすぐれなくても、課せらる義務を懸命にこなしていました。主治医プティ医師から、息子が脊椎カリエスにかかっていると告げられたのは1788年1月でした。その言葉は、地球がひっくり返ったほどの衝撃でした。プティ医師の説明によると、結核菌が脊椎をおかしていたのです。当時は治療の手立てもなく、ただ死を待つことしなかいと言われた瞬間、周囲の全ての物から色が消えうせ、全ての音が消え、暗黒の世界に突き落とされたようでした。


日に日に衰弱した王子は、もはや歩くこともできなくなりました。元気に飛び回りたい年齢なのに、それもできない息子がかわいそうで、胸をかきむしられる思いでした。それでも何とかしてあげたいと、大きな3つの輪がついた、移動できる椅子を作らせました。座るところには赤いビロードをしき、外側にブルーの波が勢いよく描かれ、元気そうなイルカの彫刻をほどこしました。皇太子はフランス語でイルカという意味もあるのです。その椅子を、息子はどれほど気に入っていたことでしょう。

歩けなくなった息子のため特別馬車。

1789年5月4日の三部会が開催される前日の行進を、ルイ=ジョゼフはヴェルサイユ宮殿の前方にある厩舎の窓から見ていました。華麗な行列に大変喜んでいた、と側近から伺いました。その数日後、澄み切った空気があたり一面に漂うムードンのシャトーに移しました。ムードンはヴェルサイユ宮殿から遠くなく、かつての狩猟の館を拡大したシャトーがあったのです。夫も私も毎日息子に会いに行っていました。そのたびに、今日が最後になるかも知れないと、ルイ=ジョゼフと一緒にいる一秒一秒が貴重でした。


息子が7歳半の短い生涯を閉じたのは、三部会開催から約1ヵ月後の1789年6月4日でした。6月8日には三部会に出席した三つの身分の代表が、ムードンのシャトーにいらしてお別れを告げ、6月13日、かわいそうな息子は王家のお墓のサン・ドニ大聖堂に葬られました。国民たちは子を失った私たちの身を引き裂かれるほどの苦しみに、少しの同情を示すことなく、不満は刻一刻と増大していったのでした。

2024年9月4日

マリー・アントワネット自叙伝 34

 フェルセンさまがフランス常住を決意しました

 

スウェーデンに暮らしていたフェルセンさまは、グスタフ3世の重要な相談役を務めていました。国王に忠誠を誓い、数々の業績をなしたフェルセンさまでしたが、グスタフ3世から、特別全権委員としてデンマークに滞在するよう依頼を受けたときには、はっきリ断ったそうです。その理由は、ご本人から伺ったのではないのですが、例の首飾り事件で私の評判が悪くなったことが心配で、フランスに一刻も早く戻りたいと思っていたようです。それにフランスの経済状態も悪化する一方で、それもきっと気がかりだったのでしょう。


1788年にヴェルサイユ宮殿に姿を現したあの方は、33歳の輝くばかりのりりしいお姿。再会した瞬間に、私の鋭敏な感性がしっかり捉えました。あの方の私への感情に大きな動きがあったことを。


以前は、フランスのために仕える身である自覚が強かったようでしたが、今回は別でした。私を王妃としてではなく、ひとりの女性として見るようになったことを確信をもって言えます。実際に、ヴェルサイユ宮殿に再び足を入れるようになったフェルセンさまは、お妹さまにお手紙で打ち明けていたのです。


・・・私はここにいることが、とても幸せです・・・

 

フェルセンさまはご自分には2人の大切な女性がいるとも、お手紙にはっきり綴っていました。ひとりはお妹さまで、もうひとりはこの私です。

 

・・・ああ、もしも、あなたたち2人を一緒に見ることができれば・・・

 

このようにあの方は、この世でもっとも大切な2人の女性が、ご自分の身近にいることを願っていたのです。思いを寄せているフェルセンさまが、ついに心を向けてくださった。それを察したときの喜びは、とても言葉で表現できるものではありませんでした。満開の美しい花々に囲まれているかのように、幸せでした。フェルセンさまの吐息を身近で感じられるヴェルサイユが、この上もなく愛しく思えました。

フェルセンさまの日記。
毎日のように書いていたそうです。


フェルセンさまがお傍にいて下さる毎日がバラ色でした。プティ・トリアノンにも頻繁にご招待しましたし、その庭園にある人工的に造った洞窟や、展望台ベルヴェデールにも連れ立って行きました。多少小高いところに建てられたベルヴェデールは八角形のネオクラシック。天井はドームになっていて、壁には壁画がほどこされ、床は大理石をモザイクのように並べています。このベルヴェデールを音楽の 館にしていました。

洞窟とベルヴェデール。

ベルヴェデールの内部はとても優美で
床のモザイクもリズム感があって気に入っています。

人工的に造った小さな島の上の愛の神殿にも、フェルセンさまと何度も足を運びました。ベルヴェデールも愛の神殿も私の発案なので、特別な愛着がありました。ああ、あの幸せに満たされていた日々が懐かしい。人生をやり直すことができたら、と心底から思わずにはいられません。


私がフランスに嫁いだのは14歳の年でした。その同じ年齢のときに、フェルセンさまは、お父さまのご希望で様々な国に滞在して、見聞を広めたり軍事教育を受けたりしていらしたのです。そのために、知識が驚くほど豊富で、話術に富んだあの方のお話を時間が経つのを忘れて聞き入っていました。イギリス、スイス、イタリア、ドイツなどヨーロッパの主要都市の話題は、外国をほとんど知らない私には、とても魅力的でした。お父さまが有力な貴族でしたので、各国に滞在していたスウェーデン大使が手厚くお迎えしていたそうです。当然、それぞれの国の貴族たちとの交流もあり、晩餐会や舞踏会にも出席なさっていたとのこと。


数人の貴族令嬢たちがフェルセンさまに特別な感情を抱いたようですが、心を許すことはなかったようで、それを知った時には、ほっとしました。あの方がいかに素晴らしいか、フェルセンさまの友人が残した名文があります。

 

・・・哀愁をおびた顔と美しい容姿を持ち、威厳と気品ある振る舞いをし、エレガントな動きをする人・・・

 

これほどの方に巡り会えたことを、感謝しないではいられませんでした。あの方と過ごした一瞬一瞬が、どれほど私の人生に輝きを与えてくれたことでしょう。

  

プティ・トリアノンから歩いて行ける距離にある村里は、私のユートピアでした。そこにご招待するのは、私と気が合い、信頼できる人のみ。フェルセンさまはもちろん大歓迎しました。夫は村里に興味がなかったためか、あるいは私の邪魔をしたくなかったためか、ほとんど来ませんでした。夫の趣味は狩猟と機械いじり、錠前作りで、趣味に関しては、私たちの間に接点がまったくなかったのです。


プティ・トリアノンから村里に向かうお散歩道を造ったのは、私のアイディアです。小川と小さな島が途中にある、童話のような世界を味わえるそのお散歩道を進んで行くと、突然、目の前に村里が見えてくるようにしたかったのです。

プティ・トリアノンから村里に向かう小道。


フェルセンさまは村里ではとてもリラックスしていました。女官も含めて、皆、私たちがお互いに惹かれていることをわかっていたと思います。こうした微妙な感情は、ちょっとした仕草にも表れるものです。相手に向ける視線に熱い輝きが光っていたり、交わす言葉に甘美な響きがあったり、うれしさを隠しきれないかのように軽快に歩いたり、歌を口ずさんだり・・・


村里の中心は「王妃の家」で、その2階のサロンから見える、フランスの形を描いている湖を見つめながら語り合ったこともあったし、物語りの中に登場するような、水車小屋までゆっくりと歩いて行ったこともあります。特に楽しかったのは、マルボローの塔から小舟に乗って、湖をまわったり魚釣りをしたこと。


王妃の家は2階建てになっていて、1階にダイニングルーム、2階に大きなサロン、ベッドがある休憩室、貴族夫人たちの小サロンがありました。村里の家に泊まることはなかったので、休息用のシンプルなベッドがあるだけでした。芝生の上で気軽にフォークダンスを踊ったこともあるし、プティ・トリアノンからハープを運んで奏でたこともあります。簡素な服装で田舎の雰囲気を味わうのは、この上もない喜びで、毎日のように行っていました。

人口の湖、周囲を囲む田舎風のいくつもの家。
ここは私のユートピア。

2階建ての王妃の家。
寝室は2階にありました。
大好きなパステルカラーの小さなベッド。
シンプルで、宮殿のよりずっと気に入っていました。
  

村里には大小合わせて12の家があって、それぞれに庭があり、野菜や果物も栽培していたので、その手入れをするのも楽しいことでした。そこで育つキャベツやカリフラワーなどの野菜や、リンゴ、ブドウをその場でいただくこともありましたが、宮殿でのお食事にも多く使用されていたのです。少し離れた所にある広大な牧場では、10頭の山羊、1頭の雄牛、雌牛は8頭、そのほかニワトリもたくさん飼っていました。搾りたての牛乳をいただいたり、酪農小屋でチーズの試食をしたり。


このように、村里での楽しい思い出はつきることはありません。それが崩れる日がやがて来たのでした。

2024年9月1日

ラ・メゾン・エリゼ

 エリゼ宮の真ん前にオープンした「ラ・メゾン・エリゼ」は、ミュージアムであり、ブティックでありカフェ。マクロン大統領夫妻のイニシアティヴで今年の夏にオープンし、人気者になっています。

大統領官邸の正面にあるラ・メゾン・エリゼ。

中に入って最初に目に入るのは、優雅な曲線を描く階段と豪奢なシャンデリア。それを見ただけでその先に何があるか期待が高まる。階段をのぼった2階はカフェになっている。

荷物検査を受けた後、階段の左手の奥のブティックに向かう。そこで取り扱っている品数が多くてびっくり。その中でフランス3色旗のモチーフのマグカップが特に人気だそう。その他ノート、ボールペン、傘、Tシャツ、ペタンク、マルセイユ石鹸もある。誰でも買えるリーゾナブルなプライスがいい。

高貴な階段とシャンデリアに心が奪われます。

品数豊富なブティック。
手ごろなプライスだからパリのお土産にぴったり。

その先に進むといきなりフランス国歌が聞こえてきて、それに包まれながら共和国衛兵の凛々しく華やかなユニフォーム姿の像や、エリゼ宮での晩餐会に使用される洗練を極めたテーブルウエアを堪能できる。

突き当りではルイ15世の時代の重厚な執務机が、格別な存在感を放っている。ド・ゴール大統領も愛用していたとのこと。その左の壁では絵や写真がエリゼ宮の歴史を語っている。その他マクロン大統領が外国の首脳などから受け取った贈答品も数点展示されている。

共和国衛兵が出迎えるミュージアム。
フランスの国歌が絶え間なく響いている。


エリゼ宮の晩餐会で使用されるテーブルウエア。
第五共和制のド・ゴール大統領が使用し、
その後も歴代の大統領が使用した執務机。ルイ15世の時代の貴重なもの。
ただひとり、ジスカールデスタンは使わなかった。
机の後ろの椅子はルイ16世様式。

2階にあるカフェは明るく、座り心地がいい椅子が並べられていて、ゆったりした気分で軽食やドリンク、種類豊富なケーキを楽しめる。コーヒーは3,5ユーロ。ガラス窓の向こう側に大統領官邸のエリゼ宮を見ながらひとときを過ごすのは、とってもいい感じ。


2階のカフェ。突き当りの窓の向こうにエリゼ宮が見える。

私が選んだのは、ポンパドゥール・ヴァニラプリン。
9ユーロ。
ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人が
エリゼ宮を購入し暮らしていたことがあるから、記念に。