2018年5月5日

メトロの駅名は語る 83

Place Monge
プラス・モンジュ(7号線)

卓越した数学者であり科学者、政治家のギャスパール・モンジュを称える広場名が、そのまま駅名に使用されています。

ギャスパール・モンジュ(1746-1818)

微分幾何学を開発したのはモンジュで、物理をはじめとする多くの分野に活用されています。物理学や数学教授として活躍し、科学アカデミー会員にも選ばれました。

1789年に革命が起きると、フランスでもっとも重要な教授と言われていたにもかかわらず、その職をさっさと捨て革命派に初期から加わります。

ジャコバン党のメンバーになり、そこで後に失脚して処刑されるロベスピエールやサン・ジュストと知り合います。

国王一家が国外逃亡を試みて失敗に終わり、チュイルリー宮殿で厳しい監視のもとに暮らしていた1792年8月10日、パリの有志と軍が宮殿を襲撃。それ以降、国王一家はタンプル塔に幽閉されます。

その日、暫定執行理事会で海軍大臣に任命されたモンジュは、コンコルド広場に面した立派な海軍省で職務に励みます。

その建物はもともと王家の家具や宝飾品、武器を管理していたもので、マリー・アントワネットがパリに滞在するときの居室もありました。

コンコルド広場に面した双子の建物。
右は旧王室家具保管館で後に海軍省が置かれます。

左は現在のクリヨン・ホテルと一部はオートモビルクラブ。

王室家具保管館だった時代には、
マリー・アントワンットの居室もありました。

王妃好みのエレガントな家具ばかり。
下に行くに従って細くなる脚の家具は、
ルイ16世様式と呼ばれ、今でもフランス人が一番好きな様式。

この建物のファサードはルイ15世の時代に建築され、ロワイヤル通りをはさんだ反対側の現クリヨン・ホテルと対になっています。2020年公開を目指して現在工事中です。

海軍省では華やかな舞踏会も開かれました。

誕生したばかりの共和国政府は混乱するばかりで、意見の衝突も頻繁にあり、嫌気がさしたモンジュは1793年、海軍大臣を辞任。

その後、フランス一のエリート校として名高いポリテクニック創立にかかわります。

やがてナポレオンの時代を迎え、ボナパルト将軍の最初のイタリア遠征に加わります。美術にも造詣が深いモンジュは、占領地イタリアの美術品をフランスに送るさいに選択を任されます。

その後、エジプト遠征の際に同行。歴史を重んじるナポレオンは、学術捜査を実施するために各分野の学者を167人も連れて行きます。モンジュはその一人でした。

砂漠の蜃気楼 19世紀初期
彼はエジプトで初めて見た蜃気楼の現象の貴重な記述をします。そのために蜃気楼を「モンジュの現象」と呼ぶこともあります。

数多くの偉業をなしたモンジュは複数の勲章を授与し、1989年にはフランスの栄光のために尽くした偉人の霊廟、パンテオンに遺灰が移されました。