2019年5月3日

レオナル・ド・ダヴィンチ、没後500年


フランスで没しフランスに眠る
レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452年4月15日―1519年5月2日)

レオナルド・ダ・ヴィンチが没して500年の今年、イタリアやフランス、イギリスで多くのイヴェントがあります。ダ・ヴィンチの命日5月2日には、彼の終焉の地であるロワール河畔アンボワーズで、フランス大統領マクロンとイタリア大統領マッタレッラ列席の元にセレモニーが行われました。

ダ・ヴィンチをフランスに招いた
フランソワ1世。

イタリアのルネサンス巨匠ダ・ヴィンチが、その最後の3年間をロワール河畔で送ったのは、当時のフランス国王フランソワ1世から招聘を受けたからです。1515年5月10日、ミラノ公国を占領したフランソワ1世は、そこに開花していたルネサンス文化に感激し、何とか自分の国にも同じような洗練を極めた文化をと強く希望し、ダ・ヴィンチを招くことにしたのです。フランソワ1世はそのほかイタリアの建築家、画家、彫刻家も招き、フランスにルネサンスが生まれ、華麗に育ち、国王は「ルネサンスの父」と呼ばれるようになります。

メルツィ(1491-1570)
サライ(1485ー1524)
「洗礼者ヨハネ」のモデルといわれています。

1516年秋ダ・ヴィンチはミラノを発ち、ロバや馬でアルプスを通りフランス国王が待つロ―ワル河へと向います。二人の弟子メルツィとサライ、召使いバティスタ、そして離れがたかった3点の作品が巨匠に同行します。その3つの傑作は「モナ・リザ」「洗礼者ヨハネ」「聖アンナと聖母子」で、現在ルーヴル美術館に展示されています。

モナ・リザ
洗礼者ヨハネ

聖アンナと聖母子

フランソワ1世がダ・ヴィンチに住まいとして提供したのは、ロワール河畔のアンボワーズ城近くにあるクロ・リュセ城で、1471年に建築されたレンガを豊富に使用した瀟洒な城館です。庭園には池やブドウ畑もあり周囲には豊かな森が広がっていました。王の居城アンボワーズ城とクロ・リュセ城は地下の通路でつながれていて、国王は父のように慕っていたダ・ヴィンチと気兼ねなく会っていたそうです。

国王の居城、ロワール河畔のアンボワーズ城。
ダ・ヴィンチが暮らし生涯を閉じたクロ・リュセ城。

画家であり、エンジニアであり、建築家でもあったダ・ヴィンチですが、右手が麻痺して絵が描けなかった彼がクロ・リュセで主に手掛けていたのは建築でした。特に運河をひいて水の中に浮かぶような巨大なロモランタン城の建築に情熱を捧げていました。けれどもその界隈で疫病がはやったので、断念せざるを得なくなり幻の城となります。

ダ・ヴィンチが情熱を注いでいた、
ロモランタン城のデッサン。

その他、多くの発明や業績を残しただけでなく、ミラノの宮廷で行っていたように、祭典の演出や衣装までも手掛け、フランス宮廷にエレガンスをもたらせました。国王の全面的信頼を受け多くの夢を実現していたダ・ヴィンチでしたが、1519年5月2日、病の末67歳の生涯を異国で閉じたのでした。

伝記によってはダ・ヴィンチはフランソワ1世の腕の中で息絶えたとされ、感動的な絵まで描かれていますが、フランスではそれはあり得ないことだったとなっています。なぜなら国王はその日、パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レイ城に滞在していたと記録があるためです。

晩年の自画像。
ダ・ヴィンチは哲学者でもあったと
フランソワ1世は称えていました。

死期が近づいたことを悟ったダ・ヴィンチは遺言を残し、その中でアンボワーズのサン・フロランタン教会に埋葬してほしいと希望を述べています。その教会は住民たちが誰でも自由に入れる祈りの場で、そこを永遠の住処にしたかったダ・ヴィンチでした。けれども1807年、サン・フロランタン教会は取り壊され、遺骸はアンボワーズ城敷地内にあるサント・ユベール礼拝堂に移されます。それは15世紀に建築された王家の人々のみが祈りを捧げられる特別な場で、「王の礼拝堂」と呼ばれていました。


ダ・ヴィンチが眠るサント・ユベール礼拝堂


ダ・ヴィンチが眠るサント・ユベール礼拝堂は後期ゴシック様式で、きめ細やかな彫刻が施された優美な建造物です。美しいルネサンスの花をフランスにもたらした天才にふさわしいように思われます。中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの墓と記された墓石もあり、王家の紋章にもなっているユリの花が供えられています。ダ・ヴィンチ没後500年記念の2019年5月2日、フランスとイタリア大統領は、それぞれユリのブーケを手に礼拝堂内に入り、墓石の上に静かに置いていました。