2025年7月29日

マリー・アントワネット自叙伝 54

 タンプルへ

タンプルに向かったのは8月13日夕方6時でした。馬車に乗る前に、私たちの身を案じずっと従ってきた貴族たちに、お礼と別れの言葉をかけました。多くの貴族がタンプルでもお仕えしたいとおっしゃってくださったのですが、コミューンはそれは受け入れられない、従者は最低限の人数にすると冷酷だったのです。タンプルに向かう馬車に乗る前に、忠実な貴族たちに身を切られる思いで別れを告げました。

側近たちとの別れはとてもつらく、
胸が張り裂ける思いでした。

タンプルに向かう馬車に乗る際にも、
ぜひともお供させて下さいと涙ながらに懇願する貴族もいました。

心が張り裂ける思いで馬車に乗り、そのまま真っ直ぐタンプルに行くのだと思ったのですが、そうではなく、わざわざ遠回りをして、国王一家を勝利品のように群衆たちに見せつけていたのです。沿道には共和国を支持する兵士や市民が押しかけ、馬車に向かって怒りの言葉を投げていました。


特にひどかったのは、ヴァンドーム広場で馬車が一時期止まったことです。その広場はルイ14世がご自分の栄光を称えるために建築させたもので、中央には国王の雄々しい騎馬像が置かれていました。けれども、その騎馬像は8月10日に怒り狂った民衆によって破壊され、地に落とされ、その無残な姿を私たちに見せるのが目的だったのです。

ヴァンドーム広場の中央には、
ルイ14世の凛々しい騎馬像がありました。

青銅のその騎馬像は旧体制の象徴だと、
8月10日に暴徒たちによって破壊されたのです。

馬車は約2時間かけてタンプルに向かってゆっくりと進んで行きました。そこに着いた時にはすっかり日が暮れていました。私たちの運命はその日からさらに大きく変わったのでした。

 マレ地区にあるタンプルには、中世のヨーロッパで活躍したテンプル(フランス語でタンプル)騎士団の本卿が置かれていました。聖地エルサレムに向かう巡礼者を守るために、1119年に設立された、修道士であると同時に兵士にょって構成されていました。

フランスだけでなく、様々な国から集まる寄付は莫大だったし、騎士団に守られているから非常に安全だと、財産管理を頼む人も年々増加。12世紀半ばのルイ7世国王の時代から、フランスの国有金でさえタンプル騎士団に預けられていたのです。

大きな信用と財をものにしたタンプル騎士団は、やがて国王フィリップ4世の嫉妬と怒りをかい、14世紀初頭に騎士団は廃止され、すべての財産は没収され、マレ地区の本拠地もその役目を終えたのでした。


タンプル騎士団の本拠はマレ地区にあり、
膨大な敷地内には様々な建造物がありました。
厳重に管理されていたし、秘密も守ってくれるので、
もっとも信用できる場所だったのです。



敷地内には豪華な建物がいくつもあり、
周囲は厳重な塀で囲まれていました。
タンプル騎士団最高指導者の宮殿のような館。

有力な貴族コンティ公が旧最高指導者の館に暮らしていた時に、
イギリス風アフタヌーンティーを催し、
神童と評判があったモーツアルトを呼び、
クラヴサンを奏でさせたこともありました。

夫の末の弟アルトワ伯が、タンプルの管理を任されていた時代に、かつての騎士団最高指導者の館に招待されたことがあります。陽気で、遊ぶことが大好きな彼は私の遊び相手で、ゲームや舞踏会、賭け事も一緒に楽しんだ仲です。
贅沢好みのアルトワ伯は、この館も豪華な家具で飾り立てていました。

ふと窓の外を見ると、何となく不吉な感じがする薄汚れた塔が見えたので、彼に遠慮なく言ったのを覚えています。

「あのような塔は一刻も早く取り壊した方がいいわ」

その塔は敷地のはずれにあり、中世に建築された50メートルの高さで私にはとても不気味に見えたのです。

まさかその塔に暮らすようになるとは、夢にも思っていませんでした。

左はかつての最高指導者の豪奢な館。
その窓から見えた右の塔は、陰惨でとても不気味でした。

2025年7月24日

パリの壁を飾るモザイクのアート

 ある日、いつも通りお散歩をしていたら、壁にかかれている絵が目に入った。それは、もう何年もまえからあり、見慣れているので、そのまま通り過ぎようとした。
「それにしても、建物の壁にいつまでも残しておいていいのかしら。規制がうるさいパリなのに」
と、ちょっと不思議に思い、近づいてみたらびっくり。ナンと、それはモザイク画だったのです。

それ以降、気を付けていると、モザイク画があちこちにある、ある。カラフルで、ユーモアがあり、オリジナリティに富んでいる立派なストリートアート。ベージュ色の単調な壁に、インパクトを与えていて楽しい。サイズがどれも小さいのは、美観を損ねないためからか、と思っている。それに、私が見た限りでは、歴史的建造物やメインストリートは避け、ちょっと入った壁のみ。作者は不明だし、その意図はわからないけれど、芸術の都パリならではの光景。

エリザベス2世がパリの壁を飾るとは・・・
高い空の上から見下ろしているみたい。
女王はフランスが大好きで、
外国の公式訪問で一番多かったのはフランス。
大きな目がグルグル動いているみたい。
いたずらっ子のような表情がかわいい。

そっくりなのが他の壁にも。
同じ作者なのでしょう。

広い壁を住まいにしている、
かなり個性的でわがままそうなネコ。

左下の番地は、多分、この建物に関係がある人の作品でしょう。
炎の中に⑨の数字が見える。
右上のタコはモザイクではないけれど、
愛嬌があるのでオマケ。
かなり薄汚れた壁でも、控えめなストリートアートで生気が生まれる。

ルーヴル美術館もびっくりしそうなモナリザ。
息をしている女性のようで、親しみやすさがある。

高い所で何しているの?ずっとそこにいるつもり?
落ちないように気を付けてネ。

2025年7月18日

パリジェンヌの夏の装い

 異常気象で猛暑が続いたかと思うと、急に気温が10度も下がったり。それが2日ほどで終わり、また、猛暑。こうした気まぐれな気候の中でも、パリジェンヌは、自分好みのお洒落を楽しんでいて、街にいつも通り花をそえています。

黒と白はパリジェンヌ好み。

今年は背中がザックリと開いた服が多い。
これで自転車で風をきって走るなんて
さぞかし気持ちいいでしょう。

スーパーでショッピング。
スタイル抜群だし、
レジで待つ立ち姿も絵になっている。
ジーンズのミニとスニーカー。
若さの象徴。

黒一色でエレガント極まりない。
大人ならではの装い。

連日、長い行列が出来るケーキ専門店で、
自分の順番がきて、嬉しそうに店内に入る瞬間。
シンプルなドレスと豪華なヘア飾りが良く似合う。

花柄のミニのワンピース。
真夏にぴったり。
大きなおリボンをつけて、
少女時代を楽しむのも、たまにはいい。

2025年7月10日

マリー・アントワネットヘのオマージュのジュエリー


創意あふれる唯一無二のジュエリーは
メレリオカラーのグリーンのケースの中。

世界最古を誇るジュエリーメゾン、メレリオが画期的な作品をクリエイト。そのお披露目はヴェルサイユ宮殿敷地内にあるホテル・レストラン「ル・グラン・コントロール」で行われました。1681年にルイ14世お気に入りの建築家マンサールにより建築され、18世紀には財務長官の邸宅だったこの瀟洒な建物内のレストランは、アラン・デゥカスがプロデュースする洗練された美味を堪能できるだけでなく、18世紀風の衣装に身を包むスタッフが行き交い、華やかな宮廷生活の時代へといざないます。

そうした由緒ある場でメレリオが披露したのは、王妃マリー・アントワネットへのオマージュのネックレス。最高級のさまざまなカラフルな貴石、熟練のアルチザンによる綿密なカット、セッティングが織り成すネックレスのトップを飾るのは、パイナップル。王冠を被っているようなパイナップルは、「果物の王」と呼ばれ、宮廷でもてはやされていました。

審美眼の持ち主マリー・アントワネット。
服装、ヘアスタイル、インテリアに繊細な感性を生かした王妃は、
高貴な輝きを放つジュエリーを格別愛していました。

「ル・グラン・コントロール」での王妃へのオマージュのジュエリー紹介とディナーの前に、ヴェルサイユ宮殿内のマリー・アントワネットの私室を訪問。

王妃は内庭に面した目立たない場所に、プライベートタイムを過ごせる数部屋を設け、子供たちとお気に入りの女官、髪結い師、デザイナー、画家など、ごく限られた人のみが訪れることが出来たのです。その各部屋のインテリアは、すべて王妃のアイディア。その中で、特に興味深いのは、パイナップルの絵が施された壁布に飾られたふたつの部屋。

1493年、コロンブスが西インド諸島で発見し、スペインに持ち帰ったパイナップルは、今まで見たこともないエキゾチックな形と味で、またたく間に王侯貴族を魅了。スペインと深い関係にあるフランス王家にもほぼ同時にもたらされ、大きな関心を呼んだのです。温室栽培のパイナップルは高額なので、それを味わえるのは富と権力がある限られた人のみ。宮廷の食卓でデザートとした出されたり、絵に描かれたり、ヘアスタイルにまで影響を与えたこともあるのです。

そうしたパイナップルをマリー・アントワネットは、インテリアに取り入れたのです。審美眼を持つ王妃ならではのアイディア。このようにして、ルイ14世時代のバロック様式、ルイ15世のロココ様式で飾られたヴェルサイユ宮殿の一角に、新風が吹き込まれたのでした。

メレリオとマリー・アントワネットの絆が生まれたのは1780年のこと。散歩を終え宮殿に戻る際に、ジャン=バティスト・メレリオが制作したブレスレットに目を止め、魅了され、購入したのです。ローマ皇帝のプロフィールを彫った7つのカメオを、7つのガーネットの花が囲むそのブレスレットは、王妃の透き通るような肌に良く似合ったことでしょう。

マリー・アントワネットとメレリオの架け橋になったこのブレスレットは、現在もメレリオにとってかけがえのない宝物。そうしたメゾンだからこそ、王妃に捧げるジュエリー制作は意義があります。

王妃の研ぎ澄まされた感性が実現させた、パイナップルの壁布にインスピレーションを得たネックレスは、メレリオのアーティスティック・ディレクター、ロール=イザベル・メレリオさんの創案。マリー・アントワネットへのオマージュのこのジュエリーは、気品、輝き、華やぎ、優しさ、現代性があふれ、際立ったオーラを放ちます。

ヴェルサイユ宮殿で王妃のプライベートルーム訪問後、
同じ敷地内の「ル・グラン・コントロール」に向かい、
テラスでシャンパーニュで乾杯。
その後サロンに入り、
いよいよマリー・アントワネットに捧げるネックレスの紹介。


陽光を浴びるネックレスのキラメキは、
この世のものとは思えないほど華麗で気品が満ちている。
その場にいた誰もがあまりの美しさに声を失い、
ただ、ただ、見つめるばかり。
感動に心身が震えたほど。
燦然と輝くジュエリーを目の前にし、
周囲の光景は瞬時になりをひそめ、
幻想世界に誘われたよう。


パイナップルからインスピレーションを得て、
鮮やかな色とりどりの貴石で世にも稀なネックレスをクリエイトした
ロール=イザベル・メレリオさんの才知に感嘆しないではられない。


興奮を抱えたままディナールームに向かうと、そこもまたまた夢の世界。フランスが世界に誇るアール・ドゥ・ヴィーヴルが目の前に・・・華やかな花飾り、炎が揺れる無数のキャンドル、天井からシャンデリアが柔らかなあかりを届け、その中で18世紀風の衣装のサーヴィス係りが優雅な微笑みを浮かべながら、次々と運ぶお料理は、どれも美味ばかり。すべてが終ったのは真夜中近く。
何てステキなテーブルセッティング。
ああ、これが誰もがあこがれるフランスのアートなのです。

テーブル上にさり気なく飾られているパイナップル。


パイナップルのフォルムのデザート。
こだわりのメゾンならではのアイディア。

ドレスコードはカクテル。

18世紀風コスチュームのスタッフの
行き届いたサーヴィスを受け、
王朝時代にタイムスリップしたよう。

刺しゅう入りのブローチ。
プレゼントまでいただいて、
この日の思い出は、
記憶に深く刻まれます。

1613年の創立以来、現在も同じ家族が経営している、唯一の歴史を刻んでいるメレリオならではの、稀に見る上質なイヴェント。キラメキ輝く宝石のようなひとときでした。

メレリオのジュエリーは、日本では高島屋、大丸などで取り扱っています。

2025年7月6日

セーヌ川で泳げる!!!

 猛暑が続いてるパリで、今、話題の涼しいお話。

去年のオリンピックで、セーヌ川で泳ぐ競技が行われ、大成功。それでは夏の間、一般の人も泳げるようにしよう、と決定され、7月5日から8月31日まで、パリのど真ん中のセーヌ川で泳げるのです。

泳げる範囲は決まっているとはいえ、
100年ぶりにセーヌ川で泳げるなんて、現実とは思えない。

ただし、泳げる場所は限定されていて、15区のグルネル河岸の自由の女神像がある界隈。4区のシュリー橋の付近、そこからはサン・ルイ島が見える。12区のベルシーで国立図書館が見える場所。泳げる時間は限られているので、事前に時間を調べることが大事。

一番心配されるのは水質。これに関しては毎日、厳密な検査をするとのこと。大雨で水が汚れた場合には、即、閉鎖。健康管理もしっかりしているし、シャワーやトイレの設備もある。複数の監視員もいる。無料というのも魅力。

汚染がひどかったセーヌ川で泳げるなんて、夢のよう。ルイ14世の時世の17世紀にはシュリ―河岸で水浴を楽しんでいて、男性だけでなく女性も布で体を包んでセーヌ川に入っていたと記録がある。1913年6月22日には飛び込み選手権が開催されたほど、セーヌ川での水泳は盛んだったし、人気があったのです。それが禁止されたのは1923年で、汚染がひどすぎ人体に危険と判断されたため。1世紀ぶりの出来事だから興奮するのも無理ない。

1921年、セーヌ川で水浴を楽しむ人々。
この2年後から禁止。

パリの2000年以上の歴史を見つめてきたセーヌ川は、パリ市民の心のふるさと。そこで再び泳げるのは、最大の喜び。連日おおにぎわいが続くでしょうし、外国からわざわざ来る人も多い。今、再び世界の脚光をあびているセーヌ川。

2025年7月2日

猛暑に襲われるフランス

 6月末から7月上旬にかけて、フランスのほぼ全土で猛暑が続き、幼稚園や小学校が閉鎖される地域もあり、親が仕事に出かける場合、子供をどうするかと悲鳴をあげる人もいる。

早朝は空気がさわやか。
でも、それも7時ころまで。

それ以降は雲一つない空で、
空を見上げていることも出来ないほど太陽が強い。

7月1日は南仏は41度、パリは39度。1300をこえる公立学校が臨時休校。扇風機やクーラーがとぶように売れている。こんな異常気象の中、行きつけのスーパーが、電気回線の問題があるからか、冷房なしに加えてエスカレーターも動かない。レジの人は水で濡らしたタオルを首に巻いて仕事。
食料品売り場にはワンちゃんは入れない。
だから、アツイ、アツ~イ外で待つほかない。
ぐったりしていてかわいそう。
幸い、この直ぐ後に飼い主が戻ってきました。
よかったネ。

この異常な暑さはパリの場合3日ほどで終わるらしいけれど、その先に、また、ということがあるかも。ヴァカンスを早める人も多く、例年より早くパリ脱出。7月14日の軍事行進はどうなるのかしら。準備が進められているけれど・・・

2025年7月1日

マリー・アントワネット自叙伝 53

チュイルリー宮殿と永遠の別れ

 

チュイルリー宮殿を離れた私たちは、議会へと歩いて向いました。議会はルイ15世の時代の厩舎であり調馬場に置かれていました。51メートルもの長さがあり、幅は14メートル、高さ9メートルの立派な建物。幼少時代にチュイルリー宮殿に暮らしていらしたルイ15世は、そこで乗馬の練習をなさっていたそうです。

ところが国王がヴェルサイユ宮殿に宮廷を移し、そこに厩舎も造られたので、チュイルリーの厩舎には、乗馬学校が置かれました。

1789年10月6日に、私たちがヴェルサイユ宮殿から無理やりパリに連れて来られ、チュイルリー宮殿に暮らすようになった時、議会もパリに移され、その議場としてかつて厩舎だった建物が選ばれたのです。

ルイ15世がチュイルリー宮殿に暮らしていたころ、
乗馬の練習をしていたこの建物に、
革命後、議会が置かれました。

当時の議会は、このような状態だったのです。
その後、徐々に本格的になり、
夫も何度も議会に臨みました。

議会に着いた私たちは、議員たちの無遠慮な視線を一斉に浴びました。何の前触れもなく国王一家が到着したので、かなり驚いたようです。議員たちは声を発することもなく、興味津々の視線を投げ続けていました。その中を、夫は顔をこわばらせながらヴェルニオ議長に向かって歩みより、議長の隣に立ち、議員たちに向かって言いました。

「余は大きな罪を犯さないためにここに来たのである。諸君に囲まれているのが最も安全だと余は思っている」

それに応えたヴェルニオ議長の言葉は

「陛下、議会の強さを頼りにしてください」

でした。

それが私たちを守ることを意味したのか、あるいは、国民代表の議会は、何よりも強いのだと言いたかったのかわかりませんでした。


チュイルリー宮殿前では激しい戦いが始まり、大砲が打ち鳴らされる音は議会にまで届いていました。議長席の裏にある部屋が一番安全とのことで、私たちはそこで事の成り行きを見ることにしました。

刻々と入ってくる知らせは、悪いものばかりでした。

行進曲「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら、マルセイユからパリに到着した連盟兵が一番気が荒く、率先して宮殿入り口の柵を破壊し、スイス兵を殺し、次から次へと大声をあげながら部屋を駆けずり回り、カーテンをずたずたに切り、高価な家具や絵を壊し窓の外に投げつけたのです。

暴徒たちは宮殿内を奇声をあげながら走り回り、
家具や縁、彫刻を破壊したのです。
フランスが誇る文化芸術、伝統の尊さは、
彼らには何の意味もなかったようです。

同国人同士の戦いに嫌気がさし、群衆側につく国民衛兵が後を絶たず、宮殿防御は不可能になったとの怖ろしい情報も入りました。自分たちに忠実なスイス兵の犠牲者をこれ以上出したくないと思った夫は、発砲を中止し、兵舎に戻るようメモを送らせました。団結した連盟兵と群衆は約2万人にものぼっていたのです。


勝利に酔った連盟兵たちの大騒ぎは終わりを知らず、クラヴサンで「ラ・マルセイエーズ」を奏で、大合唱になったことも知りました。そのクラヴサンは私愛用のもので、それで民主主義を求めて蜂起した人々が、武器を取って暴君を倒せなどと歌ったのは皮肉です。私の心は徹底的に傷つきましたが、それを隠して、いつもの通り王妃の威厳を保つ努力をしていました。

チュイルリー宮殿が荒らされたからには、そこに戻ることはできません。議会は王一家がその日から暮らす住まいを探さなけれなければなりませんでした。

議会には泊まる部屋がないので、取り合えず、そこから歩いて行ける旧フイヤン修道院に行く決定がなされました。もはや私たちは議会が決めることに従うのみで、発言権さえもありませんでした。


赤い矢印が議会が置かれていた旧厩舎。
青い矢印が旧フイヤン修道院。
このように、徒歩で行かれる距離でした。
議会の右にチュイルリー宮殿と庭園が見えます。

私たちが不安な一夜を過ごしたフイヤン修道院は
16世紀に建築されました。

一日の間にあまりにもいろいろなことがあったので、娘と息子はすぐに眠りにおちいりましたが、大人たちは、今後、何が起きるかと心配で一睡もできませんでした。夜11時ころに役人が来て、私たちがそれぞれ部屋に留まっているか確認していました。

その間に、議会では国王一家を今後どこに暮らさせるか討論していたのです。リュクサンブルク宮殿やヴァンドーム広場の司法省という案が有力だったのですが、警備がしにくく、ヴァレンヌ逃亡の二の舞になる可能性が大きいとされ、タンプル塔が選ばれたのでした。