2025年9月14日

ヴィクトル・ユゴーの遺書

フランス国民に圧倒的に愛された、ロマン主義を代表する詩人であり、小説家であり、劇作家であり、後年には政治家となったヴィクトル・ユゴーが世を去ったのは140年前。人生100年時代が語られる今日では、まるで、最近のことのように思える。

ヴィクトル・ユゴー
1802-1885

彼の代表作「レ・ミゼラブル」や「ノートルダム・ド・パリ」は何度も劇や映画、ミュージカルになり、どれも好評をはくし、今でも話題にのぼるほどの人気。特に、ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」は、あまりにも話題になるので、これは観なくてはと気づいた時には遅く、希望の日の席がとれず、パリで見逃したので、ロンドンに行って英語版を観ることに。

ヴィクトル・ユゴーは10代半ばからすでに詩人として才能を発揮し、それから間もなくして、詩だけでなく、劇、小説を立て続けに発表。後年には共和派として、民衆の味方となったユゴーは、ナポレオン3世の独裁政治を激しく非難し、亡命生活を送るはめに陥るが、ナポレオン3世失脚と共にフランスに戻り、凱旋将軍のように熱狂的に迎えられる。ベルギーやイギリス領の島などで、19年の長い間亡命生活を続けていたが、その間にも執筆活動は衰えることはなかった。後に、政治家として活躍するが、執筆の意欲もユゴーから去ることはなかった。

20歳のヴィクトル・ユゴー

文豪が波乱に富んだ生涯を閉じたのは、1885年5月22日で、83歳。広く国民に愛されていた人にふさわしく、国葬が執り行われ、パンテオンに手厚く埋葬される。ユゴーは綴っていた。「人生最大の幸福は、愛されているいう確信である」

ヴィクトル・ユゴーの国葬。
黒いヴェールに包まれた棺は一晩凱旋門の下に置かれ
翌、6月1日10時30分にセレモニー開始。
アンヴァリッドで21の大砲が空高く発射され、
19人の各代表の演説の後、霊柩車はシャンゼリゼ、コンコルド広場、
サン・ミッシェル大通りを通り、パンテオンへと向かう。

学校や劇場は閉まり、沿道には約300万人が集まり、
フランスが誇る文豪に最後の別れる告げていた。

シャンゼリゼを通りコンコルド広場に向かう
ユゴーの霊柩車。

その数年前、1881年8月31日、ユゴーは遺書を書いた。その後、1883年8月2日に、先に書いた遺書の貧しい人々への寄付金を、4万フランから5万フランとしている。このために寄付の金額がまちまちに報道されることがある。この貴重な遺書を保管している国立公文書館が、4カ月間展示を決定し、光栄なことにヴェルニサージュに招待された。文豪の肉筆の遺書を目前にし、そこに書かれている文に心が打たれ、ただ、ただ、見つめるのみ。

・・・・神。
    魂。
    責任。

    この3つの概念は人間に取って充分であり、
    私に取っても充分だった。
    これは真の宗教である。 私はその中で生き、その中に死ぬ。
    私は、地上の目を閉じる;けれども霊的な目は開かれたままだ。
    今まで以上に大きく。

    私のすべての原稿、
    発見されるであろう書いたりデッサンしたそのすべてを  
    パリ国立図書館に寄贈する。

ユゴーは魂の存在を信じ、彼にとって愛は魂の一部で神聖なものだった。

  ・・・・ 私は貧しい人々に4万フランス寄付する。
       彼らの霊柩車で、墓地まで運んもらうことを願う。
       すべての教会の祈りを拒否する。
       すべての魂に祈りを捧げてほしい。 
       私は神を信じている。


国立公文書館のガラスケースの中に展示されている
ヴィクトル・ユゴーの遺書。(中央)


展示されているのはユゴーの最後の遺書。
生涯に5回遺言を書いたという記録がある。

遺書が入っていた封筒

自ら自由思想家だと語っていたヴィクトル・ユゴーは、カトリック教会の権威や制度に抗議していた。神を心から信じていたが、教会は信じなかった。神と人間の間にはキリストのみがいる。貧しい人、不幸な人、虐げられる人・・・神の愛はこうした恵まれない人々の中にいるとユゴーは信じていたのだった。

私がユゴーの本に出会ったのは小学生の時だった。学校の図書室で見かけた「ああ無常」というタイトルに惹かれ、本を開いた記憶がある。「レ・ミゼラブル」の子供むけの翻訳本で、キリスト教ヒューマニズムあふれる内容に、小さな心が震えたのを今でも覚えている。


国立公文書館の豪華な階段。
もとは大富豪の貴族の館だった。
その時代のロココ様式の名残りが随所にある。