フランス国民に圧倒的に愛された、ロマン主義を代表する詩人であり、小説家であり、劇作家であり、後年には政治家となったヴィクトル・ユゴーが世を去ったのは140年前。人生100年時代が語られる今日では、まるで、最近のことのように思える。
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ヴィクトル・ユゴー 1802-1885 |
彼の代表作「レ・ミゼラブル」や「ノートルダム・ド・パリ」は何度も劇や映画、ミュージカルになり、どれも好評をはくし、今でも話題にのぼるほどの人気。特に、ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」は、あまりにも話題になるので、これは観なくてはと気づいた時には遅く、希望の日の席がとれず、パリで見逃したので、ロンドンに行って英語版を観ることに。
ヴィクトル・ユゴーは10代半ばからすでに詩人として才能を発揮し、それから間もなくして、詩だけでなく、劇、小説を立て続けに発表。後年には共和派として、民衆の味方となったユゴーは、ナポレオン3世の独裁政治を激しく非難し、亡命生活を送るはめに陥るが、ナポレオン3世失脚と共にフランスに戻り、凱旋将軍のように熱狂的に迎えられる。ベルギーやイギリス領の島などで、19年の長い間亡命生活を続けていたが、その間にも執筆活動は衰えることはなかった。後に、政治家として活躍するが、執筆の意欲もユゴーから去ることはなかった。
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20歳のヴィクトル・ユゴー |
文豪が波乱に富んだ生涯を閉じたのは、1885年5月22日で、83歳。広く国民に愛されていた人にふさわしく、国葬が執り行われ、パンテオンに手厚く埋葬される。ユゴーは綴っていた。「人生最大の幸福は、愛されているいう確信である」
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ヴィクトル・ユゴーの国葬。 黒いヴェールに包まれた棺は一晩凱旋門の下に置かれ 翌、6月1日10時30分にセレモニー開始。 アンヴァリッドで21の大砲が空高く発射され、 19人の各代表の演説の後、霊柩車はシャンゼリゼ、コンコルド広場、 サン・ミッシェル大通りを通り、パンテオンへと向かう。 |
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学校や劇場は閉まり、沿道には約300万人が集まり、 フランスが誇る文豪に最後の別れる告げていた。 |
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シャンゼリゼを通りコンコルド広場に向かう ユゴーの霊柩車。 |
その数年前、1881年8月31日、ユゴーは遺書を書いた。その後、1883年8月2日に、先に書いた遺書の貧しい人々への寄付金を、4万フランから5万フランとしている。このために寄付の金額がまちまちに報道されることがある。この貴重な遺書を保管している国立公文書館が、4カ月間展示を決定し、光栄なことにヴェルニサージュに招待された。文豪の肉筆の遺書を目前にし、そこに書かれている文に心が打たれ、ただ、ただ、見つめるのみ。
・・・・神。
魂。
責任。
この3つの概念は人間に取って充分であり、
私に取っても充分だった。
これは真の宗教である。 私はその中で生き、その中に死ぬ。
私は、地上の目を閉じる;けれども霊的な目は開かれたままだ。
今まで以上に大きく。
私のすべての原稿、
発見されるであろう書いたりデッサンしたそのすべてを
パリ国立図書館に寄贈する。
ユゴーは魂の存在を信じ、彼にとって愛は魂の一部で神聖なものだった。
すべての教会の祈りを拒否する。
すべての魂に祈りを捧げてほしい。
私は神を信じている。
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国立公文書館のガラスケースの中に展示されている ヴィクトル・ユゴーの遺書。(中央) |
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展示されているのはユゴーの最後の遺書。 生涯に5回遺言を書いたという記録がある。 |
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遺書が入っていた封筒 |
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国立公文書館の豪華な階段。 もとは大富豪の貴族の館だった。 その時代のロココ様式の名残りが随所にある。 |
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