2013年6月1日

ナポレオン、腹心の部下コーランクールの子孫

パリ市内には、有力な貴族が暮していた瀟洒な邸宅が多数残っています。そのほとんどは、政府関係の建物として使用されているし、諸外国駐仏大使公邸になっているのもある。美術館になっているのもある。
軍人であり外務大臣もつとめた、
ナポレオンの腹心の部下コランクール。
館の入り口の大きな肖像画

ナポレオンの家族や部下の子孫も、同じように大邸宅に暮していました。そのひとつが、ナポレオンの腹心の部下コーランクールの子孫の館。5月末にナポレオン史学会会員が招待され、しかも、その館を直径子孫の案内で訪問することができ、大いに感動しました。

コーランクールの
直径子孫おふたりと
18、19世紀の趣のサロンのひとつ
革命前から続く侯爵の称号を持つ貴族の家に生まれたコーランクールは、その才知、勇気、貴族ならではの気品をナポレオンに高く評価され、次々と重要な地位につき、その名を歴史に残し、パリ市内の道路名にもなっているほど。ナポレオンの栄華の象徴、パリの凱旋門にも彼の名が刻まれています。

ロシア大使を務めたこともあるコーランクールは、彼の目から見て無謀と思われるロシア遠征計画を、ナポレオンに思いとどまらせようと試みたこともあります。ところがナポレオンはそれを無視し、軍を進め、大敗。打ちひしがれた皇帝がパリに戻る際に付き添った、唯一の軍人がコーランクール。1812年12月7日から18日まで続いたのその長旅の間に、 皇帝はコーランクールに多くを語り、後年、コーランクールは数冊に及ぶ忠実な記録を発表。それが多くの事実を正確に伝えたのです。

ナポレオンの頭髪
家族所有の貴重な遺品
後にパリに進軍した連合軍の前に屈したナポレオンは、ついにフォンテーヌブロー城で皇帝退位を決意。エルバ島に流刑されることがわかると、妃マリー・テレーズに渡して欲しいとコーランクールに七宝焼きのオブジェを託します。それは今では家宝になっていて、
金庫に保管していますが、この日、特別に見せてくださいました。その直後、皇帝はコーランクールの目をかすめて服毒自殺を試みる。幸い、毒がきかなかったためにナポレオンは一命を取り留めたのでした。

こうした歴史を、コーランクールの子孫は立て板に水のごとくに語ります。そこには書物では伝わってこない、特別な感動があります。特に、フォンテーヌブロー城におけるナポレオンの様子を 細部にわたって記録したコーランクールの自筆の手紙を、古びた封筒から手袋をはめながら取り出し、その一部を読み上げたときには、感激で涙を目に浮かべる人がいたほど。フランスの歴史の重要な一こまを体で味わった、貴重な日でした。