2025年9月21日

マリー・アントワネット自叙伝 57

 タンプル塔で本格的な生活がはじまりました

タンプル塔の1階には、4人の役人用のベッド、事務机、タンスなどがあり、役人は国民衛兵とそこで食事もとっていました。2階には40人ほどの衛兵が詰めていて、野戦用のベッドが置かれていたようです。3階は夫と息子用で、4階には女性たち、つまり私、娘、夫の妹エリザベート王女さまのお部屋がありました。

②夫と息子の部屋 ③侍従クレリ―の部屋 ④ダイニングルーム
⑨私と娘の部屋 ⑪夫の妹の部屋 ⑬世話係ティソン夫妻の部屋

塔での生活は毎日同じことの繰り返しでした。どの家庭でも同じでしょうが、家族そろってお食事をし、子供たちに勉強を教え、時にはゲームをしたり、お散歩したり、と。私は義理の妹エリザベート王女さまと刺繍をしたり、楽器を奏でたりすることもありました。嬉しいことに、私が大好きなクラヴサンを塔の中に入れてくれたのです。子供の頃からお風呂好きの私のために、バスタブもありました。


夕食は毎回、家族そろっていただいていました。
とは言え、監視員がすぐ近くで見ているので、
たいした話も出来ず、静かなひとときでした。

時にはお散歩もしました。
子供たちにとっては、
それが一番たのしい時間だったようです。

タンプル塔に来た時にはとにかくすべてが急に決まったので、充分な服がなく、4枚のシュミーズと4枚のスカート、バスローブ、ロングコートくらいしかなったのです。それではあまりにも可愛そうだと思ったのか、洋服のオーダーは寛大でした。数人のデザイナーが服を仕立ててくれましたが、ヴェルサイユ宮殿で私の「モード大臣」だったローズ・ベルタンのが一番気にいっていました。彼女は私に似合う服を自分のアトリエで作って、タンプル塔まで納品してくれたのです。


王妃お抱えのデザイナーだった彼女は、当然、革命家たちから捕らえられる運命にあったのでしょう。でも、アトリエの人は、皆、生活のために働かざるを得ない一般国民なので、ベルタンを捕えたらそうした人が仕事を失うことになるので、控えたようです。

私だけでなくエリザベート王女さまにも寛大で、私と同じ服を何度もオーダーしていました。彼女はヴェルサイユ宮殿にいたときから、いつも私と同じドレスを注文していました。きっと好みが同じだったのでしょう。タンプル塔で夫や娘、息子の身に付ける品も注文していたので、出費は多かったと思います。


このように、最初の間は寛大だったのです。もしかしたら、国王一家ではなくなったけれど、そうせざるを得ないような雰囲気が、私たちにあったのかも知れません。

真面目な夫は、将来国王になるかもしれない息子に、熱心に勉強を教えていました。フランス語の読み書きはもちろん、ラテン語、数学、歴史、地理など、いろいろな科目を教えていて、夫が博学な人であることに改めて関心しました。私は主に躾に気を配りました。侍従だけでなく、コミューンの役人たちにも、きちんと挨拶するよう注意していました。

真面目な夫は息子にさまざまな科目を教えていました。
彼がこれほど博学だったのかと、私は驚くと同時に、尊敬しました。
国王になるより、
学者として研究に生涯を捧げるほうが合っていたような人だったのです。

ほとんどの家具は小塔に暮らしていた古書保管バルテルミー所有のもので、かなり上等なものばかりでした。夫のベッドは四本の柱が付いたグリーンのダマスのカバーがあるシックなもので、安楽椅子、ソファも同じグリーンのダマス張り。大理石をあしらったタンスがあったし、置時計も立派なものでした。私たちの椅子もソファも同様にグリーンのダマス張りで、クッションが厚く座り心地がいいものでした。

監視人が常にいたとはいえ、家族そろってのお食事は心和むひとときでした。ベテランの料理人が担当していたので、お料理も美味しく、宮殿時代と大きな変わりはありませんでした。


お食事に関しては特別に気をつかってくれて、チュイルリー宮殿での料理人が、タンプル塔でも担当するよう計らってくれたので、私たちの好みに合ったお料理ばかりでした。

複数のスープ、複数の肉料理、お野菜もフルーツも豊富でした。ワインを飲まない私のために、ヴェルサイユ宮殿近郊のヴィル・ダヴレーのお水をわざわざ運んでくれました。その地のお水のクオリティーは一番いいとされていて、フランスに嫁いでから私はヴィル・ダヴレーのお水しか口にしませんでした。


タンプル塔での生活は監視が厳しく不自由で、それが大きな不満でしたが、家族そろっての日々は大した変化もなく落ち着いたものでした。

けれども日が経つに連れて、世の中が変わっていく様子は、私たちにも伝わっていました。侍従クレリーの妻がときどき塔を訪れ秘かにクレリーに語っていたのです。クレリ―夫人のマリー・エリザベスは私に音楽の手ほどきをしていた音楽家で、私たちがタンプル塔に暮らし、ご主人も侍従として同じ塔に暮らすことになると、すぐ近くに部屋を借り、私たちを慰めるために、きれいな曲を奏でて下さったのです。でも、それも禁止されてしまい、寂しい思いをしました。


夫の唯一の侍従クレリ―。
彼はルイ・シャルルが生まれたときには、その侍従となり、
チュイルリー宮殿に暮らすようになったときから、
夫の侍従になり、タンプル塔には自らすすんで侍従を続けたいと
パリ市長に頼んだのでした。

何よりも驚いたのは、ヴァレンヌ逃亡を失敗に追いやったサント・ムヌー駅長ジャン=バティスト・ドルーエが、1792年9月に国民公会の議員になったことです。ドルーエはもっとも急進的で危険とされていたジャコバン派に属していました。過激なダントンやロべスピエール、マラーと同じ派です。

このジャコバン派と穏健なジロンド派が、勢力を争っていたのです。私たちの運命はどちらの派が実権を握るかにかけられていました。詳しい事柄はわかりませんでしたが、役人たちの態度から、あまりいい方向に向かっていないことは察知していました。