2012年6月26日

ナポレオン、モスクワ遠征200年

モスクワ市の手前の
モスクヴァでの戦いに勝利を得た
ナポレオン大遠征隊
フランス皇帝として栄光の頂点にいたナポレオンは、宿敵ロシア征服のためにモスクワ遠征を計画。大軍を率いて意気揚々とサン・クルー城を出発したのが
1812年5月6日。
200年前のことです。

ロシア入りしたフランス軍は、ニーメン河を越え6月24日に戦闘開始の準備を整えました。
ところがロシア軍がどこにも見当たらない。次の村でも、その次の村でも同じ。廃墟のような村にいるのはわずかな非戦闘民のみ。

クレムリンでモスクワの火災に
驚愕するナポレオン
占領地で食料などの補給をする予定だったフランス軍は、それもかなわず先に進むに連れて乏しくなる一方。その上なれない牧草を食べる馬もバタバタと倒れる始末。
これはロシア軍の策略であったのに、ナポレオンは部下の進言に耳を傾けることもなく、徐々に泥沼にはまっていったのです。彼は以前のように鋭敏な指導者ではなくなっていたようです。

ロシア軍との最初の交戦があったのは
スモレンスク。
数年前にポーランド大統領夫妻はじめ多くの官僚が飛行機事故で亡くなり、その名は多くの国で語られることになりました。
8月16日ー17日の激戦に続き、9月7日はボロジノの会戦。フランスが大勝利をおさめモスクワへの道が大きく開かれ、ナポレオンは顔をほころばせながらモスクワへ、クレムリンへと向かったのです。

モスクワから退却するスランス軍
9月15日にモスクワに入ったものの人影もなかったばかりか町中に火がつけられ、モスクワの主だった建造物はことごとく焼け崩れました。
住民をモスクワから避難させフランス軍の供給をたつために、モスクワに火をつける命令を出したのは、
ロシアの司令官、クツーゾフ。

ナポレオンはスモレンスクまで戻り軍をたてなおし、ロシア軍を攻める計画でしたが、途中でコサック兵やパルチザンの襲撃にあい、その上、厳しい冬将軍の到来。
ナポレオンが誇る軍団は多くの兵士が飢えや病、寒さで命を失い、
ぼろぼろの軍服をまとい、死んだ馬や同士の遺体を奪い合って食べるみじめな軍となり、祖国へと帰っていったのです。

この戦いはロシアの文豪トルストイの「戦争と平和」に書かれ、チコフスキーが「1812年」を作曲。

6月25日に始まったロシア遠征は、今年200記念を迎えました。フランスでもロシアでも重視。特にフランスではナポレオンの戦地をたどるツアーまで組まれ、私も所属しているナポレオン史学会が主催。ということは、専門家の講義つきでかなり有意義な旅のはず。参加したかったのですが、2週間もの長旅とのことで迷っていたら、150人の定員がすぐにいっっぱいになったそう。

ナポレオンはこのようにいつまでも根強いファンが多いのです。